オオタカ女子とハシビロコウ男子

根古谷四郎人

第1話 墜落女子とカツなしカツサンド

「まもなく、泉、泉です。二番線への到着、お出口は右側―」

 通勤通学の人が多いこの時間帯でも電車で座れる。岐阜の田舎の良いところだ。俺はそう思いながら英単語帖を鞄にしまう。

「橋本!」

 立ち上がった俺に声をかけて来たのは、同じクラスの田口悠一だ。サッカー部に所属する。

「田口、お前普段電車一本早いよな?」

「寝坊した!」

「自慢げに言うな。朝練は?」

 電車を一本逃すと次は三十分後。岐阜の田舎の悪い所だ。朝練遅刻は不可避だろう。

「ダッシュすればワンチャンある!」

田口がそう答えた時、列車が丁度階段前で止まり、ドアが開いた。我先にと飛び出すビジネスマンたちと一緒に、田口も「じゃ!」 と挨拶もそぞろに駆け上がっていく。俺はそれを見ながらのんびり階段を上がる。俺は田口と違って朝練は無い。だが、あえて三十分も早起きしてこの列車に乗っている。

それは、俺のモットーが「平穏第一」だから。疲れる、慌てる、苦しい、目立つなど、心が乱れる事象は必ず回避するようにしているのだ。朝は混み合わず、かつ学校に確実に間に合うこの時間に列車に乗る。車両は階段前に停まる三両目。勉強は赤点を回避出来てかつ、優秀過ぎていちゃもんをつけられる事も無い平均ちょい上を保つ。委員会も仕事のほぼない美化委員。一応誰とでも分け隔てなく話すが、自分からは無理に絡まない。「存在感は薄いけど嫌われてもいない」という立木のようなポジションに落ち着いた。居場所が無いわけじゃなく、でもトラブルには巻き込まれにくい。まさに理想!

ただ、そこまで用意周到だとしても、俺も人間だ。時には意図せぬ不穏に巻き込まれる。この日は朝、炊飯器のスイッチを入れ忘れたのが全ての始まりだった。おかげで昼食の弁当は準備できず、さらに朝ごはんも食べずにここまで来た。

「はあ…しくったなあ。」

 俺は忌々しい今朝の凡ミスを思い出しつつ、昼飯用のおにぎり二つと、朝食用のサンドイッチ、それにお茶を購入。朝食を抜くと俺は必ず体調不良になる。そう分かっていてもお金を無駄にしているな、と嘆きたくなる。何かを無駄にするというのは俺の心が一番乱れる事象だ。

「あと四十分…。」

 学校までは自転車で二十分。何とかサンドイッチを食べる暇はありそうだ。駅のロータリー脇にある小さなベンチは、七月の強い日差しが良く当たる場所にあった。腰を下ろすとベンチと日差しのダブルの熱で早くも額にあせが浮かぶ。俺はお茶をがぶ飲みし、カツサンドの封を開けた。その、一口目をかじる前歯がパンに当たった時だった。

「しくったあああああーーーー!!」

「は?」

 頭の上から、女の子の声と…女の子が降ってきた。

「…はあああああああああああああああああ????!!!!」

 頭が状況を理解しきる前に、俺の全身に衝撃が走る。頭が再起動したときには、俺はうつぶせに倒れ、顔だけが正面を向いていた。そして目の前には、カツをくわえたまま、うつぶせに倒れている女の子。やっぱり顔だけが、こっちを向いている。

「……。」

 しばしの沈黙。そして、俺より先に女の子が起き上がる。

「ふぉふぇんふぁふぁい!ふふふぁっふぁ!」

「いや、あの…ああっ!?俺のカツ!」

 痛みが引いて来ると同時に俺は自分の朝食のメインが女の子の口にあるのに気付き

「わああ!?ごめんなさい!」

「飲み込んだ―――!」

 そして胃袋に消えたことを悟った。

「そ、それよりも!」

「のぅっ?!」

 だが食べ物の恨みもここまでだった。だって、目の前の見ず知らずの女の子が急に頭撫でてきたら、誰だってびっくりするよね?しかも、その女子が凄く美人だったらもう声も出ないだろう。俺の目の前にいる子は、手足がすらっと長くて、髪はサラサラの茶髪で、目鼻立ちがはっきりしたモデルみたいな人だった。特に赤銅色の目は印象的。丸くて大きくて、射すくめられるような強さがある。

「大丈夫だった!?痛くない?もしかして、打ちどころ悪かった?記憶喪失とかしてない?自分の名前分かる?」

「いや記憶喪失は無い…あの、首もげる」

「あー良かったあ。」ほっとしたせいか、女の子は急に饒舌になる。「ごめんね。今日に限って朝ごはん抜きだったの。寝坊して。で、学校行く途中にあなたがカツサンド食べてて美味しそう、って思ったら、ふらふら―ってあなたの方に墜落して…」

「いや他人のカツサンドのカツだけ食うって…ついらく?」

「?うん。空飛んでて、落ちた拍子にカツが」

「待って、空を飛んでてってどういう事?」

「え…文字通り、としか…。」

待て待て。人間は道具も乗り物も一切なしに空は飛べない。そんなの自明じゃないか。でも、確かに俺は空からこの子が落ちてくるのを見たし…。

「あ!?待って遅刻する!」

 遅刻、という言葉に俺もはっと我に返る。まずい、あと二十分しかない!俺はサンドイッチをお茶で流し込み、駐輪場へ行こうとした。

「待った!」

「ぐえ!?」

 女の子が俺のカッターの襟を掴み、ぐいと引きもどす。丸く凛とした目が俺を覗き込む。

「あなた、もしかして、泉北中?」

「え…うん。」

「よっし!私ね、今日そこに転校することになってたの!学校どっち?」

「あ、あっち。なあ早くしないと遅刻するぞ。」

「だから、今から二人で飛ぼう?」

 えっ、と聞き返す間もなく、俺の腕を引っ張って女の子が走りだす。向かっているのは、ロータリーの近くにあった雑居ビル。らせん階段を駆け上がり、屋上に出た。

「…あ、あれか!あの赤い建物!」

 建物のへりに足をかけ、遠くを見る女の子。確かに方角は合ってるが、遠すぎてここからは見えるはずが無い。

「いよっし!風向きも良好!さあ飛ぶよ。」

「は、ちょっと!?」

 女の子は鞄から、なぜか七月なのにマフラーを取り出し、なぜか俺の体を自分の足に括りつけた。そして柵の外側に立つ。女の子が立っているのがビルのへりだから、その足に括り付けられた俺の足は宙に浮いている。ひゅーひゅーという風の音。眼下に見える小さな車、人…。高所恐怖症の俺は、これから何が起こるか分からない恐怖も相まって、噴き出る汗は冷や汗に変わり、血の気も意識もすうーと引いていく。

「空中では出来るだけ縮こまっててね!建物にぶつからないように努力するけど!」

 他方、女の子は底抜けに明るい声でそう言った。話しかけられて何とか意識を失わずに済んだ俺は、ぱさついた口を必死に動かして尋ねる。

「あの、ちょ、今から何を…。」

「学校に行くんだよ!飛んで!」

 女の子は俺に笑いかけると―勢いよくビルのへりを蹴った。

「ひいいいいいいいいい!!!?」

 始めは、やけにゆっくりと姿勢が前のめりになっていった。え、落ちない?と思ったのもつかの間、急に重力が全身にかかり、眼下の道路がみるみる近づく。耳元で風がゴフォーっとうなる。俺は恐怖のあまり目をつぶった。もうすぐ死ぬんだ、俺。でも、なかなか地面に激突しない。あれかな、交通事故に遭うと全部スローに見えるってやつか。でも、最期の晩餐がカツ抜きカツサンドかあ……。

「ははははははは!いいー気分!」

 女の子の元気ではしゃぐ声に、俺は目を開けた。…生きている。宙ぶらりんになった自分の足の下で、通学路の風景がどんどん後ろへ流れていく。向かい風が俺の胸や腹を押し上げて、体重が無くなったような感覚だ。

「…え。マジで飛んでる?」

「だから言ったでしょ、飛んで学校に行くって。」

「いやだって…!」

 抗議しようと顔を上げて慌てて伏せる。俺は女の子の足に括りつけられているわけだから、上を見ると、スカートがはためいて、目のやりどころが…。

「カツ盗った上に遅刻までさせたら申し訳ないもん。学校も同じだし、一緒に飛んで行った方が、早くて楽でしょ!一応自転車とかバスも考えたけど、絶対遅刻しない方法は、やっぱり飛ぶこと!信号ないし超時短!」

 通学の選択肢に「飛ぶ」があるこの子は何者なんだ…。目だけ動かして横を見ると、どうやら女の子は両腕を大きく広げたままの姿勢で、高度を落とすことなく滑空しているらしい。道具を使っているわけではないようだ。ますます意味が分からないが、自転車よりもはるかにスピードが出ているのは確かだ。顔に当たる風が痛いから。

「んー、ここのフライトも悪くないねえ。」

 女の子の声には楽しくて仕方ないという気持ちが溢れていた。

「前はねー、もっとビルばっかりの町に住んでたの。だからその間をぬって飛ばないといけなくて。それはそれで楽しかったけどね。ここみたいに、障害物ゼロでまーっすぐ飛べる場所っていうのもいいなあ。」

「まさか、今までずっとこうして通学?」

「そうだね、飛べるようになってからは。」

 自転車乗れるようになったみたいな感覚で言ってる…。

「みんなに止められない?」

「あー、お父さんは止めてくる。お父さんも飛べるはずなんだけど」

「お父さんも飛べるの!?」

「でも、絶対教えてくれなかった。だから私は独学で飛べるようになったんだよ。」

 駄目だ、聞けば聞くほど疑問が増える。人って独学で、道具も一切なしに飛べるようになるのか?仮に飛べたとしても、こんなお手軽には使わないと思うけど。絶対悪目立ちする。

「見えてきたよ、学校!」

 俺が一人悶々とするうちに、眼下に泉北高校の赤レンガの建物が見えてきた。実際にはレンガ風になってるだけの鉄筋コンクリートの新しい校舎なんだけど。

「えーっと、じゃあ―」

「待った!正面は止めろ!」

「何でー?」

 何でって何で聞くのこの子!?いきなり生徒二人が上から降ってきたら目立つって分かるでしょ普通!?

「目立つとまずいの?」

「いや、質問攻めに遭うって!どうやって来たの、とか、何で空飛んでるんだ!とか。」

「んー。練習したら飛べるようになりました、としか言えないなあ。」

 だから、何で自転車と同じ感覚なんだよ!?

「それに、先生に怒られるぞ。飛んで登校なんて校則違反だろ。」

 実際のところは、校則にも「空を飛んではいけません。」とは書いていないだろう。そもそも空を飛ぶ生徒なんて想定しているはずもないから。

「あー…叱られるのはやだなあ。」

 とはいえ、校則という言葉を出したおかげで女の子の意思は変えられそうだ。

「じゃあ屋上!」

「だめ。今立ち入り禁止なんだ。えっと、右手に体育館があるから、そっち行って。」

 俺がそう言うと、進路がゆっくり右に変わり、体育館の横に来た。

「よし降りるよー!」

 と女の子が言った瞬間、前足を思いきり前にぶうん!と振ったので、俺は宙に放り出されるかと肝が冷えた。だが、体は上ではなくむしろ下へ、特にお尻に重力を感じながら落ちていき、俺と女の子は地面にしりもちをついた。痛い…。

「よし、八時二十分!間に合うね!」

 マフラーをといて鞄にしまいながら女の子は笑った。「よーし、玄関にだーッシュ!」

「待った!そっち倉庫!」

 俺は校舎と反対方向に走る女の子の手を掴んだ。初めてだから間違えても仕方ないけど、飛んでくる時に校舎がどっちにあったかくらい見てるはずだろうに…。

「君さ、クラスは?というか、名前も聞いてなかったけど。」

「あたし?狩谷あずさ!二年生だよ!」

 狩谷さんは白い歯を出しながらニカっと笑った。「クラスは今日聞くことになってる。職員室来てって言われてるよ。あなたは?」

「ああ、橋本亮だよ。二年生。」

「へーっ!じゃあ同じクラスになるかもだね!」

 狩谷さんがまた弾けるように笑った。「よろしくねハシビロ君!」

「…橋本ね。」

 仕方なく、狩谷さんを職員室まで案内する。「体育館二つもあるの?」

「そっちは武闘館だよ。剣道部とかが使う。」

「あっちは?」

 遊園地に来た小学生みたいに、あれは何?と聞きまくる狩谷さん。結局、校内探検みたいになってしまった。

「―で、校門の正面にあるのが教務棟、奥が教室棟で、その左は特別棟。職員室は、教務棟の一階だよ。」

「おおー!ありがとねハシビロ君!」

 いやハシビロじゃなくて橋本、と訂正しようとするが、狩谷さんは聞いてない。

「それじゃ!今度カツサンドおごるから!」

と、俺の手を取ってブンブン振った後、元気よく職員室へと入っていってしまった。「今度おごる」って、つまりまた会うってことだよな。そう言えばクラスどこになるのかな。……なぜだろう一抹の不安がよぎった。

 不安は的中した。

「今日から、この学校に転校してきた、狩谷あずさです!えーっと、好きな所は風が吹く場所、嫌いな所は水中。よろしく!」

 独特すぎる自己紹介とともに、俺のクラスの一員になってしまった。あろうことか、席は隣。狩谷さんは、にかっと笑って言った。

「いやー意外と早く再会できたね!早速今日、カツサンドおごるね!」

 こうして、俺の平穏はぶち壊され、非現実的学校生活が始まった。

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