一〇〇歳の青春

1

「ああ、光子みつこ……今日もきれいだね」


「うん……ひいじいちゃんも、元気そうだね」


 もちろんあたしは"光子"じゃない。私の名前は本山由希だ。だけど、この人の前では、私は梶原光子になる。あたしの曾祖母。もう十年以上前に亡くなっている。この人もそれは知っていたはずなのに……


 あたしの目の前にいるこの人は、あたしの曾祖父、梶原大造だいぞう。1919年生まれ。ずっと中学の国語の先生をやっていて、校長も何度か務めていたそうだが、あたしが生まれる随分前に定年退職している。今年一〇〇歳になったばかりだ。


 ひいじいちゃんの家はあたしの家から近かったので、子供の頃あたしはよくひいじいちゃんの家に遊びに行った。ひいじいちゃんもひいばあちゃん ――本物の"光子"―― も、いつもあたしを可愛がってくれた。あたしは二人が大好きだった。


 だけど、ひいばあちゃんが亡くなり、九十歳を超えた当りから、ひいじいちゃんにいわゆるアルツハイマー病の症状が現れ始めた。それが、あたしが新潟大学の医学部に進学する大きなきっかけとなった。あたしは医師になってこの人のアルツハイマー病を何とか治したい、と思ったのだ。


 それから十年。最初はあたしの祖母であり、この人の長男の嫁にあたる、雪絵ばあちゃんとその息子夫婦が面倒を見ていたのだが、ばあちゃんの息子夫婦が海外転勤になってしまい、とてもばあちゃん一人では面倒を見るのが厳しい、ということで、養護施設の世話になることになったのだ。


 と言っても、まだコミュニケーションが取れないほど重度ではなく、若干シモの世話は必要なものの、足腰は達者なため、ひいじいちゃんは特養(特別養護老人ホーム)ではなくこのグループホームに入っている。


 このグループホームは基本的に個室であり、ひいじいちゃんは今、自分の部屋の介護ベッドの上で、その上半身部分を持ち上げ、それを背もたれにして座っているような状態で、あたしと話をしている。


 雪絵ばあちゃんも時々面会に来るようだが、もはやこの人はばあちゃんのことは全然分からない。全くの他人と思っているようだ。それでもごくたまに記憶が蘇ることがあるらしい。だからばあちゃんも、面会には行けるだけ行くようにしているようだが……彼女ももうかなりの年齢としだ。今年の冬も過労で倒れて入院し、大騒ぎになった。今はもう無事退院しているが。


 アルツハイマー病の症状は認知機能の全般的な低下だが、とりわけ記憶が失われていくのがその大きな特徴だ。まず最初に短期記憶を司る海馬がダメになるため、新しいことがなかなか覚えられなくなる。そして長期記憶も、新しいものからどんどん失われていく。


 だから、まるで本人は昔に戻っていっているように見える。ひ孫としてのあたしは、あっという間に忘れ去られた。そして、何年か前は、雪絵ばあちゃんが"光子"になっていた。実際、雪絵ばあちゃんと"光子"は従妹同士で、結構似ていたらしい。おそらくその時は、彼にはばあちゃんのことが"光子"に見えたのだろう。


 だが、その状態も数年で終わった。彼の時間はどんどん逆行し、ばあちゃんは"光子"に見えなくなったらしい。そして今は……ばあちゃんの若い頃に生き写しだ、と言われたあたしが、とうとう"光子"になった。おそらく、彼が出会った当時くらいの"光子"に。


 だから、彼はあたしに会うといつも熱烈なアプローチを仕掛けてくる。でも、何というか、とても上品な口説き方だ。さすがに大正生まれの文学青年は違う。だけど、あたしはいつもそれをのらりくらりとかわすことにしている。


 一度、高田(旧高田市、現上越市高田区)に映画を見に行こうと誘われ、どうせ次に会うときには忘れているだろう(実際そういうことが多かった)、と思ってOKしたのだが、なんと次に面会したときにもそれを覚えていてびっくりしたのだ。そういう、何か楽しいことに絡んだ記憶というものは、アルツハイマー病でもなかなか忘れないらしい。それを断るのに随分心苦しい思いをしたので、それ以来もう二度と彼のアプローチを受け入れたことはない。


 その日もいつものように、あたしはひいじいちゃんに口説かれまくっていた。しかし、その時のあたしは、所属する演劇部の公演を終え、打ち上げの翌日で、全然寝ていなかった。新幹線とほくほく線の電車の中でも寝ていたのだが、まだ全然足りなかった。そしてあたしは、ゆっくりと意識が遠のくのを感じていた……


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