泉鏡花の蛭
韮崎旭
泉鏡花の蛭
その山でした。「出過ぎた真似はしないことにしていまして」、とクリームパン色の目をした彼女が言ったのは、ナメクジが空気中に過密状態で詰め込まれたかのように充満する湿気がうっとうしい夜のこと(昼はうっとうしいどころか殺人的である)で、公園でストロングゼロをあけながら、どこか醒めた目をした彼女がそう述べるさまは、まるでこの世のものとは思われぬ、背筋が寒くなるようなはかなさを高濃度で含んでいたように思えました。「今更人間の真似事だなんて」彼女は滴る血を皿で受けながら、自分がクリームパンになった経緯をぽつりぽつりと途切れがちにこぼすのでした。その瞳はどこまでもきつね色に香ばしく、振りかけた粉砂糖は千年の星でした。クリームパンのかなたから現れたプソイドエフェドリンの楽園は彼女を地獄に引きずり込みましたし、それはそれは緩慢な悦楽とはく奪および、自身への棄民の強要でした。彼女は自信を裏切り、冒涜し、みじん切りにし、そうしてきわめて好きだったクリームパンと混ざり、今ではその教会もあいまいです。毎朝牛乳を買いに出かけるときも、毎晩人身事故が起こる駅でも、クリームパンは彼女の一部であり、彼女はそれゆえ許されない身だったのでした。それが恐ろしいことだとは思いませんが、それでも時折憐れむことを、どうかこの下品で下賤な私に、辞世のきかない同情心をもつことを、許してくれる神がどこかにいたらいいなと思うことはあります。
それは彼女がもっとも必要としないものでした。彼女は孤高で、崇高で、卑賤で、だれよりも罪深く、だれよりも神を無視していましたし、すべてが豪雨かクリームパンになって降り注ぐ夜と硫黄の烈火を、無感情に見つめているような、そんな、場違いさを抱えておりました。ですから、彼女がこぼした言葉はあるいはこの世への最後の恋文に書かれた、一説だったのやもしれませんけれど、そうとしても、カスタードのように甘い血を、ねばりつきながらこぼすのは、泣いているからでしょうか、それとも、自傷? 彼女の底知れなさは確かに酵母のふわふわとしたパン生地に似て、つかみどころのない柔らかさで疑問をどこか遠くに運び去り、散乱させてしまいますし、彼女の荒涼とした心象風景は、その、焼いてからしばらく置いて生地のほてりを落ち着かせたクリームパンの、寂しさに似ているようでした。世界は連鎖したクリームパンで満たされ、落ちた日は二度と戻らないように思える晩でした。酒にクリームパンな彼女は、劣化でも腐敗でもない堕天の在り方を確かに示した聖者の遺灰にも近く、その清らかさは水源地のようで、触れることを恐れずにはいられない、冷涼な水の鋭利。だから三缶目のストロングゼロを彼女が明けたところで、私はこういわずにはいられませんでした。
「クリームパン。」
泉鏡花の蛭 韮崎旭 @nakaimaizumi
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