チェロ弾きとハンカチ

 拘置所の中で死刑囚のために用意されている〝運動場〟は、その名前からはとても想像出来ないほど手狭な空間だ。サッカーや野球など当然できるものではなく、せいぜい気晴らしに体操するのが関の山だ。

 古川はそこでラジオ体操をするのが楽しみの一つだった。めったにほめられることのなかった子供時代、上手だとほめられたことがきっかけでラジオ体操が病みつきになった。それは大人になり、働くようになってやがて死刑囚になっても続いた。

 その日は天気が良く、日差しが強かった。そのような中で激しく体操していた古川は、突然目の前がチカチカと光ったかと思うと意識が薄れていき、その場に倒れ込んだ。


 古川が目を覚ますと、医務室の中にいた。さらに驚いたのは、先日岩山の上で会った、チェロ弾きの青年がそこにいたことだ。

「あ……こんにちは……」

「こんにちは。そうそう、今日は忘れ物を届けに来たんだよ。ほら、この前これを置いていっただろう?」

 そう言って青年が差し出したのは、一枚のハンカチだった。行きつけの食堂の店員、山田聖美がプレゼントしてくれたものだ。青年が手渡したそれは、皺が伸ばされてきれいに折りたたまれていた。

「ありがとう……探してたんだ、これ」

 すると青年は微笑んだ。

「それと、これも持って来たよ」

 青年がベッドの下から持ち出したのはチェロのケースだった。カチャリと金具が外れ、蓋が開くと中にチェロが横たわっている。木材とニスの混ざった匂いもほのかに鼻先をくすぐる。

 青年はチェロを弾き始めた。古川はクラシック音楽には詳しくなかったが、今奏でられているのは恐らくこの世にまだ存在していない曲だろうと思った。

「君も弾いてみるかい?」

「弾き方、わからない」

「じゃあ教えてあげよう」

 青年は古川にチェロの弾き方を手取り足取り教えた。弓の持ち方、引き方、弦の押さえ方。だが古川の動きはぎこちない。

「難しいね」

「練習して、少しずつ上手くなっていくから楽器は楽しいんだよ。〝成長〟ってそれ自身が美しく、崇高だとは思わないかい?」

「よくわからない」

 古川はそう言いながら、眠くなってきて、ベッドに横たわった。

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