第80話 旧劇場

 スキーネとルッカが旧劇場の周りを西の方向からを歩き始めたちょうどそのとき、丘のふもとにクインリーとナナトが現れた。二つ目の橋を渡り終えたナナトたちはその後、待ち伏せに遭うこともなく、旧劇場までの最短距離を一直線で来れたのだ。アライグマの化粧を施していたクインリーは再び着色粉を使って真っ黒い犬の顔の変装へ切り替えていた。夜の闇に紛れて顔を判別しづらくするためだ。


「あれが旧劇場だね」


「そう」


「もう変装は解いてもいいかな?」


「…そうね。預かっていた弾も返すわ」


 ナナトはようやくリボルバー・ライフルの拘束を解くと、銃を紐で肩から吊るして思い切り両腕を天へ伸ばした。右腕は骨折を装ってずっと曲げた状態だったので解放感が心地いい。クインリーから腰掛け鞄を手渡されると、それも慣れた手つきで腰に装着した。


「はいこれ。これで顔の化粧を落として」


 クインリーが小さいハンカチも差し出してきたので、ナナトは受け取って顔を拭く。何かの液体が染み込まされた冷たく湿ったハンカチで、拭き終わった後には、まるで朝起きてすぐさま井戸の冷たい水で顔を洗ったかのような爽快さがあった。顔に当たる風が新鮮に感じて思わずナナトの顔がほころぶ。


「風が気持ちいい。顔の皮膚が呼吸を始めたみたいだ」


「意外と疲れるでしょ? お化粧って。髪の色を落とすのは我慢してね。ここじゃ水がないから」


 ナナトとクインリーは丘を上っていく。


「そういえば、旧劇場の中にはどうやって入るの?」


「昨日デシラから受け取った手紙に方法が書いてあったから大丈夫。こっち来て」


 ナナトはクインリーに連れられて旧劇場の西側へ回り込んだ。


「ええとたしか…。あった、あそこね」


 クインリーは上へ向かって指を差した。ナナトが見上げると、高さ五メートルほど上にバルコニーがある。


「あそこまでジャンプするの?」


「まさか。いくら獣人でもそれは無理。ちょっと待ってて」


 クインリーは林へと近寄り、一本の大きな木の側で細長い棒を持ってきた。そしてその棒を立てに持つと、先端をバルコニーのへりに近付けていく。目を凝らしてよく見ると、何か輪っかのようなものが縁から出ていた。クインリーは棒を使ってその輪っかを引っ掛け、思い切り引っ張る。するとバルコニーから縄梯子なわばしごが下りてきた。


「懐かしいわね。子供の頃、デシラと夜の劇場へ忍び込むときによく使った手なの。私から上るから」


 クインリーは慣れた様子で梯子を上っていく。ナナトも後に続いた。


 ナナトがバルコニーに上がると、クインリーが屋内へ入る扉を押しているところだった。扉のカギは開いているようだ。


「結局、ボディーガードはいらなかったね」


 ナナトが微笑を浮かべると、クインリーが戻って来て縄梯子を引き上げながら言った。


「いえ、むしろここからがあなたの出番かもよ。中にいるのがデシラだけとは限らないもの。だからいい? この先は二手に分かれましょう」


 クインリーは縄梯子をバルコニーの上へ投げ捨て、ナナトの目を見つめた。


「私はこれから中の劇場ホールへ向かう。そこで会おうとデシラに指示されたから。あなたは私が中へ入ってしばらく時間を置いてから入って来て。そして私を援護できる位置に付いてくれない?」


「わかった。もしものときはクインリーさんを助けるからね」


「デシラもよ。約束して」


 ナナトは月に反射されたクインリーの目を真剣に見つめ返して言った。


「わかった。クインリーさんとデシラさんの二人を助けるように動くから」


 クインリーは安心したように微笑んだ。


「お願いね。じゃあ、私は中に入るわ」

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