1-5 尋問

 ……以上が、矢木さやかが学校に忍び込むまでの経緯である。ここで話を学校侵入以降に戻そう。


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 さやかは大成警備保障の会議室で、先ほど遭遇した男性警備員から尋問されていた。警備員の名は蔵野江仁くらのえひと。欧米風に読めば、エヒト・クラノ。すなわち、血眼になって探していた伝説のピアノ調律師・エヒトクラングその人に違いないとさやかは踏んだのだ。きっと師匠がエヒト・クラノと言ったのを、ザイファートがエヒトクラングと聞き違えたか、あるいはその紛らわしい本名に因んでそういう渾名がついたかどちらかであろう。

 そのことをさやかが言うと、蔵野はフンと鼻でせせら笑う。

「私がドイツで活躍していた伝説のピアノ調律師だと? 人違いだ、わかったらさっさと帰りたまえ。不法侵入は見逃してやろう」

「Sie lügen doch. Sagen Sie mal die Wahrheit(嘘ですね、本当のことを言って下さい)」

「嘘などついていない。ピアノ調律師のことなど知らん」

「ドイツ語分かるじゃないですか!」

「大学の第二外国語で取ったからな。それぐらい分かって当然だ」

「じゃあ、これでどうですか?」

 さやかはスマホを机の上に置き、ミュージックアプリの再生ボタンを押した。すると、ピアノの曲が流れてきたが、蔵野は耳を押さえて悶えだした。

「や、やめろ! なんだ、この気持ち悪い音は!」

 さやかは冷ややかな微笑を浮かべ、ピアノを再生させたまま言った。

「ふふふ、調律の狂ったピアノで私が弾いたんです。どうです、我ながら名演だと思いますが?」

「何が名演だ、こんなのじゃないか、早く止めたまえ!」

 さやかは蔵野の要求通り、そのを停止させた。

「私は全然気にならないんですけど……優秀な調律師の方って、狂ったピアノの音に我慢出来ないそうですね。……これでもあなたは伝説のピアノ調律師エヒトクラングではないと、シラを切るおつもりですか?」

 すると蔵野はあたかも白旗を上げるように手をかざした。

「わかった、君の言う通りだ。私はドイツでピアノ調律師をしていた。私のことをエヒトクラングなどと言う輩がいたのも知っている。だが、それが何だと言うんだ?」

「実は……」

 さやかは堂島エージェンシーの依頼を受けてザイファートとの交渉にあたっていることなどを話した。

「なるほど。しかしそれはいささか買い被りすぎだ。私はピアノの世界から足を洗ったのだ、いまさら復帰するつもりはない」

「そこを何とか、ご無理は重々承知しておりますが、どうか一肌脱いでいただけないでしょうか?」

「残念だったな。私には人前で裸になるような趣味はない」

 蔵野のやや品のない返しに、さやかは顔を赤らめた。

(もう……本当に調子狂うわ……)

 さやかは気を取り直し、再度説得に挑む。

「とにかく……クリス・ザイファートさんはあなたを必要としているんです! なんでも、彼の師匠、デニス・ヴァージッツ氏にバッハにふさわしい音を作って差し上げたそうじゃないですか。今回、どうしてもその音が必要なんです!」

 さやかの弁に熱がこもる。しかし、蔵野は馬鹿にしたように、フフンと鼻を鳴らす。

「な、何がおかしいんですか!?」

「知っているかね。口うるさい人間というのは、丸め込むのも容易い。怯まずに堂々としていればいいだけだ」

「……何がおっしゃりたいんですか?」

「あのヴァージッツという男もだな、偉そうに『バッハ時代のチェンバロの魂を現代ピアノに蘇らせて欲しい』なんて言うものだから、調整して『ご覧なさい、これこそバッハの音だ』とハッタリかましてやったのだ。そうしたらヴァージッツの御仁はバッハッハと大喜び。ようは、アンデルセン童話〝裸の王様〟に出てくるペテン師と同じことをしたわけだ」

 さやかは腹が立って来た。どうしてこんな世の中なめ切った男に頭を下げなくてはならないのか。しかし、これには彼女自身の将来がかかっている。引き下がるわけにはいかない。

「お話はよくわかりました。もし、あなたが〝裸の王様〟のペテン師だとおっしゃるのならそれでもいいです。とにかく引き受けていただけませんか?」

 蔵野はすぐには答えず、しばらく考え込んだ後に口を開いた。

「クリス・ザイファート……あのデニス・ヴァージッツの弟子だといったな」

「ええ、そうですが」

「本当にペテンでいいんだな?」

「え……」

 今度はさやかが返答に窮する番だった。ペテンと言っても程度がある。後々問題になるのはごめんだ。と、そんなさやかの心中を見透かしたように蔵野が言った。

「安心したまえ。クリス・ザイファートを必ず満足させてやる。そのかわり、もらうものはちゃんともらうからな」

 こうして、何とか蔵野に仕事を引き受けさせたさやかであったが、本当に大丈夫かと、半ば不安な気持ちで大成警備保障を後にした。

 

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