"トリフティー"ゲインの躍進

らんまる

"トリフティー"ゲインの憂鬱(1)

もしかしたらこの部屋にはわたししかいないのかもしれない、と目の前のデスクに座った黒髪の男を見下ろしながら少し思い始めていた。

声が聞こえなかったのだろうか。

あの、とわたしは控えめにしていた声のボリュームを上げた。


「本日付けでアーマーギア開発部第ゼロ開発室に配属されました━━」

「無駄」

「え」


黒髪の男━━トリスタン・ゲイン室長は手元の資料をデスクに放り投げながらわたしの言葉を切って落とすと、僅かに視線を上げた。


「イゾルテ・S・ペンダー、26歳、髪の色はダークブロンド、前部署は広報部、婚歴なし、前職……ふん、まあ、そんなことはこの無駄な紙切れを見ればわかることだ」

「そ、それは━━」


少し狼狽しながら数センチほど戦略的後退。

噂通りの人だわ、これは先が思いやられる、もう帰ったほうが良いのでは、という文字が頭のてっぺんからぐるぐると螺旋下降してきたが、その言葉は口でうまく変換させた。

ナイスわたし、ナイス社会人。


「おっしゃる通りです」

「つまりだ、誰でも簡単に得られる情報をここで話すなんてことは無駄ということだ、話すならこんな紙切れには書いてないことを話すべきではイズィーくん?」


さすがトリフティー(倹約家)・ゲインなるあだ名で呼ばれているだけはある、なかなかの無駄嫌い。

しかし一理ある、と思った。

言い方はあれだけど。

わたしはこの少しもニコリともしない、こんな若い女子を━━傍目に見ても化粧をすればすれ違った若者が振り返らないまでも、あ、なんか女子いたなくらいの女子力を備えているこのわたしを目の前にしても、無表情を崩さないこの風変わりな上司に、ほんの少しだけ好感を持ち始めていた。

言い方はあれだけど。

わたしは少しだけ胸を張って声のトーンを上げた。


「では室長、僭越ながら、わたしの生い立ちや趣味などを━━」

「いやいい、話すべきとは言ったが話してくれとは言ってない、無駄だからね」


前言撤回!


「あの、せめてわたしのエピソードを……」

「キミの面白くもおかしくもないエピソードがこの仕事に役立つのかね」


せめて聞いてから面白くないかどうか判断してくださいませんか。

悔しいので子供の頃に鼻からパスタを食べようとした話を披露したが我ながら面白くはなかった。

むしろ恥ずかしかった。

室長は古くさい腕時計を一瞥して言った。


「キミのその人体構造への探究心は褒めるべきものだが、残念ながら僕の貴重な時間を3分40秒ほど無駄にしたようだね、ええと━━」そこでわたしの書類に目を落とす。「さすがイゾルテ・スペンダー(浪費家)」

「イゾルテ・S・ペンダー、です!」


わたしは沸騰しかけた心のケトルを火から下ろすと、軽く深呼吸をしてから半歩前に出た。

はい気持ちの切り替え終わり!


「ところでこの第ゼロ開発室というのは何をしている部署なのでしょうか、わたしが以前いたのはアーマーギアの広報部で畑違いと言うか、そのう……わたしはなぜここに……」


室長はやはり無表情のまま、頬杖をついた。


「第ゼロ開発室というのは文字通り、ゼロの開発だ」

「はあ……ゼロ、ですか。それはなにか新しいアーマーギアのコードネームとか……」

「いいや、ゼロ、つまり何も開発してないということだ、というか初めからなかったことになってる部署だね、つまり僕もキミも存在しない」

「へ!?」


わたしは思わず自分の二の腕を掴んだ。

存在しない……。

わたしはいつから幽霊に?


「存在しないと言っても表向きはだよ、わたしは開発者としての仕事もあるからね、他のまっとうな開発室に口を出したりアドバイスすることもある」

「ここはまっとうな開発室ではないと?」

「それはその定義にもよるだろうね」


室長はコーヒーを淹れ始めた。

身長はわたしより少し高いくらいだろうか━━そもそもわたしの身長が一般的な女性と比較して高い方ではあるけれど━━スラリとした肢体は無駄な脂肪とは無縁そうだった。羨ましいことこの上ない。

それにしても……わたしは軽く息を吐いた。

なぜこの部署に異動になったのだろう。

段々と不安が押し寄せてくる。

この人事異動はなにかの間違いだったのではないか、すぐに広報部に戻れるのではないかという淡い期待が不安の隅に生まれた。


「無駄になる前に聞いておくが、キミもコーヒーを飲むかい?」

「あ、それならわたしが」

「いやいい、今から交代するのは時間の無駄だ」


部屋の隅のパーテーションで仕切られたソファに移動し、わたしたちはコーヒーを手に向き合った。


「それで室長、結局この部署はなにを━━」


改めて訊くが、室長は「おいおいわかる。まあ、とりあえずはわたしの秘書とでも思ってくれてればいい」と言ってソファに横になった。


「え、室長、まさかとは思いますけど」

「なぜまさかと思ったかは知らないが、僕は寝る」


はぁっ!?

ちょちょちょ、ちょっと待って!

まさか、『僕の貴重な時間』って昼寝のこと!?


「睡眠は脳細胞を活性化させるためのシステムだから無駄ではない。ちなみに30分程度の仮眠なら直前にカフェインを摂取しておくとスッキリとした目覚めになりやすいらしい」


室長はそう言って寝ようとしたが、ふと何かを思い出したようにまぶたを開けた。


「ところで、トリフティー(倹約家)とスペンダー(浪費家)の組み合わせとは皮肉が効いているね、しかもここは第ゼロ開発室だ。プラスとマイナスでゼロってことなのか。まあそれはともかくここは2人だけの部署だから今後ともよろしく、そしておやすみイズィーくん」


そのダジャレは無駄じゃないの!?と突っ込みそうになりながらもわたしは「へ~」と感情を排した声で呟いた。

この室長と2人だけの部署……。まさか左遷なの?これが伝説の窓際族なの?

わたしはコーヒーを啜りながら窓の外を見た。

空と雲の絶妙なバランスで成り立ったデジタルとアナログの擬似的な春の青空がそこには広がっていた。

そうだ散歩にでも行こう、わたしは芽生えていた僅かな期待を諦めながらそう思った。

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