第二章 二〇九四
生存者 一
一
彼には記憶があった。前後の繋がりはなく、明瞭でもないが、確かな実感を伴った記憶が。このときは、車のハンドルに触れた手の感触がその記憶の断片を呼び起こした。
自らが運転をする右側で、助手席の男が何かを喋っている。彼に向って話しているのではない。男は自分自身の手の平に収まった、小さな機械に向かって呼び掛けているのだ。その男の手元からダッシュボードへと伸びたコードを見るに、おそらく車載無線だろう。
緊迫した声だった。だが、話の内容にまでは理解が及ばなかった。さして大事なことでもあるまい。彼にとってこうした記憶とは、学習のための電気刺激という以上の意味を持たなかった。いずれにせよ、その会話内容がぼんやりと輪郭を取り戻し始めたころには、すでに白昼夢は消え去っていた。
気が付くと、彼の視界の中にはひどく見慣れた風景が広がっていた。ごみごみと狭苦しいばかりのビル街と、皮肉なほど真っ青な空。じりじりと照りつける太陽。渋滞寸前の道路では、様々な配色に彩られた車両の軍団がまるで何かに追い立てられるかのように、あちらこちらへとせわしげに移動を続けている。あるいはスマートに。あるいは騒がしく。いずれにしてもそれらの集合体は、平日の朝を一層にそれらしく見せるような具合だった。
無論、彼もその風景の一部には違いなかった。より正確には、彼の運転する素っ気ない灰色一色のバンが、だ。それはくすんだホイールに真四角の車体を載せたような雰囲気で、むやみに大きいばかりの車体側面に、「地域密着型」の清掃会社のロゴがプリントされた車両だった。実際、車載スペースにはそれ相応の道具類が詰め込まれている。モップなりバケツなりといったもののほか、それなりの値段がする業務用の掃除機から使い捨てのゴム手袋に至るまで、必要な備品は一通り揃えられていた。
また必要性の面からいえば、いま運転席に見えるこの物体もほかの道具と同様、清掃業には概して欠かせぬものであった。つまり、清掃員である。彼の身を包むグレーのつなぎ服は、出勤ごとにきちんと洗濯しているにもかかわらず汚れの染みが浮いていた。布地にすっかり染み付いてしまっているのだ。
その制服の胸の辺りには、顔写真入りの社員カードが見えた。カードの表面には、「どこにでもいる無愛想な青年」といった様子の顔が、またずいぶんと無遠慮な大きさで張り付けられていた。〈オースティン・ロング〉なる氏名とともに。
商用車に仕事道具、そして仕事着。さほど人相の悪くない常識ぶった顔。まぎれもなく、彼は仕事のためにそれらを準備した。あとロング氏に必要なのは、実際にそれらを活躍させる現場のみである。そうした活躍の場を目指さんがために、彼は朝一番から軋むタイヤを転がしているのだ。
目的地は決まっていた。サウスランドシティの大通り、いわゆる街のメインストリートだ。その一角を占める一軒のナイトクラブが、この日の彼の目的地だった。そのクラブのオーナーは街の有力者の子息であり、複数の意味で非常に近寄りがたい人物なのであるが、実のところロングはその人物を直に目にしたことがあった。それも、これまで何度もだ。というのも、その若いオーナーというのが、多くの時間を彼自身の経営するナイトクラブで過ごしているからであった。
ロングは普段からこのクラブで業務に携わっている。よって清掃作業中にオーナーとすれ違うこともあるし、またロングが一般の客としてクラブを楽しむときにも、やはり度々に見かけることがあった。人ごみに決して紛れぬその存在感のおかげで、誰かほかの人物と見間違えることはそうそうなかった。
とはいえ、そのオーナーの視線がロングに向けられたことはこれまで一度もなかったし、当然、談話を交わす機会などあろうはずがない。むしろ、オーナー氏本人をはじめ、その側近やボディガードたちの前を横切ることさえ憚られるほどの、とてつもない距離感というものが、両者のあいだには存在し続けていた。同じ空間に存在するからといって、同じ世界に生きているわけではないのである。
ただ、ロングの人生にとっては、その点はさして重要ではなかった。自分とそう変わらぬ年齢の男が、世界に誇る大都市の、しかも大通りの一等地に店を構えているからといって、それを羨むことに何の意味があるだろうか。羨望をバネに野心を燃やすほどの気概もない。それがオースティン・ロングという男だった。
もちろん、そんな男にも食い扶持は必要だ。幸いにも、雇われの掃除夫というのはロングの性に合っていた。何をしても長続きせず、職を転々とするばかりだった男がようやく見つけた、いわば天職というものである。何よりも、一人で黙々と作業に打ち込める点が気に入っていた。業務時間の取り決めなどは当然あるが、それと仕上がりの状態さえ辻褄を合わせれば、あとはどうだろうと誰も気にしない。その本質的な部分をロングは喜んだ。だからこそ、この男は今朝も己が職責を放棄することなく、黙々と現場を目指しているのである。
やがて目的地に着くと、彼はクラブ占有の駐車場にバンを停めた。スタッフ用の駐車スペースは一台あたりの使用面積を大きく取ってあるので、そこに停める際はいつでも気分がよかった。どこを向いても狭苦しいこの街では、余裕を持って空間を使うというのは一種、最高の贅沢であるといえた。それこそ、VIPの特権とでもいうべきことだ。
ただ午前中はいいものの、これがナイトクラブの始まる時間になると時折、この駐車スペースが高級車で埋め尽くされるという事態に出くわすことがある。そうした華々しい空間のなか、このみすぼらしいグレーの商用バンを走らせる気分というのは、控えめに言っても惨めなものだ。ロングはこれまで、作業の進みが遅くなった日に、そういう場面に出くわすことがままあった。
(今日は変に目立つのはよそう)
そんなことを考えながら、彼はプラスチック製のモップに手を伸ばした。
二
それから六時間が経った。時刻は昼の三時だ。もう少しすれば、クラブも開店準備で騒がしくなる。
どうにか今夜は憂き目を見ずに済みそうだった。フロアはぴかぴかに磨かれ、客席にはごみ一つ残っていない。見落としやすいバーカウンターのくず入れもちゃんと空にしてある。それに、いくつかの使用済み注射器も回収してあった。必要のない人間が、それを目にすることのないように、だ。これもまた、ロング氏の果たさなければならない責任の一つということになっていた。
ほどなく彼は、使い終わった道具類を手際よく外へと運び出した。基本的にだらしのないロングといえど、綺麗にしたばかりの床を汚すほど愚かではない。ただし、バンの荷物置きにまで気を配るほど潔癖でないのも事実だった。運転席のカップホルダーには今朝買ったコーヒーがそっくりそのまま残されていた。
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