御供と百瀬 その2
そしてまた、百瀬朱里との個人教誨が始まった。教室には午後の日が射し込み、外からは〝校庭〟で運動にいそしむ黄色い声が聞こえる。法務教官に促され、着席した朱里が頭を下げた。
「よろしくお願いします」
その時、林檎のようにほのかな香りが漂った──御供にはそのように感じられた。しかしこの塀の中で香りのついた化粧水などは身につけられる筈はない。考えればわかってしまうことだが、御供はあえて感じるままに任せた。
「御供先生、始めて下さい」
法務教官に促されて、御供は我に返る。
「す、すみません、それでは……賛美から始めましょうか」
御供は聖歌集をパラパラとめくる。一般によく知られているのは「いつくしみ深き」や「驚くばかりの恵み(アメイジング・グレイス)」だ。
「百瀬さんは、何か知っている賛美歌はありますか?」
御供が訊くと、朱里は宙に目を浮かべて歌いだした。
〽︎
(君は愛されるため生まれた)
「……この歌、どこで覚えたんですか?」
「バイトしていた韓国料理店の店長が良く歌っていたので、意味も分からずに覚えてしまったんです。あとで意味を教えてもらって、すごく素敵な歌だと思いました」
「その店長ってクリスチャンだったんですか?」
「はい、熱心なクリスチャンの方で……いつもお祈りばっかりしていました。仕事の相談があっても、お祈りの最中は相手にしてくれなくて困ったこともありましたけど……」
朱里はそのことを思い出しながら苦笑した。愛らしい仕草である。
「すると、個人教誨を希望したのは、その店長さんがきっかけですか?」
「はい……店長さんにはすごくお世話になってたんです。けれども私が逮捕されて、麻薬中毒者と知ってきっと怒っていらっしゃると思っていました。ところが私がここに来て早々に面会に来て下さったんです。その時の店長さんは、私を麻薬中毒者としてではなく、以前と同じように接してくれました。そこにはわざとらしさとか、偽善的なものは感じられなかったんです。そして帰り際にこう言って下さったんです。『あなたを愛しています』と。それを聞いて、純粋にありのままの私を認めてくれている、そう感じて胸がいっぱいになりました」
「愛しています、ですか……」
多分店長は純粋な気持ちでそう言ったのだろうが、御供は少し複雑な気持ちで聞いた。
「麻薬について、店長さんは何も言わないんですけど、店長さんが罪と思うことなら私はそれを断ち切りたい、そう思ったんです」
「それでこの前、聖書で麻薬についてどう言及しているか、質問したのですね」
「ええ……御供先生、あれから何かわかりましたか?」
「そうですね、僕も色々調べてみました。直接的な言及はないものの、さまざまな原則を照らし合わせてみると、麻薬を摂取することに聖書は否定的であると言わざるを得ません」
「やっぱり、そうでしたか……」
朱里は俯いた。麻薬を断ち切る困難さは本人が一番良く知っている。
「でも
「そうだといいのですけど、難しいかもしれません……」
更生の意志はある。しかし、自分の弱さも自覚している。そんな朱里を、教誨師として何とか助けてあげられないものかと御供は悩んだ。
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