イマジナリーフレンド

伊勢祐里

一章

(1)

 終電を逃したのは、友人と風俗に行ってしまったからだ。酔った勢いで、入ったピンサロ。普段はそんなところへは行かないのに、就職祝いだと友人にそそのかされてしまった。今思えば、一時間待ちと宣告された時点で「付き合いきれない」と帰れば良かった。


 しかし、酩酊していた私に的確な判断など出来なかったのだ。そこから二時間後、ことを終えた私は、時を同じくして店から出てきた友人と別れタクシーに乗った。普段から百数十円で移動できる距離を、何千円も払って送迎車に乗るのなどバカバカしいと豪語していたのに。


 大阪市内では珍しくカラフルな車体のタクシーだった。若干違和感を覚えたが、手を上げたら止まったので、それはタクシーだと私は疑わなかった。それから私はきっちり運転手に目的地を告げたはずだ。どれだけ酔っていたとしても、自宅の住所を間違えるわけがないから。


 流れ行くミナミの風景、うるさいくらいに明るいネオン街を抜けて、しんと静まり返った四ツ橋筋よつばしすじへと車は抜けていく。酒を呑みすぎたせいか、ことを終えて体力を奪われたせいか、景色を眺めているうちに私の瞼がずっしりと重くなっていった。


 そして、そこからとんと記憶がない。


 目覚めたのは、十分ほど前だ。腕にしていたはずの時計がなく時間経過は私の体感でしかないのだが、充分にそれくらいは経過しているはずだ。やけに軋むベッドの硬さと鼻をかすめた馴染みのない消毒液のような匂いに違和感を覚え、私は飛び起きた。


 目に飛び込んできた景色は全く知らない部屋だった。


 十畳ほどのワンルームだ。同時に、私は病院のようだとも思った。消毒液の匂いのせいもあるだろう。それも立派なものではなく田舎の診療所みたいだった。木製の棚には、ちょっとした医療器具と小瓶に入った薬が並んでいる。


 その他にこの部屋にあるものと言えば、自分が今横になっているベッドの他は診療所には似つかわしくないものばかりだ。ダイニング用のテーブルと椅子、うるさいくらいに音を立てた一人暮らしサイズの冷蔵庫、それに古めかしい雰囲気の台所だ。テーブルにはご丁寧にランチョンマットが敷かれていた。


 誰かが使っている雰囲気があった。診療所として機能しているのかもしれない。だとすれば私は運び込まれたのだろうか。酔いつぶれて介護されていたのなら仕方がない。


 申し訳程度に点いていたオレンジ色の豆電球が、カーテンのない窓から差し込む太陽の陽でその役割を果たせていなかった。


 目覚めてから私は、冷静にことの成り行きを思い出そうと試みていた。やはり、あのタクシーが怪しい。いや、こうしてこんなところへ運ばれたのだから、タクシーじゃなかったのかもしれないが。


 そこへ乗ったまではおぼろげだが覚えている。残念なことに酒の残った頭をフル回転させても運転手の名前や顔は全く出てこない。


 頭痛で重たくなった頭を抱え、思い出したのはどうしてか半年前に亡くなった両親のことだった。


 警察の話によれば空き巣だったらしい。普段は二人が家を空けているはずの時間を狙った空き巣は、たまたま居合わせた両親と鉢合わせになった。普段は男気なんてないはずの父が、母を守ろうと空き巣に応戦したらしい。空き巣に殺す意思はなかったらしいが、父に威嚇されたものだからかっとなり、空き巣から殺人鬼へとその罪を重くした。


 これほど詳細に状況が分かっているのは、無事犯人が掴まったからだ。二日間という短い逃走劇だった。人を殺めてしまったという罪から逃れることが出来ずに自首をしてきたらしい。


 思えば、私は三十手前まで好きにやって来た。親の金で大学まで行き、就職もせずに売れない役者を六年続けてきた。自分の才能に限界を感じたのは、劇団に入って一年ほどしてからだ。それなのにダラダラと続けてしまった。親の死をきっかけにしなければ現実と向き合えなかったのだ。別にスネをかじっていたわけではない。独立していたし、生活費はバイトでちゃんと稼いでいた。だけど、両親に対して何も親孝行出来なかったのが悔やまれる。


 殺人と役者をやっていた自分を比べるのはおかしいかもしれない。だけど、二日で己の罪を認めた男よりも罪深いとさえ思えてくる。根っこにある本質は同じなのだ。私も現実から逃げ続けていた。


 そうして、ようやく就職したというのにこの状況だ。


 玄関の方でガチャっと音がして、私はとっさに身構えた。武術なんて会得していないので、不格好なものだったのだろう。玄関から入って来た男は、こちらを見るなり親しみ深く口端を持ち上げた。


「良かった目覚めたかい」


 男はそう言い、ズケズケと部屋の中に入って来て、こんもりと膨れた買い物袋を机の上に置いた。袋の中に詰め込まれた商品が雪崩のように袋から溢れ出す。


「何が好みか分からなかったから色々買ってきたんだけど」


 と男は機嫌よく続けた。私は首を傾げながら問いかける。


「ここは君の診療所か?」


「いや、違うよ」


「君は医者じゃないのか?」


「僕は医者じゃない」


「それじゃ君は?」


 私がそう訊ねると、男は不思議そうな顔をして小首を傾げた。歳は私よりも少し若いくらいだろう、二十代中盤くらいか。狐みたいな顔立ちは男にしては綺麗だと形容できる。それにスーツを着ていた。少し高級そうなものだ。高級スーツと田舎の診療所。あまりに似つかわしくない組み合わせに、私は思わず笑いがこみ上げそうになった。


「僕は久瀬くぜだよ」


「いや、そうじゃなくて」


 訊ねたのは、名前が気になったからじゃない。そう言おうとしたところで、男が持ってきた袋が見慣れないデザインであることに気がついた。


「それは?」私は机に転がったコンビニのおにぎりを指差した。


「おにぎりだ」久瀬という男はあっけらかんと答える。


「だから、そうじゃなくて」


 どうも久瀬とは話がうまく噛み合わない。こちらが現状に困惑しているせいで言葉足らずなのか、向こうの汲み取る能力が低いのか。恐らくどっちもだ。


「どこのおにぎりなんだ」


「向かいのコンビニだよ」


 彼との会話は一歩ずつしか進まない。それが無性に腹立たしくいじらしく思えた。


「向かいのコンビニって言うのはなんて名前の店なんだ」


「おかしなやつだなあ。コンビニはコンビニだよ」


 そう言って、久瀬はおにぎりをこちらに投げ渡してきた。三角むすびが綺麗な放物線を描き、私の手元へ落ちてくる。おにぎりが手の中に入って来た時、ズキッと鈍い痛みが走った。どうやら酔っている間に手首を痛めてしまったらしい。見れば少し赤く腫れていた。


 そのパッケージは、スーパーで売っているおにぎりのように簡素なデザインで、メーカーなどは書かれていなかった。


「もう昼過ぎだよ。流石に腹は空いているだろ? おにぎりが嫌いならサンドイッチもあるけど。飲み物は水がいいかいお茶がいいかい?」


 そう言われて、ひどく喉が乾いていることに気がついた。昼過ぎと言っていたので、最低でも十二時間程度は何も飲んでいないことになる。無論、腹も空いていた。水をくれ、と言うとこれまたペットボトルが放物線を描いた。今度は痛みのない方の手で、上手くキャッチする。


「なぁ、ここはどこなんだ」


 分からないことは一つずつ聞いていくしかないように思えた。身体全体に染み渡っていく水が、酒に侵された意識を活性化させる。潤った脳は、ただ冷静に今の状況を知りたいと訴えかけてきたのだ。


「ここは二段坂にだんざかだ」


 聞いたことのない地名だった。少なくとも大阪市内ではないはずだ。久瀬は、カップ麺の包装を剥き始める。


「二段坂? それはどこなんだ」


「二段坂は二段坂だ」


 久瀬とのやり取りは、しっかり一歩一歩丁寧に歩もうと心に決めた。今は何か情報が欲しい。


「そうじゃなくてさ。大阪府のどこだとか、兵庫県のこの辺りだろかあるだろう?」


 久瀬は申し訳なさそうな顔をして、眉根を下げた。スーツを着ているせいか、その表情はとても紳士的に見える。


「すまない。よくわからない」


「よくわからないって、ここは日本なんだろ?」


「あぁ、日本だとも」そう自信を持って答えるくせに、都道府県が分からないと言われるとこっちも反応に困る。彼は少しだけネクタイを緩めると、蓋を空けたカップ麺を持って台所の方へ向かう。流し下の収納からヤカンを取り出すと、蛇口をひねって水を注いだ。


「それじゃ、私をここに連れて来たのは君か?」


「いいや、僕じゃない」


「じゃ、誰が私をここへ?」


「君をここへ連れて来たのは安山やすやまだ」


「安山っていうのは誰なんだ? そいつが医者なのか?」


 ガスコンロが、チチチと音を立てた。久瀬は腰をかがめて火加減を確認して、またこちらへ戻ってきた。


「安山は、医者じゃない。ただのおじいさんだよ」


「そのおじいさんがなんでまた私をここへ連れ込んだんだ?」


「連れ込んだのは安山じゃないよ」


 どうも返しがまどろっこしく感じる。


「じゃ、誰が連れ込んだんだ」


 久瀬の指が私を指差した。手入れされた綺麗な爪だった。久瀬の見た目からは上品さが伺える。


「その、君だ」


 久瀬は一瞬言葉を詰まらせた。そこで私は名乗っていなかったことに気づく。


「すまない。私は佐々木ささきだ」


「そうか。じゃあ佐々木、君だ」


「私が自分で入ったのか?」


「そうだよ」


 残念ながら記憶がない。酔ったせいで自宅と間違えたのだろうか。それとも酔った私は病院を求めていたのか。手首が傷んでいるから、その可能性は否定できない。


「安山っていうのは、タクシー運転手のことか?」


「タクシー? それはなんだ」


 タクシーっていうのは。そう説明しようとしてやめた。知らないなら説明しても無駄だと思ったのだ。


「車は分かるか?」


「車くらい分かるさ。ガソリンで走るやつだ」当たり前だろ、と久瀬は少し眉根に皺を寄せた。


「安山は、その車で私をここまで連れてきたのか?」


「そうだよ」


「どうして?」


「それは安山に聞いてみないと分からないな。その予定はなかったはずなんだ」


 久瀬は両手を広げて肩をすくめた。嫌味も可愛げもない困り顔を浮かべる。


「どうして君はこうして私に食べ物を買ってきたんだ」


「それが僕の仕事だからだよ」


「仕事?」


「安山が運んで来た人の世話をする。それが僕の役割だ」


 久瀬は、ふんと息を荒くして胸を張ってみせた。同時に、台所でぴーっとヤカンが騒がしく鳴り響いた。

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