1-3 曲芸師

 さやかはザイファートが滞在しているホテルを前田から教わり、早速そこへ向かった。フロントに呼び出してくれるよう頼んだが、ザイファートからの応答はなく、どうやら不在とのことだ。

「……わかりました。ロビーで待たせていただきます」

 とさやかが言うと、フロントの係員はこっそり耳打ちするように言った。

「もしかしたら、この近くで大道芸をやっておられるかもしれません。ザイファート様がされているのを見た者がいるんです」

 そう言って係員は、同僚がザイファートの大道芸を目撃したという場所をさやかに教えた。さやかは礼を言ってそこへ向かった。


 くだんの場所に到着すると、多くの人だかりが出来ていて、その中心で一人の曲芸師がジャグリングをしていた。さやかは携帯に保存していた画像と見比べてみた。曲芸師はクリス・ザイファートで間違いなかった。

 さやかは演技の邪魔にならぬよう、少し離れたところで見物した。やがてザイファートがトーチに火をつけると、観客たちは一気に沸き立った。火に近づかぬよう子供をギュッと抱きかかえるママたちの姿が目立った。ザイファートがわざと危なっかしくよろけると、子供たちは一斉に歓声を上げて、好き勝手に囃し立てた。そうして大盛況のうちに演技は終了。観客たちもまばらになったところで、さやかはザイファートに近づいた。近くで見ると、三十歳という年齢の割には若く見えたが、頭のてっぺんが少し薄くなっていた。

「あのう、すみません……」

 しかしザイファートは取り合おうとせず、「ゴメンネ、ワタシ、ニホンゴ、ワカラナイ……」と返してきたので、さやかはコホンと咳払いをして言った。

「Guten Tag, Herr Seifert. Ich bin Sayaka Yagi von der Firma Dōjima-agency(こんにちは、ザイファートさん。私は堂島エージェンシーの矢木さやかです)」

 するとザイファートは肩をすくめてドイツ語で返答した。

「堂島エージェンシー、なるほど、というわけね。でも残念だね。君、あんまり好みじゃない……」

 ひどい、あんまりだわ……などと傷ついている場合ではない。

「ち、違いますっ! 私はドイツ留学の経験を買われて急遽このプロジェクトに採用になり、あなたの担当になったんです」

 さやかは〝説得〟というニュアンスを敢えて避けたが、ザイファートには彼女が何をしに来たのか察しがついていた。

「なるほど。フラウ・ヤギ、あなたのドイツ語は前の担当者よりは大分ましなようだ。しかしね、僕は御社に騙されたんだ。何を言われようとあなたがたのオファーを受けるつもりはない」

「騙された? ……すみません、話だけでも聞かせていただけませんか?」

 ザイファートは返事をせず、ジャグリング道具を片付けていた。さやかはその様子をじっと見つめていたが、さやかが帰ろうとしないのを見て取ると、ザイファートは観念したように言った。

「……いいだろう。話すだけ話すよ」


 ザイファートは話す場所として近所のスターバックスを指定した。

「僕の故郷の町ではね、十年前にスターバックスがようやく登場したんだけど、あまり流行らなくてね、去年撤退したんだ」

「そうですか……」

 あまりにもどうでもよい話題にさやかが苛ついていると、それを察したようにザイファートが居住まいを正した。

「無駄話はよそう。……御社が来日公演の打診をして来た時、僕は『ピアノは〝エヒトクラングEchtklang〟が調律すること』って条件で承諾したんだ」

エヒトクラング本物の響き?」

「ああ。僕が学生の頃に師事していたデニス・ヴァージッツ先生から聞いた、伝説の日本人調律師だ。ヴァージッツ先生は音へのこだわりが強い人でね、バッハなどバロックの曲をピアノで弾こうとはしなかった。ところが、ある時どうしてもピアノでバッハを弾かなくてはならない場面に遭遇した。悩んだ先生はエヒトクラングの噂を聞き、あらゆる伝手を通して何とか依頼することが出来た。そしてそのエヒトクラングの作る音色は、現代ピアノでありながらバッハを弾くのに相応しい音で、先生は驚嘆してそうだ」

 ザイファートは喉が渇いたのか、一旦話を切ってキャラメルマキアートを飲み込んだ。

「エヒトクラングは数年前に日本に本帰国したそうだ。それでヴァージッツ先生は、僕に『日本に行くことがあれば、是非ともエヒトクラングに調律を頼むといい』と助言してくれた。そういうわけで、僕はエヒトクラングの調律を条件とし、御社の担当者もそれを承諾した筈だった。それなのに、いざ日本に来てみれば、調律師は違う人だった」

 話が見えてきた。調律師が頼んだ人と違っていたので怒っていたのだ。

「あの……仮にですけど、その〝エヒトクラング〟という調律師を探し出して担当させれば予定通りコンサートしていただけますか?」

 ザイファートの返答までには少し間があった。さやかにはそれが長く感じた。

「……本当にコンサート前日までにエヒトクラングを見つけられるというのなら、予定通り演奏する。ただし、それが出来なければこの話はなし、違約金も払わない。それでどうだ?」

 さやかは考えた。本来自分の権限で決められることではない。しかし、即断しなければコンサート決行のチャンスはもうないだろう。

「わかりました。必ず〝エヒトクラング〟を見つけて調律させますっ!」

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