新人研修

 一九八二年 磐田


 ミヤケモータース本社ホールに於いて、当年度の入社式が行われた。入社式はスケジュール的には、一週間にわたる新人研修会の中ほどにあり、適度に絞られ緊張した面持ちが、ホールの座席をビッシリと埋めていた。

 この宿泊研修会は学生気分の抜けきらない新人たちに社会の厳しさを教え込むための通過儀礼であり、さらにモチダと抗争中にある状況下で厳しさは増して、ほとんど軍隊教育と化していた。あまりの厳しさに、この研修期間中に退職を決断する者も少なくなかった。そのような中で、入社式での奥山勇社長のスピーチはまるで砂漠の中のオアシスだった。奥山は雄弁であった。会場にいた誰もが彼の演説に心躍り、打ちひしがれた心に希望が蘇っていた。このようにして、自己実現のためには会社のために尽くして出世するしかないと皆が決意していくのであった。

 この研修会にヘルプ要員として借り出されていた草野も、奥山勇の語る言葉に圧倒された。初めて見た奥山は、雑誌などから想像していたよりもはるかに大きく見えた。そして耳を傾けている新人たちの顔つきがみるみる変わっていくのがわかった。この中の何人かは、草野の後輩となる。だが、その多くは大卒で、草野よりも年齢は上となる。不思議な気持ちだ。自分の一年間の社会経験は、果たして彼らの四年間の勉学に匹敵するのだろうか……などと考えていると、心許ない気持ちになる。そんな中、新入社員決意表明が行われたが、壇上に上がったのは、期待の新人と噂される桜田豊さくらだゆたかだった。その立ち居振る舞いや話しぶりはとても新入社員とは思えないほど堂々として貫禄があった。草野の記憶が正しければ、彼は大阪営業所に配属される筈だった。

(やれやれ、こんなにしっかりした後輩に来られたら立場ないな……)


 新人研修の中で特にキツイのは、早朝のランニングであった。約5キロの道のりを、かなりのハイペースで走る。

「モタモタすんな! これくらいのランニングでヘコタレるような奴にはとてもミヤケの社員は務まらんぞ!」

 指導員はしきりにゲキを飛ばす。多くのものが息を切らしそうなのに、平気な顔で走っている。聞けば、社会人サッカーチームの元選手ということだ。なぜかヘルプ要員である草野も一緒に走らなくてはならない。気を失いそうなほど苦しかったが、後輩達の目の前で倒れてしまっては、後々どれほど馬鹿にされるかわかったものではない。歯を食いしばって何とか走り切った。平気な顔で走り抜いたのは指導員だけではない。あの桜田豊も涼しい顔でゴールしていた。何でも、京都大学アメフト部所属だったと言う。まさに文武両道というやつだ。ホントに嫌なヤツが後輩として来るな……と思っていると、指導員が怒鳴り出した。

「一人足りないぞ! 誰だ、いなくなっているのは!?」

 全員が互いに顔を見合わせて確認する。やがて一人が手を上げて発言した。

「谷村がいません!」

 谷村浩一たにむらこういち……大阪営業所配属となっている一人であった。

 指導員の怒鳴り声はあまりに大きく、あたりにこだましてエコーのように残響が残る。

「大阪営業所のメンバーは急いで谷村を探せ! 食事の時間までに見つからなかったら、おまえらメシは抜きだからな!」

 すると、大阪営業所メンバーは蜂の巣を散らすように四方八方に走り去ろうとした。ところが、そんな彼らに桜田豊が「ちょっと待って!」も声をかけた。「みんながてんでバラバラに探しても非効率的ですよ。二手に分かれましょう。リーダーはそれぞれ僕と……草野さん、すみませんリーダーをしていただけませんか?」

 草野は頷いて承諾した。

 こうして桜田グループと草野グループに分かれて行方不明者である谷村の捜索に出かけた。桜田グループはスタート地点から、草野グループはゴール地点からコースを辿ることにした。そうすれば見つかっても見つからなくても途中で合流出来るという桜田の発案だった。

 

 そして、見つけたのは草野グループであった。谷村は木陰で青ざめた顔で蹲っていた。

「だ、大丈夫ですか?」

 尋ねる草野に目を合わせることも出来ず、谷村は振り絞るように答えた。

「……すみません、走っていたら急に目の前が真っ暗になって、そのうち身体が動かなくなってしまったんです」

「そうでしたか。とにかく、横になって下さい」

 草野はグループの他のメンバーに声をかけた。「すみません、宿舎へ行って担架を借りてきて下さい」

「わかりました」

 グループの数名が立ち去ると、草野は谷村を静かに横たわらせようとした。ところが……

「き、気持ち悪い……」

「え?」

 と聞き返すが先か、谷村は草野の衣服に向かって思い切り嘔吐した。

「うわあああっ!」

「す、すみませんっ!」

 その後、担架に載せられて谷村は宿舎に戻って行ったが、その間、草野は嘔吐物塗れの衣服を着たまま宿舎までの道のりを歩くしかなかった。そのえた臭いがは絶えず草野の鼻先を攻め続け、宿舎に戻ってシャワーで洗い流してもその臭いは鼻から抜けなかった。何とか夕食の時間には間に合ったものの、どの食べ物からも饐えた嘔吐物の匂いがして、結局食べられなかった。フラフラしながら席を立とうとすると、ガチャンという大きな音がした。見ると、谷村がトレイに載せた食器類を全部落としてしまったのだった。

「すみません、すみません……」

 ひたすら周りに謝る谷村。うんざりしている周りの目は冷ややかだ。どうやら相当鈍臭い男らしい。

(極端に優秀な男と極端に鈍臭い男が後輩になるのか……何やら先が思いやられるな)

 草野はふらつく足取りで部屋に戻りながら、はあっと深くため息をついた。

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