生存者 十五
十三
これでようやく、すべての関門が取り払われた。混乱に乗じての潜入。密室という舞台の構築。護衛たちの排除。いまや、ケイン・マルドネスを囲む防壁はない。
このときのジャッカルに余力と呼べるものは存在しなかった。されど、生身の人間一人を噛み殺すくらいの力は、彼にもどうにか残されていた。あとはそれを実行するのみだ。残る目標は、人間ただ一人の殺害だけである。
捻じ曲がった足を支えにして立ち上がると、彼はケインの座す机に近付いた。直前まで眼前で激しい戦闘が繰り広げられていたにもかかわらず、ケインはいまなお慟哭のさなかにあった。相も変わらず顔をうつむけたまま、滂沱の涙に溺れるばかりだ。息子の死がよほど受け入れがたいのか、その身に迫る危機にさえ気が付いていないような様子であった。
いまやいかなる障壁も存在しない。この邪悪の帝王を守っていた強固な盾は、余すことなくすべてが打ち砕かれた。ジャッカルの闘志と、ゴートの執念とによってだ。いまこそ終わらせる時だ。一つの時代を。一つの支配を。サウスランドシティを醜く歪めた理不尽を、根元から完全に断ち切る時だ。
やがてジャッカルは一歩を踏み出した。確固たる決意と、明確なる殺意とを胸に秘めて。
「おい」
そのとき彼は声を聞いた。落ち着いた雰囲気で、低く掠れたような声色だった。
「頼む。邪魔をしないでくれ」
小さく零したのはやはりケインだった。ひと時の喧騒が去り、静まり返った室内にあって、そのささやきは異様な響きをもってジャッカルに迫った。
直後、強烈かつ新鮮な義務感というものが彼を襲った。ケイン・マルドネスの言葉、この小柄な男が発した言葉に逆らうことなど、決して許されない。そうした目に見えぬ強制力というものが、唐突にジャッカルの心身を蝕んだ。まるで蔦でも絡みついたかのように足が動かせず、胴体が丸ごと凍り付く。視線が釘付けにされる。密室のよどんだ空気が肢体を持ち、それに髑髏を鷲掴みにされるというようなある種の幻想的なイメージが、一瞬のうちに彼の脳裏を駆け巡った。
ことここに至ってようやく、ジャッカルは理解した。これこそがカリスマというものなのだ、と。
まさに魔力である。元々たいして大柄でもないケインが一層に小さく背を丸めているというのに、その姿は、ほかの何に対しても紛れることがないほどの鮮烈な存在感を放っていた。突飛な顔つきなどしていない。大仰な傷跡を見せ付けてもいない。ましてや派手な衣装にも、毒々しい警戒色にも、その身が覆われているわけでもない。たとえどういう状態にあろうとも、何をしていようとも、それでも、ケイン・マルドネスがそれ以外のものになることなどありえない。君主は常に君主たり続ける。これまでに切り抜けた数多もの危機と、無数に積み重ねてきた罪悪とが、この男の表皮を魔王のそれに変えているのである。
それほどの存在感をもった悪逆の王、神さえ恐れぬ魔王というものに、いったい誰が逆心など抱けようものか。その口から発せられる言葉のすべてがすべからく従うべきもの、絶対的な命令であるのだ。日頃ケインに相対する誰もが自然とこの男の機嫌を伺い、一言一句を聞き、一挙手一投足を見、言葉ならぬ言葉にさえ従順に振舞おうとするのは、この不可視の強制力がためにほかならない。この男が手を伸ばしさえすれば、たとえどんな立場の人間だろうと喜んで握手を返すだろう。政治家。実業家。マフィア。警察官。そういった者たちのすべてが、何一つ疑いを持たぬまま素直に服従を受け入れるはずだ。君主の機嫌を損ねないために。また、自分自身の身の安全を確保するためにだ。
その特異な存在感に影響を及ぼされるのは、人間としての肉体を失ったジャッカルとて同じだった。彼は見えざる脅威を前に立ち竦んだ。時間の感覚さえ失うほどの強烈な困惑が、このとき彼の胸中にはあった。精神の奥底に隠された潜在的な恐怖心が、密やかに滲む地下水の如く身体から熱を奪う。
そんな彼の困惑を知ってか知らずか、ぴくりとも動けぬジャッカルを見ようともしないまま、ケインは語り始めた。
「人生で」
声が振るえ、文が途切れる。一呼吸分だけ間を置いたあと、魔王と反逆者との交流は再開された。
「私が思い付くかぎり、人生で最悪の経験だ」
ケインは目線を下げたままだった。彼は両肘を机に突き、敬虔な祈りを思わせる形で手を組み合わせていた。もし仮に、いまのケインが実際に祈るのであれば、その動機は一つしかないだろう。つまり、最愛なる息子アレックスの魂が、滞りなく神の王国へと迎え入れられることだ。
「あいつは血肉を分けた家族だ。正真正銘、私の血を引いた息子だった……それが死んだ。いや殺されたのだ。心臓を破られ、脳を切り裂かれ、骨を打ち砕かれた。血液は一滴残らず汚水と化し、哲学は千々になって露と消えた。あいつはもう二度と、深い敬愛に震えることも、追憶に浸ることもできないのだ」
ジャッカルは異音に気が付いた。それは自身の耳の奥、頭蓋骨の内側から聞こえてくるらしかった。一定のパターンを持った電子音、例えるなら電話の呼び出しベルに近いものである。それは水中で鳴るかのように不明瞭で、ともすればひどく遠くから聞こえるようでもあった。そういう調子の電子音が数度繰り返されたあと、それは間を置かず人声へと変わった。どこか親しみを感じさせる響きではあったが、不鮮明にくぐもっているせいで大方の部分を聞き取ることができなかった。
理由ははっきりしていた。ジャッカルの聴覚は「理解」をしていたのだ。何を優先して受け取るべきか、ということを。誰の言葉をこそ注力して聞き届けるべきかを。たとえ盟友からの警句であろうと、こと優先順位という意味においてはケイン・マルドネスの肉声に勝ることはない。ゴートの懸命の通信を無意識的に掻き消しながら、ケインはなおも弁舌をふるった。
「襲撃者よ、お前にもわかるはずだ。いまの私を苛む心痛が、いったいどれほどの苦しみを伴うものなのか。これだけのことをするくらいだ。きっと、お前も私たちに奪われたのだろう。肉親か、それに準ずるほどのものをな」
そこでやっと、ケインはジャッカルに目をやった。王が返答を求めているのだ。このときケインが見せたこの行動は、ジャッカルに一つの気付きをもたらした。
――自分はすでに一度、この男と短い問答を交わしたはずではないか。そのときはこれほど追い詰められはしなかった。いったい何が違うというのだ?
その疑問の答えを自らのうちに求めつつも、さらに彼はもう一つ、別種の抵抗を試みた。話をはぐらかそうとしたのである。
「さあな。雇われの殺し屋かもしれないぞ」
「それはない。お前ほどのヒットマンで、そんな『不便な身体』をした者はそうはおらん。この街で該当するような者は全員を見知っているし、あるいは外からやって来た人間だとしても、何の事前情報も入ってきていないというは、はっきり言っておかしい。優れたハンターが巨大な獲物を狙うときは、それなりの騒ぎが起こるものだ。ましてや、挑戦者がよそ者ならなおさらな」
「なるほど。お見通しということか」
「いや、実のところそうでもない……そう、頼みがある。お前が何者なのか、私に教えてはもらえないだろうか?」
断る。
たったそれだけの単語、それも、自らの立場に最も相応しいだろうその返事を、しかし彼は声にすることができなかった。このときの彼に出来たことといえば、人語を理解する能力がないかのごとく、ただただ戸惑いを浮かべるのみであった。
ただ、彼としてもまったく得るものがなかったわけではない。すなわち、直前の疑問について一定の結論に達することが出来たのだ。護衛の五人を片付ける前と現状との決定的な差異。つまるところそれは、ケイン本人が平常心を取り戻しているという点だ。ジャッカルの激しい損傷が両者間の力関係に影響を及ぼしているのは間違いない。が、最も大きな違いというのであれば、やはりケインの精神状態を置いて他にはないだろう。
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