警官 一


    一


 一般的な人生において、たとえそれがどういうたぐいの性質を持つものであろうとも、飯の種となる労働が安全であるに越したことはないだろう。さらに言うなら、もしもその生業が市民の安全を守ること、つまり、往来の人々に紛れ込んだ危険分子に対応することであるなら、なおのこと注意が必要になるのは言うまでもない。

 ほかの大都市に比べ、特別に危険ということのないサウスランドシティにあってさえ、普通の警官が波の立たない生活を送り、五体満足に定年を迎えるのは容易なことではない。方法は二つに一つ。そのうちの一つは、常に注意深くあるように心がけるということ、いわば聡明な人格を身に付けるということだ。いつどんなときでも銃を構えられるようにしておき、万が一にも、他人から明確な敵意を差し向けられた場合には、その相手の額に、躊躇なく弾丸をめり込ませることだ。またもう一つの方法というのは、この街それ自体を円滑に動かすための「仕組み」というものをきちんと理解し、尊重するとともに、先人の作り上げたコミュニティに対して心からの感謝と敬意を捧ぐことである。

 これら二種類の道のうち、スタンリー・コーラーが選んだのは後者のやり方であった。自分自身が特段に幸運だとも、特別な才能に恵まれているとも考えていなかったからだ。彼は孤高にして独力で生きるタイプの人間ではない。スタンには「助け合い」が必要だった。地元の高校を卒業後、大学にも行かず、そのまま警察学校に入ったような世間知らずが、それから二十年ものあいだ平穏無事に警官をやってこれたのも、この選択の恩恵にほかならない。

 そのことをしっかりと自覚しているからこそ、スタンは新しい相棒に向かって言った。

「お前は何もするな。ただ礼儀正しく振舞っていればそれでいい」

 サウスランドシティ北部の一等地。手入れの行き届いた白壁の邸宅と、青々として生気に満ちた芝を蓄える広い庭が、それこそいくつも立ち並ぶ一帯である。遥か頭上から世界を見下ろす広大な青空でさえ、そこでは単なる一背景に過ぎない。なぜなら、降り注ぐ陽光をすら霞ませてしまうほどに眩い成功者たちが、その地域には数多く存在しているからだ。

 その一帯では、屋敷の広さがその主たる者の力を、立地の良さが地位を、それぞれ象徴している。同様に、それらの管理の具合というのは、そういった象徴の信頼性を表していた。身の丈に会わぬ虚勢を張ったところで、それがどれだけ長続きするだろうか。

 そういったもので示される優位性を、そこに居を構える誰もが競い合っていた。順位表はそれこそ日ごとのように、目まぐるしく移り変わる。上から下まで平等に。

 だがもう長いあいだ、その競争に関わらない者が一人だけいた。その男の地位を脅かす者が、誰一人として現われなかったがためにだ。一般に支配層と呼ばれる者たちでさえ、その男には最上の恐れと敬意をもって接さざるを得なかった。かつてその男に対し、優位を示そうと試みた者たちのほぼ全員が、いまは冷たい土の下にいる。寿命でそうなった者は幸せである。

 その男は金と、それを生み出す快楽と、それらを守る流血とによってその地位を不動のものとした。

 彼は確かに名を挙げた。一人の男として。多くの尊敬を集める者として。一つのギャングのトップとして。

 スタンリーとその相棒がこれから会わなければならないのは、そういう人物にほかならなかった。


 このとき、スタンたちはとある扉の前にいた。迷路のような屋敷の中心で、毎月のように取り替えられる絵画に囲まれた、マホガニー材の黒い扉の前に、だ。この扉一枚を隔てた先で、くだんの大物は来客を待ちわびている。

 ここまで来たならもはや引き返すことは叶わない。この敷地に車を停め、屋敷の門をくぐったからには、さらにいうなら、面会の約束を取り付けるか、あるいは先方から呼び付けられたからには必ず、この扉をくぐらなくてはならない。選択をする権利はいつでもその男の手中にのみ存在するのだ。

「はあ、わかりました」

 スタンリー氏の新しい相棒――カイルは、その顔にはっきりと怯えを浮かべていた。この青年はサウスランドシティ警察〈SLPD〉に移動して来たばかりの新入りで、スタンリーとコンビを組んで間もない状態にあった。そのせいか、折り目正しいスーツに身を包む彼の姿は、どこかインターンの学生のような雰囲気を漂わせて見えた。

 時刻は昼の三時前だった。太陽はまだ高く、春の陽気というにも過ぎるほどの熱量を地上の万人に対して注ぎ続けている。が、だからといって、空調の効いた邸宅の中にあっては、なにも玉のような汗を浮かべることはない。カイルの発汗が心理的な同様に起因しているのは明らかだ。少なくとも、スタンリーにはそう感じられた。

「まあ、黙って立っていればいいさ」

 言いながら、スタンは後輩の肩を叩いた。相手の緊張をほぐすためではなく、(頼むから下手なことは口走らないでくれよ)との思いを込めての行動だった。

 スタンリー自身には、何度もここを訪れた経験があった。幾度も世話になったし、幾度かは世話をしたこともある。この街の警官とギャングとの、一般的な付き合いとして。顔なじみといってもいいが、相手方の誰かと友人であったことはないし、それに、対等な関係であったことは一度たりともなかった。主導権はいつどんなときでも相手の手中にあった。

 部屋の戸を叩く直前。スタンリーはいったん、自身の左腕に視線を落とした。より正確には、仕立てのいいジャケットの裾から覗く、腕時計の文字盤に、である。趣味的なアナログ時計の針は二時五十五分を指している。そのタイミングで、彼は眼前の扉をノックした。

 直後、短い返事がほとんど間を置かずに帰ってきた。

「どうぞ」

 

 その部屋の内部は、以前にスタンリーがそこを訪れた時と変わりなく、非常に雰囲気が良かった。天井が高く、かつ窓にあたる空間が大きく取られているため実際以上に広々として見える。一言でいえば開放感があるのだ。部屋の主がタバコを吸わないせいか白い壁紙にはくすみもなく、空気もこもった感じがしない。その代わりというべきか、品のいい香水の香りがうっすらと空気中に混じっていた。

「さすが警察官、三時ぴったりだ。よく来てくれたな、コーラー」

 掠れた声だった。若いころの暴飲が原因だと聞いた覚えがある。

 年齢だけで言うなら、この男は「盛りを過ぎた」と言って差し支えない。二〇三五年生まれということは、六十代をほんの目前に控えているということだ。

「マルドネスさん、お招きいただいて光栄です」

 正確にはまだ三時にはなってはいない。だが、わざわざそのことを指摘しようとは、スタンはつゆほども考えなかった。実際、ここではマルドネス氏の時間が基準である。この部屋に据え付けられた時計と、氏の腕時計こそが唯一、正確な時間の指標なのだ。外の世界の基準などいまは知ったことではない。

 ゆえに、スタンリーはごく自然に氏との会話を進ませた。

「その後、お身体の具合はいかがです?」

「ああ、心配には及ばんよ、ありがとう。いやしかし、もう二度と鴨狩りには行かん。ここで宣誓をしてもいいぞ」

 ケイン・マルドネスは張りのある顔に皺をよせ、笑った。太い眉が愉快そうに曲げられ、鷲鼻が斜め上を向く。

 それからケインは、部屋の奥に据えられたテーブルセットに腰を落ち着けた状態から身体をひねるようにして、通用口にいるスタンリーらに正対した。普段どおり、気負うところのない服装だ。黒々とした髪によく似合うネイビーブルーのポロシャツと、ナチュラルベージュのチノパンツ。足元はシンプルに黒の革靴。腕時計こそ外国製の高級品だが、それ以外はすべてシックな風合いでまとまっている。優雅に自宅で過ごすというのは実際、こういうことなのだろう。

 そのとき、スタンリーの背後に控える人物に気が付いたのだろう、ケイン氏は相好を崩したまま、筋肉質な細い腕をカイルに差し向けた。

「ああ、この彼がそうだね? この前、君が言っていた新人というのは」

「はい、新しい部下です」

「初めましてマルドネスさん、カイル・ブランフォードです」

 そう言うと、カイルは部屋の奥へと向かおうとして一歩、踏み出した。どうやら礼儀に則って握手をしようとしたらしい。ケイン・マルドネス氏が自分に対して手を伸ばしたのだと、そう思い込んだのだ。しかし実際のところ、ケインはカイルの方を指で差し示しただけに過ぎない。どこの誰ともわからぬ若造を不用意に自身に近づけさせるほど、彼は無警戒な男ではない。

 スタンはそのことを充分に承知していた。ゆえに、カイルが見せたこの不用意な行動に対し、素早く反応をすることができた。彼は、ものを知らない相棒の眼前に自らの身体を割り込ませることで、相手の動線を遮ったのだ。

 スタンも内心では「何もするな」と怒鳴ってやりたい気分だったが、そうする代わりに、努めて平静を装いながらこう口にした。

「ところでマルドネスさん、我々を呼び出されたのは、やはり先日のトラブルのことで?」

「ああ、その通りだ。まったく……うちの馬鹿息子は、いつもながら面倒を起こしてくれるよ」

「熱心なのでしょう。どういう犠牲を賭してでもデモニオスを、つまり、組織というものを守るべきだと、そう考えていらっしゃるのですよ」

「自分で作ったわけでもあるまいに、手間ばかり増やしおって……息子じゃなかったら殺してやるところだ」

 ケインは笑みを絶やさずに言った。実際のところ、彼のこの言葉は真実だ。この街の歴史というものが最前の発言を裏付けている。

「要は、君らの手を借りたいということなんだ。具体的にどう、というのは私も知らんが、おそらく人探しでもさせたいんだろう。とにかく、息子に会ってやってくれないか」

「ええもちろん、喜んで協力しますよ」

 スタンリーが二つ返事で了承するのを満足げに見つめながら、ケインは、「ありがとう」と短く言葉を返した。普段と何ら変わりはない。これがベテラン警官とギャングのボスとの、極めて平凡なやりとりである。

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