最高魔力
「今から一〇数える。……それまでに決めてくれ」
部下の不満の声を制しつつ、アンガスは再びエレノアに問いかけた。
おそらくエレノアと同乗していた二人は、エレノアに不審に思われないように兵士を装っていたノートン商会の用心棒だったのだろう。気になっていた悪辣で下品な態度の理由はわかった。この汚れ仕事をノートン商会が引き受けていたと考えれば納得もいく。そして、ノートン商会に今回の件を依頼した相手は考えるまでもない。
エレノアは悪徳面をした大商人ノートンの顔を思い浮かべた。評判のよくない守銭奴である事は広く知られていたが、一線を越えた仕事にまで手を染めていたのは、想像したくなかったというのが本音である。
「──九──八──七」
「手荒な真似に遭うのは御免だわ。……自分の足で」
エレノアは肩をすくめようとしたが、手枷に気付くと苦笑いを浮かべ、決心したようにゆっくりと崖の縁に向かって歩き、一歩前で立ち止まった。
眼下は、高さ一〇〇メートルはありそうな谷底。落下すれば、どうなるかは考えるまでもない。
「あーあー……勿体ない。アンガスさんは変なトコで情けをかけるなぁ」
聞こえたのは馬車で下劣な言葉を投げかけられ、投げ返した男の声だった。毒舌をもって馬鹿にした事を根に持っていたのかもしれない。
エレノアが一度振り返ると、全員がダガーを手に構え、エレノアが飛び降りるのを待っていた。妙な挙動を見せたら一斉に投擲するつもりだろう、この崖っぷちで全て避けきるのは難しいかもしれない。
(嫌な予感は的中する。──こんな事だろうと思ったわ)
エレノアは出発時に手枷をかけられた時から、何となくだが、こうなる事を予感していた。犬猿の仲だった聖王国第一王子リチャードという男の性根を思い出す。
「──
──エレノアは眼を閉じ、崇敬する者たちの名を小声で呟きながら、最後の一歩を下がり、足を踏み外した。
『魔封じの手枷』
術師を拘束する為にある、魔封銀で出来たこの枷には、ある欠点が存在した。
高魔力をもって
この魔封銀崩壊を達成するための魔力値は最低でも800以上は必要であり、理論上は可能と考える学説も過去に存在したが、証明する機会がなく忘れ去られていた。よって、この事を知っている者はごく僅かである。
まず800を超える魔力値を持つ人間自体が極めて稀であり、それに加え、瞬時に
この芸当が出来るのは、それだけの魔力を生まれつき備え、なおかつ想定した訓練を行った者のみ。
(御許し下さい。──聖王国の民を、殺める事になるかもしれない事を)
だが、淡い魔力の光と共に、落下するエレノアの手枷は崩壊し千切れた。
そして、自由になった両手から溢れ出る光が両翼となって、エレノアの背に形成される。
『
レベル6光魔法『
「……なにッ!?」
崖上に構えていた用心棒の面々は異変に気付き、手にしていたダガーを光翼を背に舞うエレノアに向かって一斉に投擲した。
だが光翼から張り巡らされた障壁によってダガーは全て弾き落とされ、光翼からは数発の光刃が、ノートン商会の面々に向かって放射された。
「ぐああああぁ!」
誰の絶叫だったかは定かではない。
幾多もの光刃が地面を何度も爆撃し、ノートン商会の面々は発生した衝撃波と
エレノアは、光翼の羽ばたきと共に悠々と地面に降り立つと、地面に転がった者たちを冷徹な視線で見下ろした。
「残念。あんな玩具で拘束できると思ったの。不良品だったのかしらね」
「……しくじった……のか。さすが、
地面に仰向けに倒れこんだアンガスが、血混じりの咳をした。
弾け飛んだ石礫を浴びた事で、内臓にダメージが及んだのだろう。苦悶の表情は痛々しいものだったが、自分を殺めようとした者に対し、エレノアが同情の視線を向けることはなかった。
「……元聖女候補よ。失われれば即、聖王国の危機。……という気概で今まで頑張ってきたつもり。こんな形で役に立ちたくはなかったわ」
エレノアは未来の聖女として、聖王国一の剣の使い手とも言われた、聖王アレクシスから直々に、護身用の戦闘訓練の手ほどきを受けていた。
暗殺を想定した厳しい対人訓練の日々。エレノアの運動神経は並だったが、最低限の護身術を才能がないなりには物にしていた。ああいった局面でも臆せず動けるのはその為である。
その一環で、エレノアは大聖女アリアからも、魔術師殺しと言われる封魔銀の特性と対処法を直々に伝授されていた。お遊びのようなものとエレノアは思っていたが、貴重な魔封銀を使った実習である。今となっては、こういったケースも想定していたとも思えてきたし、まさか、このような形で役に立つ事になるとは想像していなかった。
「直撃は避けたつもりだけど、それでも死んでしまったのなら運が無かったと諦めて。……何か言いたい事は?」
「……はは……さっさと殺せ。……しくじった以上、どの道……お先真っ暗だ。ごほっ」
死を覚悟していたアンガスを見下ろしながらエレノアは溜息をついた。朝の消耗と、魔封銀の破壊によって
「アンガス。私に命令しないで」
エレノアの冷たい声が響いた。そしてアンガスに対し、張り付いたような笑顔を浮かべる。
「御主人様のお叱りが怖くて死にたいなら、
エレノアは停車している馬車を指差すと、苦しそうに呻き声をあげているノートン商会の者を一瞥し、その場から立ち去る準備を始めていた。
「うぐっ……待て……」
アンガスは痛みを堪えつつ、ゆっくりと上体を起こすと、血混じりの咳を込みながら、息を整えていた。
痛々しそうな傷で、既に戦意喪失しているとは思うが、光魔法の治療を施す義理もないし余力もない。情けをかけて追って来られても面倒である。
「……何? まだ何か用なの?」
「……このまま北上すれば……ずっと先に……ノーラスと呼ばれる集落がある。……今から聖王国に戻る事だけは、オススメしねえ」
アンガスが震える指で北の方角を指差した。その集落の存在については既に知っていたが、もしかすると直撃させなかったお返しのつもりなのだろうか。
「旅人を受け入れてくれるのかしら」
「……それは……わからねぇが」
「気が利かないわね。追放したいなら嘘でも肯定しなさいよ」
聖王国に引き返さない方がいいという意見は同意だった。覚悟を決めて山岳にある集落を目指すしかないのだろう。
エレノアは馬車に置きっぱなしの肩掛け鞄の回収を終え、再び光翼を展開すると、黄昏色に染まりつつある空目掛けて飛びたった。
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