穴熊のドン
栗本法務大臣と会った週の日曜日、瀬口は櫻井幹事長の自宅に呼ばれた。用向きは「将棋の相手をして欲しい」とのことだった。もちろんそれが表向きの理由であることは暗黙の了解だ。
櫻井邸に着くと、女中の案内で櫻井の待つ和室に通された。すでに将棋盤が用意されていて、駒は袋に入れた状態でその横に置かれている。その部屋は手入れの行き届いた日本庭園に面していて、時折聞こえるししおどしの音が侘び寂びの風情を醸し出している。
「よく来てくれたな、最近は骨のある相手に恵まれないものでな」
櫻井が袋から駒を盤上にあけた。瀬口はアマチュア四段の腕前で、将棋には自信のある方である。一方の櫻井は公式な有段者ではないが、〝櫻井式穴熊〟と呼ばれる独特の陣形を持つ戦法で、これが組み切られると勝率は八割を超え、相手にはほとんど勝ち目がなくなるという。
穴熊を阻止するには歩、香車、桂馬などの小駒で小刻みに崩す必要があるが、生来攻撃的で振り飛車を得意とする瀬口は、その根競べで負けてしまうのだ。
「……参りました」
瀬口が投了した。相手を楽しませて負ける、一番良い負け方をしたと瀬口は自負した。ところが櫻井の機嫌はあまり良くなさそうだ。
「君は私の負けだと思っているのだろう」
「そんな滅相もありません」
「最近、私の周りで不穏な動きがあるのは知っているな。この私を化石扱いしおって、虎視眈々と私の没落を狙っている輩がひしめいておるわ」
「そうなのですか」
「惚けるな。君はこの前、栗本法務大臣と接触しただろう」
瀬口は頭の中で瞬時に計算した。櫻井か栗本か、どちらの味方であるべきか。それによって返答は変わってくるが、答える前に櫻井が話し続けた。「どうせ私の尻尾を掴めとか言われたのだろうが、……それならそれでいい。私について君の知っていることを全て話すんだ」
「え? それはどういうことですか?」
「栗本に取り入って味方だと思い込ませ、逆に向こうの弱味を探るんだ……君も気楽でいいだろう、隠し事をする必要がないのだからな。わかったことを両方でペラペラ喋ればいいのだ。君がどちらの味方につくかは、勝敗が見えてからでも遅くはないだろう」
瀬口は背筋が凍る思いがした。老獪さでは栗本や鵜殿とは器が違うのだ。
「栗本は将棋盤の上でチェスのクィーンのように動き、勝ったつもりになっている。だが所詮ルール違反だ。反則する者は追放される運命にある。あの雌狐も思い知ることだろう」
櫻井はさも自信ありなんという構えだが、これは将棋のような一対一の勝負ではない。いかに堅固な穴熊と言えども、複数の相手に持ち堪えることが出来るのか疑わしい。瀬口はそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます