第74話 二万年

 ナナトの心臓が早鐘を打った。


 橋がどんどん近づいてくる。両端にいる男たちに、自分たちは段々近寄っていく。

 ナナトは後悔した。

 リボルバー・ライフルを固定具として骨折を装った腕に巻き、首からケープでぶら下げているのですぐに構えて撃つことができない。


 橋まで残り十メートル。

 ナナトは確実に、橋に佇む男と目が合った。すぐに視線を外しはしたが、しばらく進んでから恐る恐るもう一度見ると、相手はまだこっちを睨んでいる。すると突然、握っているクインリーの手に力が入り、ナナトは引っ張られた。あろうことかクインリーは、ならず者の男一人に向かって歩いていく。


「病院ばどこっちゃあ?」


 聞き覚えのない声色がナナトの上から聞こえてきた。最初のうちは、それがクインリーから発せられていると、ナナトは気付かなった。


「あん?」


「だから、病院ばこっちゃあ? こげ見てみ? 腕ば折れてこんから病院行かねばならっちゃい」


 クインリーはナナトを振り返って右腕を指差した。どうやら、ナナトの腕が折れたので病院はどこにあるのか、と男に聞いているらしい。この訛り方はつい最近ナナトも耳にした。ルッカの訛りだ。


「ああ? 何言ってんだ田舎もん。聞きとれねえよ」


 苛立ちまぎれに男が叫んだ。驚くことにクインリーも負けじと怒り声で声量を上げる。


「あんげば、街の役人じゃろう? 銃を持ってるじゃい。道をば教えてと言うとるんじゃ!」


「ああ? ああ、道を教えろっつてんのか。病院か? それならこの橋を渡ってしばらくすると大通りにぶち当たるからよ。そこを右に進みな。あとは自分で見つけろ」


 途端に、クインリーが人懐っこい笑みを浮かべて男の両手を握った。


「大通りを右じゃな? あんがとなあ。うぢば田舎から上がってきたばかりでこん街はよく知らんのじぇ。あんげと出会えてみょこっちばあ。あ、みょこっちばあってのはとても嬉しいって意味で…」


「わかったわかった。いいから早く行け」


 クインリーは別れるのを惜しむように、そして田舎の老人がよくやるように何度もお辞儀しながらお礼を言って橋を渡り始めた。ナナトが一瞬、もう一方に立っていた男の仲間を見ると、苦笑した顔でこちらのやり取りを見ている。疑っている様子も、警戒している様子も微塵もない。


 その後は何事もなく橋を渡り、ナナトとクインリーは対岸に渡った。


「ふう。うまくいったわね」


 聞き慣れた声に戻ったクインリーが一息ついた。ナナトはどこから話を切り出したらいのか一瞬考えてしまう。


「今の、もしかしてルッカの訛りを真似したの?」


「そうよ。少しアドリブが入っていたけどね。聞き慣れない言葉で喋りかければ、内容を理解するのに意識が向いて警戒が弱まると思ったの。あの半獣人のとは今日の昼間、一緒に昼食を取ってね。そのときにいろいろ教えてもらったのよ」


 単に喋り口調を真似した訳ではない、というのがナナトにはわかっていた。むしろ逆。クインリーの身振り手振り、仕草の一つ一つが街にやってきて日の浅い田舎者という雰囲気を出していて、訛りは補完に過ぎないとさえいえる演技だった。


「改めて、あなたが凄い女優なんだって僕、思ったよ」


「あら、私の舞台での稽古を見ていたくせにわからなかったの? 次はあなたも頑張ってね。私が演技している間、たた呆けて見ているだけじゃ駄目。あなたからボロが出るんじゃないかとヒヤヒヤしたわ」


「無理だよ、僕には。舞台なんて一度も立ったことないんだし」


「なら簡単に演技できるコツを教えてあげる。相手を愛称で呼びながら台詞を読んでみるの。すると相手に親近感がわいて感情移入しやすくなるから、自然と自分の演じる役にも没頭できるようになる。私も初めて演技する台本を読むときは登場人物全員にあだ名をつけるのよ。試しに私をクーリャンって呼んで喋りかけてみて?」


 ナナトは咳払いすると、なるべく力まないように自然体を心掛けて、クインリーに笑顔を向けた。


「クーリャン、僕、露天商でどうしても欲しいガラス細工があるんだ。あとで買ってもいいかな?」


 クインリーは数秒間、思慮深げに天を仰いでから告げた。


「あと二万年は練習が必要ね」

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