第25話 走るひと



些細な用事をいくつか用意して、午前中から出かける言い訳とした。

昼ご飯は3人で適当に作って食べてくれ、と言い残して、自転車で家を出る。


我が家から自転車で15分も走れば、正月の二日間、若いひとたちが走る国道にたどり着く。

例年ならそれは凄い人出で、国道近くのターミナル駅には早い時間から応援に駆けつけるひとたちがいて、また、主催する新聞会社のバイトのひとが応援のための旗を配ってもいる。


ここ5、6年、いや、もしかしたらそれ以上になるだろうか、正月の2日3日、私は毎年ひとりで国道近くに足を運んでいた。

と言っても、それ目当て、というよりは、冬休みから逃げ出す、という感が強い。

夏休みよりも短いけれど、冬休みは冬休みなりの重さがあって、どうにも途中でしんどくなるのだ。

だから、「バーゲンの冷やかし」と言って家を出て、賑わう街中をひとりでふらふらと歩いて回って、最後に国道近くにひとりで佇むのが、いつの間にか私だけの年始の恒例行事になっていた。


2日の朝は、あっという間だ。

洗濯物を干している時には既にヘリコプターの音が喧しい。

私が家を出るくらいの時間にはもう、最後のランナーが通り過ぎるくらい。

車で行くと、ちょうど交通規制が解除されるかどうか、というあたり。

つむじ風が通り過ぎたあとのような気配だけが道路に残されている。

で、バーゲンで混雑するデパートの中は、文字通り竜巻みたいで、それはそれで面白い。

たくさんのひとの熱気にあてられないようにしながら、ふわふわと見て回る。

そうして、帰りにちょっと甘いものとか少しいいお肉とか、そんなものを買って昼に帰宅する。


3日の朝もほぼ同じだけれど、違うのは走るひとたちが通過する時間。

3日はちょうど昼前にターミナル駅近くを通過していく。

だから、人波も2日以上。デパートの上階から内緒で見られるとっておきのビューポイントがあって、寒すぎる年はそこからのんびり眺めたりもするけれど、ふつうは外で、それもちょっとばかり離れたところで、ぼけっと見てから家に帰る。


走る若者たちは、とても早い。

テレビで見ていると、あの早さは伝わらないと思う。

たまに子供が歩道を応援しながら走っていてすぐに置いていかれる様がテレビで映し出されることがあるが、本当にスピードが早すぎて、彼らはあっという間に視界から消えていく。

苦悶の表情も、流れる汗も、一瞬だ。

それだけを見るために、沿道の人々は寒さの中、立って、ずっと道路を見守っている。

彼らが走り過ぎる時、人々は旗を振り、声を張り上げる。拍手を贈る。

最後のランナーが走り去ると、人垣が崩れ、笑顔のひとたちがあっという間に四方に散っていく。

何度見ても、不思議な光景だと思う。


今年は、応援を自粛をするよう、事前にアナウンスされていた。

そうだろう、と思う。

こんな時にわざわざ公共交通機関を利用してまで応援に出向くのは、危険が多い。

たまたま私は自転車で行けるし、些細な、とは言え、曲がりなりにも所用があってのこと、人混みにほぼ紛れることなく足を運べるので、行ったまでだった。


用事を済ませ、国道に出てみると。

いつもならぎゅうぎゅう詰めで十重二十重では済まない人垣が、見事にまばらだった。警備のひとたちは例年と変わらないくらい多かったけれど、それがとても目につくくらい、観客が少なかった。

良かった、と思った。

そしてごめんなさい、正直に言うと「得をした!」とも思った。

だって、ぎりぎりの時間に行ったにも関わらず、道路のすぐ横に、何の障害もなく、ぽけっと立つことができたのだから。

こんなことは初めてだった。


日差しが暖かくて風もなかったから、立って待っているのが全然苦痛ではなかった。

空を飛ぶヘリコプターの音が賑やかで、余計、ぼうっとした。

ランナーが近づくと、規制が入り、国道を走る車列が途切れる。

遠くから拍手が近づいてくる。

ああ、と目を向けると、先導車の向こうに人影が見える。

拍手と共にやってくるその人影は、時に笑顔だったり、苦しそうだったり、表情は様々でも、誰もが皆、一瞬で駆け抜けていく。

私たちの眼前を。


私が立って見ていたのは、大手中学受験用小学生向け塾のすぐ近くだった。

ほとんどのランナーが通過し、あと数チームが残る、という状況で、急に歩道に明るい人の波が現れた。

塾から子供たちが歩道に飛び出してきたのだ。

よく考えたら、彼らも決戦の日が近い戦士たちだった。

それにしては皆、明るくて楽しそうで、悲壮感のカケラもない。

犬の仔みたいにむくむくと笑って、歩道を駅の方へと駆けていく。

ちょうど、国道を走るランナーたちとは逆向きに。

と、そこへ、国道にひとりのランナーが現れた。

道路脇から拍手が起こる。それに合わせるように、

「がんばれー」

掛け声が響いた。

歩道の子供たちからだった。

今日は、実は、応援の掛け声は禁止されていた。

「応援は拍手だけで」と警備スタッフが何度か繰り返していた。

例年なら選手が現れる度、大声の応援が飛び交うのだけれど、そんな訳で今年は声のない道路脇に、突然響いた高い声。

何度か彼らは「がんばれー」」を繰り返したあと、あっという間に駅の方へと走り去っていった。

残ったのは、何とも微笑ましい掛け声の残り香だけ。

道路脇に並んだ誰もが、なんとなくくすぐったそうな顔に見えたのは、私の気のせいだったろうか。

それからすぐに最後のランナーが駆け抜けて、今年の応援はお開きとなった。

最後まで暖かい日差しに恵まれた応援日和だった。








さて。帰り道。

自転車でスーパーに立ち寄り、焼き豆腐と牛肉、それにすき焼き用の割り下を買った。

ちょうど年末に、牛肉が届いていたからだ。

頼んだ覚えのないそれを息子が受け取ってくれていて、なんで牛肉が、と思いつつ開けてみると、何かの抽選に当選したとの旨が記載されていた。

心当たりがなくてしばらく考えていたら、ああ、と思い出したのが、農協経営の直売所。たしか秋口に、何かそんな紙を渡されて書いて出したような記憶がうっすらとあって、それくらいしか思い当たる節がなかった。

当たったものを正月に食べるのは縁起が良さそう、という訳でのすき焼きである。

所用を済ませた時に、少し奮発して、ナッツ&チョコチップ入りスコーンを買っていたので、エコバッグがぱんぱんに膨らんで、自転車の荷台から溢れ出しそうだった。

少しばかり気にしてはいたのだが、途中、歩道に広がって歩いているひとたちを避けて走ったあと、少しバランスを崩して荷台から割り下がぽろりと転がり落ちてしまった。

慌てて自転車を止め、割り下を拾っていると、今度は自転車が倒れそうになって、更に慌てて自転車を支え、なんだか慌ただしく自転車にまたがって走り出してしまった。


家に着いて、荷物を下ろして片付けて、やれやれ、遅くなったけど昼ご飯と、その後にスコーンを食べよう、と支度を始めると。

あれ? ない。

スコーンが、ない。

他の荷物に入れ間違えたかと探すも、ない。

うっかり肉と一緒に冷蔵庫に入れたかと覗くも、ない。

ない、ない、ない。


呆然として、あ、もしかして、後から行ったスーパーのサッカー台に置き忘れたのかな? と思って、レシートに書いてある電話番号にかけて聞いてみるも、ない、と言われ。


ああ。スコーンが。

凹んでいたら、長男が「どうしたの?」と聞くので、事情を説明すると、「まだ落ちてるんじゃない? 拾いに行ってきたら?」とのたまう。

「え? だって疲れたし。あるかどうかも分からないし」

「でも、オレだったら食べ物は拾わないけど」

「だけど未開封だから、もしかしたら拾うひともいるかもしれないよ?」

「いないって。落としてるんだったら、きっとあると思うけど」

にやにや笑って、先輩と約束があるから、と珍しく出かけて行ってしまった。


なんでスコーンを選んだかというと、昨夜、彼が食後にコーヒーを入れてくれたのだが、その時、ちょっと上手く淹れられてて、で、甘くしたいね、って話になって、そう言えばと思い出したのがコンデンスミルク。夏のかき氷用に買っておいて、消費しきれなかった缶詰。

あれがあった、と出してきて、ベトナム風にして飲んたら美味しかったのだ。

それの残りのコンデンスミルクをスコーンにつけたら、もっと甘くて美味しいんじゃないかと思って、選んだのだった。

ああ、やっぱり悔しい。


しかも。

冷凍庫から出した当選の牛肉をよく見てみると、すき焼き用ではなく、焼き肉用、と書かれているではないか。

すき焼きと思い込んでいたので、モヤシも買っていない。

ああ、やっぱりコレは、もう一度、見に行け、ってコト?


仕方なく、夕食の支度、と言ってもホットプレートを出して、野菜を切っただけだけど、をして、外に出ようとしたら、次男が帰ってきた。

慌ただしく事情を説明して、冷蔵庫の中の肉を見せると

「これだけ? 足りる?」

って、おい、

「これは高級品だから、多分、そんなに食べられないと思うけど?」と説明しつつ

「先にお父さんと食べてて」と頼んで、自転車に飛び乗った。


夜道を走る。

自転車で走る。

走りながら、地面を睨む。



なかった。


夜道を戻る。

来た道を戻る。

道路脇をきょろきょろと見回す。



なかった。



帰り道、まいばすけっとに立ち寄って、モヤシと肉を買い足した。

もう。


悔しいけど、デザートは買わなかった。

もう。




きっとこれは、昨夜、走り初めをするつもりが、つい楽しいおしゃべりにかまけてサボったから、今、その分を走っているのに違いない。

そう、自分に言い聞かせて、家までの道のりを漕いだ。


ドアを開けたら、それはそれはいい匂いがしていた。

もう。



なんもかんも悔しい。


今日は、でも、よく走った。

走ったひとも、応援した。

走っているひとに応援の掛け声をかけた子供たちの笑顔にも出会えた。



だから、まあ、いいか。


無理やりそう思っている。




明けましておめでとうございます。

こんな奴ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします♡



追伸、 三枝さまが、こちらにスコーンの作り方を書いて教えてくださいました。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054987814754/episodes/1177354055520801102


ありがとうございます♡

しかしながら、当然のように今朝、そんなシャレたものは作っていない私……。

どなたかお願いです。チャレンジして、私に食べさせて!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る