解説

                    万きさ

鬼って一体なんだろうか?

 子供の頃に、おにごっこをして考えた事があった。何で鬼は人を捕まえるのか。ケイドロ(ドロケイ)は警察が泥棒を捕まえる、ある意味普通の流れだけど、鬼はなんの為に捕まえるのか、そして捕まった人はなんで鬼になるのか。

 作者の考える鬼は、妖怪や伝記の生き物のことではない。鬼は状態の形容詞として用いられている。これはおそらく、遊びの中から得られた鬼への認識ではないだろうか?鬼は人を害し、そして人に移る、その漠然とした認識はまさにおにごっこのルールそのものである。おにごっこの鬼に対する疑問、それを封印するように、鬼をそういうモノにしたのかもしれない。

 表題作『鬼』の中で、鬼を倒した者が次の鬼になる。そのルールを取り巻くシステマティックな外部環境が書かれている。鬼が外部に出ないように餌場として村があり、そのルールと鬼を討つ教育を施す機関があり、鬼を外部環境から隔絶させている。ある意味、遊びのルールの様な世界観で環境が構築されているのだ。

 『鬼子母神』では、偏執的な思考に囚われた母親が描かれている。その様が鬼という状態であると作者は捉えている。作者の考える鬼は、ある意味ルールに捕われた存在、捕まってしまった存在である。

 ルールを破れば鬼では居られない。『泣いた青鬼』には、ルールから逸脱した鬼が描かれている。存在そのものとして鬼である赤鬼と青鬼、この2人が鬼としての在り方を捨てると存在ごと危ぶまれることが示唆されている。

 『吸血鬼の黄昏』の吸血鬼は、存在が鬼ではなく在り方が鬼なのである。人を喰らうことを辞め、鬼で無くなっても滅ぶことはない。作者は鬼と吸血鬼を明確に区別している。鬼は人を喰らう、それは食事としてだけではなく鬼を定義づける行いである。

作中の吸血鬼に必要なのは、ただ栄養価の高い液体であり、必ずしも血液である必要はなかった。人を喰らわなければ当然鬼ではない。

 そして『おにごっこ、かくれんぼ』には、おにごっこやかくれんぼに対する作者の妄想的考え方が現われている。捕まって鬼になるのでなく、食べられて鬼になる、鬼は存在を喰らうもので人という存在を塗りつぶす。『鬼』と同じようにその循環には終わりがない。その日のおにごっこが終わっても、次の日のおにごっこが始まる。誰かのおにごっこが終わっても、別の誰かのおにごっこが始まるのである。始末が悪いのは『おにごっこ、かくれんぼ』では鬼に魅入られていることである。つまりは、鬼になりたいという欲求がある。だからいつまでも終わらず、いつまでも鬼が有り続ける。

 鬼に成りたい人、鬼に成って人を捕まえる人、そして鬼に捕まった人、当然それらは鬼である。

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モリアミ @moriami

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