七夕の夜には

吾妻栄子

七夕の夜には

「じゃ、撮るよ」


「ハイ、チーズ!」


 スーパーのキッズスペース近くに備え付けられた大きな笹飾りの前。


 向日葵模様の浴衣を着た五歳の織江おりえと若草色の甚平を纏った仲良しの星斗せいと君にそれぞれの母親がスマートフォンのシャッターを切る。


 カシャッ。


 色取り取りの短冊と飾りと幼い二人の笑顔が小さな液晶画面に切り取られて記憶される。


「もういいよ」


 こちらが撮影終了を告げると、子供たちは笑顔はそのままで飾り付けされた大きな笹を見上げる。


「星斗君は何てお願いしたの?」


 幼い娘は先ほど吊るしたばかりの黄緑の短冊を指差す。


「“新しい自転車がもらえますように”ってお願いした」


 短冊を代筆したお母さんは顔の下半分をマスクで覆った目で苦笑いしている。


「織江ちゃんは?」


 星斗君は自分の短冊のすぐ近くで揺れている山吹色の短冊に目を凝らした。


「“パパとまた香港のディズニーランドに行けますように”ってお願いした!」


 正確には“皆でまた香港のディズニーランドに行けますように”と私は書き記したが、代筆としては誤差の範囲内だろう。


 ふと、天井のスピーカーから、マリンバ演奏の「星に願いを」が流れてきた。


 これはキッズスペース終了をお知らせするBGMだ。


 周りの家族連れも三々五々に散っていく。


「それでは、また」


「バイバーイ」


 子供たちは笑顔だが、母親たちはマスクで下半分を覆い隠した顔の眼差しを静かに厳しくし、他人に接触しないよう用心深く我が子の手を引いて家路に就くのだ。


 *****


「降って来ちゃったな」


 暗いところに透かしてやっと見える程度の雨だが、アスファルトは既にうっすら濡れて、湿った匂いが立ち上って来る。


 新暦の七夕は梅雨時にぶつかるのでなかなか天の川をしみじみ拝むような夕べを迎えるのは難しい。


「ちょっと浴衣の裾に気を付けて」


 多分、来年は着るのは難しいだろうと織江の背丈から推し量りつつ、せっかくの浴衣に染みが残るのだけは避けたいと思う。


「ねえ、ママ」


 私の差した赤い傘の色を映した小さな顔が見上げている。


「ママは何て短冊にお願いしたの?」


 この子の円らな目は香港人の夫譲りだ。


「“家族皆が元気で暮らせますように”ってお願いした」


 子供の頃、“家内安全”と判で押したように短冊に書く大人を見て、何でそんなつまらないことを願うのかと思った。


 しかし、家庭を持つ大人になってみると、それが月並みだからこそ外せない願いだと分かる。


「じゃ、皆、元気で暮らせるんだね!」


 向日葵柄の浴衣を着た娘は嬉しそうに笑った。


「だといいね」


 願うことと叶うことは必ずしもイコールではないとこの子はまだ知らない。


 繋いだ小さな手を握り締めて雨足の強まり始めた道を急ぐ。


 *****


「何だ、もう寝ちゃったのか」


 タッチパッドの液晶画面に映る夫はどこか寂しく笑っている。


「今日は浴衣着てはしゃいでたから」


 布団で青い中華服姿のミッキーマウスを抱いて眠る娘の寝顔が少しでも向こうに良く見えるように私は手にしたタッチパッドの角度を加減する。


「まだ幼稚園も通常日程になったばっかりだしね」


 新型コロナウィルスの影響で織江の通う幼稚園は六月からやっと短縮日程で新学期が始まり、七月から通常のカリキュラムになった。


「向日葵の浴衣の写真、とても可愛かった」


 画面の向こうにいる夫は今度は嬉しげに円らな目を細めて笑っているが、zoomのあまり鮮明でない映像ですら老けて疲れの見える顔になったと思う。


 まだ、四十前なのに、故郷の香港の支社に単身赴任して二年で十歳は老いたように見える。


「うちの両親にもシェアしたよ」


 日本人の私との結婚に難色を示した彼の両親も、織江が生まれると、息子に似た孫娘を可愛がるようになった。


 織江が抱いている中華服のミッキーマウスは二歳の頃に私たち家族と夫の両親で香港ディズニーランドに行った時のお土産だ。


 青い中華服のミッキーはそれから娘の大切な友達になった。


「織江は短冊にパパとまた香港ディズニーランドに行きたいって」


 娘は二歳で香港ディズニーランドに行ったこと自体は覚えていないが、かの地を「いつも一緒にいるお友達のふるさと」と認識している。


「そうだね」


 タッチパッドの画面に映る夫の顔は穏やかに笑っているが、声は苦いものを含んでいる。


「色々な混乱が収まったら」


 香港の騒乱について自分や両親の住んでいる辺りは安全だとしか彼は語らないが、コロナウィルスの影響もあって、この春は私たちのいる日本の家に帰れなかった。


 毎晩のようにzoomで話してはいるが、半年以上、直接には顔を合わせていない。


「織姫と彦星みたいだね、私たち」


 ガラス戸の向こうからパラパラと響いてくる音で一度は止んだ雨がまた降り出したと知れた。


 明日の朝には止んでいても路面が濡れているだろうから、織江には長靴を履かせよう。


「僕も今、そう思ってた」


 天上の夫婦は雨が降ろうが槍が降ろうが一年に一度は確実に天の川の畔で会えるが、地上の私たちは飛行機とかスマートフォンとかzoomとかあらゆる便利な手段に恵まれているようでその社会の基盤は案外不確かだとここ数年で良く分かってきた。


「ねえ、織姫と彦星って何で地上の人の願いをかなえてくれるのかな」


 ふと頭に浮かんだ思いを口にしてみる。


「自分たちも年に一回しか会えなくて、一年の他の日はずっと働き通しの辛い身の上なのに。天の神様ではあるけどね」


 天人だから人の常識は当てはまらないと言えばそれまでだ。


 しかし、地上の人間は七夕以外の日には織姫彦星がどう過ごしているか別段案じるわけでもないのに、天上の夫婦は一年働き通しの上にせっかくの逢瀬の晩に地上の人間からあれこれ願いを託されるのだと思うと、彼らの責務の多さに目眩がするようだ。


「どうしてかな」


 画面の中の彼が真っ直ぐ見詰めた。


「また二人でずっと一緒に暮らせるためにそうして徳を積んでいるかもしれないよ」


「そうだね」


 彼の目に映る私も随分老けてしまったかもしれない。


 シトシトと濡らすように変わった雨音を聞きながら、私たちは黙して互いを見詰め合う。(了)

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七夕の夜には 吾妻栄子 @gaoqiao412

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