陽炎、二つ寄り添いて

荒海雫

第一話

 とある夏の日の事。蝉が忙しなく鳴く日々が一週間程過ぎた頃。太陽の灼熱に身を揺らし、汗が肌を流れていく。したいことも、するべきこともない康樹はただ歩んでいる。

 これは康樹にとって日常のワンシーンでしかない。ただの一日を過ごし、それを積み重ね、ただの人生を過ごす。それが彼にとって信条であり、またそれを続けようとしている。そう、この一瞬までは。平穏など簡単に崩れるものだと理解はしている康樹は、この状況に対して動揺を見せない。見せないだけであり、内心は疑問で埋め尽くされているわけだが。

 彼女が、目の前に居た。以前より長い髪、以前より伸びた背、相も変わらない凛とした姿勢。自販機の前、飲み干した水を隣接したゴミ箱へ放り、康樹を見る。

「久しぶり」

 透き通った声も相変わらずだ。

「……やぁ」

 彼女はまるでこの地で康樹に出会ったことが当たり前であるかのように、その表情を崩さない。とはいっても、康樹は彼女の驚いた顔や笑った顔なんて一度として見たことはないのだが。

「何でこの街にいるの?」

「加菜がさらわれた」

 なるほど。

 その一言で康樹は彼女がここに居る理由を全て理解した。


 白峰晴。それが彼女の名前だ。中学生の頃、僕たちは出会った。月並みな表現ではあるが、美しい。恋愛感情に疎い僕でも分かる程の美貌だ。普段はあまり喋らず、表情を一切崩さないことから、クールである、沈黙の美女である、だのと男子からは褒め讃えられていた。当然、告白された回数だって少なくはないのだろう。だが、そんな絶賛が続いたのも半年といったところだった。何故なら、彼女は驚く程真っ直ぐなのだ。胸の内の正しさだけが行動原理であり、それ以外を決して許さなかった。だがそれは『優しさ』ではない。他人を思いやる道徳の正しさではない。物事に対して曲がることを許せない正しさだ。その異質さを、異常さを、鬱陶しいと思い始める人々は数を増やしていった。

 僕はこの噂、要するに彼女の危うさを知った時、何があったとしても関わり合うのを控えることとした。当たり前だろう。僕は平穏が好きなのだから。一年が別のクラスで良かったと思ったくらいだ。だが、二年の頃、不幸なことに同じクラスになってしまい、不幸なことに隣同士の席になってしまった。極力会話は相槌だけにしておこうと思ったが、彼女はそもそもあまり喋らない人間だったので杞憂だった。

 もはやこのまま関係を持つことはないだろうと思っていたが、とある出来事が起きてしまう。恋愛のもつれだ。昼休み、怒鳴り声が響く。その声は晴に向けたものだった。どうやら話を聞くに、声の主が好きだったとある男が、晴に告白をしたのだが、晴は無視にも似た形で相手にしなかったという。他人ごとで烈火の如く怒る声の主もいかがなものかと思うが、晴も晴だ。彼女はあまりにも反応を示さない。謝罪も否定もしない。声の主の一人相撲でしかなかった。

 教室は声の主を除き、寝静まったようになっている。僕はその状況に耐えられなかった。平穏が崩れているのを、黙って見過ごせなかった。僕は仲裁に入った。もちろん、簡単にはいかない。それどころか当事者の一人が我関せずの状態なのだからより簡単ではない。

 結局、声の主には、その男の子は今は傷心状態なのだから狙い目なのではないか、と提案し何とか解決の形は見せた。溝が埋まったとは一切思わないが。

 それ以来、僕は彼女の付き添い、否、彼女の起こす問題解決係となった。晴が暴れだしたら康樹を呼べ、康樹ならなんとかなる。それは信頼ではなく押しつけの一種だと理解はしているが、最早深く関わることは避けられなくなってしまった。

 後悔はしている。忙しない日々が続いた。彼女と関わって分かったことは二つ。意外に良く喋ることと、やはり関わらなければ良かったということだ。

 そして、あの事件が起きた。クラスメート、加菜を救うために、起きてしまった事件。

 それ以来僕はこの街へとやって来て、晴と離れ離れになった。

 だから、これは三年ぶりの再会なのだ。きっと訪れるはずのない、再会だと思っていた。


「君がこの街に居る理由はわかった」

 晴なら、どんな手段を使おうと加菜を取り戻そうとするだろう。

「さらわれたことに関しても思い当たる節がある。けれどわからないのは、どうやってこの街に来ることができたんだい?」

「どうやって、って言われても。普通に、電車で」

「あー、ごめん。質問が悪かったね。どうやってこの街に加菜が居ることを突き止めた?」

 疑問なのはそれだ。加菜がさらわれたのが本当なら、あの機関はみすみす一般人に露見するようなことはしない。

「車だよ」

「車?」

「私はずっとあなたのことを調べていた。突然、居なくなったから。そして、当時不穏な動きをした車を見つけることができた。それ以上は調べることがあの時はできなかったのだけれど」

「僕をさらった車と加菜をさらった車が一致していたんだね」

「そう。たくさんの監視カメラを調べて、この街を見つけたの」

「車が正直にここに来たのか……」

 前言撤回。どうやら機関は甘い部分があるらしい。

「ううん。この街へ続く道路へは通ってもない。少なくとも、監視カメラに映る範囲ではね」

「……? どういうことかな?」

「この街を避けすぎている、そう思ったの。だから、この街だと判断した」

「……へぇ」

 愚直だった晴の変容に康樹は驚きを隠せない。なんだよ、結構冴えるじゃないか。

「実際、同じケースでさらわれたあなたと会えたのだし、当たりってことでいいよね」

「うん。僕も当たりだと思うよ」

「じゃあ……」

 晴は歩幅広く近づいてくる。

「何処に居るのか教えて」

 何というか、凄みがある。眼一つ無駄に動かない顔で接近されれば、迫力を感じずにはいられない。けれど、引いてはいけないことを康樹は知っている。晴に押されれば完全に向こうのペースとなってしまう。ここで引けば街中案内しろ、と言われかねない。幸いなことに、手がかりになるかもしれないことを把握している。

「まずは情報収集といこうか」

 晴は表情を変えないまま、頷いた。


 街の至るところにとある施設がある。それは交番のようなものだと思ってもらえればいい。だが、交番とはまた違うのは、取り締まるものは至って普通ではないこと、交番より大きく立派なものであるということだ。

「さあ、中に入ろう」

「カードキー持ってるの?」

 入り口にはセキュリティがしかれており、部外者は入ることはできない。康樹もその例に漏れず、部外者であり、侵入は不可能だった。

「少し交渉するから待ってて」

「わかった」

 壁にとりつけられたのは、カードキー認証装置と、インターホンに似た装置。後者を起動させれば、中にいる人物と会話することができる。

 康樹は迷わずその装置を起動させる。コール音が二秒も経たぬ間に、中へと繋がる。

「どんなご用件でしょうか?」

 穏やかな女性の声が聞こえる。

 ビンゴ。目的の人物が引けた。中々お偉いご身分だから、これは運が良いと言って過言ではない。

「こんにちは。康樹です。調べ物がありますので、中に入らせてください」

「……レポーター、何度も言っています。部外者は立ち入り禁止なんですよ。調べたいならせめて名前だけでも私たち機関に――」

「僕も何度も言っているけど、お断りです」

「――そうですか」

  その言葉を皮切りに、相手は言葉を発しなくなった。先程もいったが、これは交渉だ。康樹が条件を出さなければ、相手は納得しドアを開いてはくれない。

「情報なら持っていますよ」

「何でしょう」

「反乱軍『エスプ』の情報について」

「――了解しました」

 あっさりとドアは開く。冷たい空気が後方へ流れていく。

「……何だか、凄いんだね」

「そうかな?」

 康樹達は中へと入っていく。

「レポーターって呼ばれているの?」

「うん。勝手に呼ばれ始めたんだ」

「私もそう呼んだ方がいいのかな」

「やめてくれよ。そんなことなら名前で……そういえば名前は呼ばれたことなかったね」

「それはあなただって」

「確かに」

 康樹達の間柄は周りからはさぞ奇妙に思われていたことだろう。隣同士なのに、距離感がある。それが呼び名にも表れているのだろう。

「エスプって?」

「後で説明するよ」

 階段を登り、一室に辿り着く。

 鉄製の扉を開けると、先程の通話相手がいた。

 青縁の眼鏡と、その中に宿るのは鋭い眼光。その姿がもたらすイメージは晴と似たようなものがあるかもしれない。まさしくクールな印象を抱く。

「こんにちは」

「調べるのは結構ですが、お早めにお願いします」

「はいはい」

 康樹は慣れた様子で部屋へと入っていく。

 康樹の後に続こうと、晴も踏み入るが「待ちなさい」と制止される。

「どうしたんだい?」

「レポーター。あなたに対しては入室を許可しました。ですが、そちらの女性に対しては許可した覚えはありません」

「固いなぁ。調査したい人物は彼女と深く関わってるんだ。許してくれませんか?」

「致しません」

「だったら情報は言わない」

「……ちなみに、エスプの何についての情報なのでしょう?」

「エスプの潜伏場所。これでも気にくわない?」

「……っ」

 彼女は顔を歪ませる。それもそのはず。この街、座居市を揺るがしかねない反乱軍の拠点が分かるのだ。機関からしてみれば喉から手が出るほど欲しいに違いない。

「勿体ぶることでもないから先に言うよ。潜伏場所は辺境の山の中腹付近にある洋館らしい」

「具体的な場所は?」

「何とも。でも、有益な情報ですよね」

 彼女は再び悔しさを顔に滲ませた表情をする。

「……了解しました。しかし、お名前だけでも聞いてよろしいでしょうか?」

「ああ、彼女の名前は――」

「白峰晴。よろしく」

 晴は堂々と名前を告げる。康樹はやってしまったといわんばかりに頭を手でおさえる。

「私は、第一管理局所属、支部長の涼原華織です」

「……自己紹介が済んだなら早速調査に移ろう。こっちだよ」

 康樹は晴を誘導する。その動きを華織は目を光らせながら追い続ける。

(名前を言わせたのは間違いだったな……)

 康樹は後悔を滲ませながら、パソコンの置かれたデスクに着く。

「何を調べるの?」

「このパソコンにはこの街に住む人達全員の情報が入っている。もし加菜が本当にこの街に連れ去られていたとしたら」

「加菜の情報が入っている?」

「そう。その通り」

「ちょっと待ってよ。何で加菜が拐われたことをこの施設が把握しているの!?」

「……それはね」

 不意に、康樹の手が止まった。

「加菜……すまない、加菜の苗字を教えてくれるかい」

「え? 高城加菜。まさか忘れたの?」

「面目ない」

 康樹は高城加菜の名を検索し始める。

「気を取り直そう。――僕や加菜、いや、この街に住む人々の大半は、誘拐されたんだ」

「……どういうこと?」

「わからないかい? この街、この機関は誘拐と密接している。いや、それどころか主犯だ。確固たる意思を持って僕達を拐い、この街に『閉じ込めている』」

「……意味がわからない」

「まあいずれわかるよ」

 パソコンが検索結果を提示する。だが、しかし画面上に出されたのは「not found」の文字だった。

「そんな……! 加菜はこの街にはいないってこと――」

「いや、これはチャンスだよ」

「え?」

「こう言えるんだ。逆に良かったってね。まだ加菜を救うことができる」

 今度こそ晴は首を傾げ、疑問を顔に浮かべていた。


「全部説明するよ。まずはこの座居市について」

  華織の注視を何とか潜り向け、夕暮れが始まる頃、康樹と晴は管理局とは少し離れた喫茶店で向かい合っていた。コーヒーから静かに伸びる湯気を鼻に含み、一口飲むと晴を見つめる。

「この街は外見上は普通の街だ。だけど、決定的に違う部分がある。それはこの街に住む殆どの人が、能力を所有しているということだ」

「能力?」

「そう。晴でも、特別な能力を持つヒーローが活躍する映画は見たことがあるよね」

「うん、ぼんやりと。まさか、康樹もそんな能力を……?」

「大した能力じゃないけどね」

 康樹は頷いた途端に、晴ではない誰かに話しかける。

「フィ君。能力を使ってもらえるかい?」

「……?」

『まずは能力がどんなものか見てもらおうと思ってね』

「能力を……」

 晴はとある事に気づく。それは、先ほどの言葉が康樹から聞こえてきたものではなかったということ。何故なら、康樹の口は少しとして動いてはいない。それなのに、康樹と同じ声で、まるで頭に響くように伝わってきたのだ。

「今のって」

「フィ君って男の子の能力だよ」

『よろしく!』

 再び頭に響いたのは、康樹ではない、男の子の声だった。

 だが、晴は辺りを見渡しても、その声の存在を捉えることができない。

「フィ君の能力は人の頭の中に入り込んで、情報を共有することができるって能力なんだ」

「そ、そうなんだ」

『結城晴、ねぇ。何だかとっても面白い人だね。歪んでいるようでまっすぐ。うーん、食えないなぁ!  もっと覗いちゃお!』

「止めて欲しい」

「フィ君。晴は怒らせたら後悔することになるよ」

『みたいだね』

「それより仕事だよ。高城加奈のことについてはもう知ってるね」

『もちろん。僕に分からないことは無いからね』

 フィは胸を張るように、大声を出す。晴はうざったそうに頭を振る。

「加奈が、一体どんな能力を使ったのか。教えて欲しい」

『おお、それはまた。時間がかかることだし、何より』

「報酬だろ?」

『レポーターさんは話が早くて助かるねぇ』

「今からどれくらい経つかは不明確だけど――その内機関に浸入することになる」

『ほほぅ。それで?』

「もしかしたら、機関内部からすっごい情報が手に入るかも……ってね」

『なるほどね。――請け負おう。高城加奈の能力について』

「頼んだよ」

 康樹達は頭から何かが離れていくような感覚を抱く。

 一秒もしない間に、晴が問い詰めてくる。

「加奈が能力を持っているって、どういうこと?」

「拐われた人達の共通点、それは能力を所有――いや、発現させてしまったことなんだ」

「発現――」

「フィ君によるとね、特異な能力は全ての人間に備わっている。けれども、それを目覚めさせることはなく、死んでしまうのが普通だ。でも、僕達のような、突然能力を発現させてしまった人達がいる」

「じゃあ、加奈も……」

「そうだね。能力の発現には規則性があるんだ。例えば、死の縁際に立つ、とか、何としてでも叶えたいことがある、とか。当てはまったとしてもやはり能力を発現させず仕舞いになることが大半らしいけどね。加奈は最近そんなことあったかい?」

「ない……と思う」

「……なら、とっくの昔に発現をしていて、それでいて今の今まで行使したことがなかった、ってことになるのかもね」

「……」

 晴は頭を下に向けたまま動かない。それもそうなのかもしれない。能力だなんて、さらには身近な人が能力を持っていたなんて、信用しろという方が難しいだろう。

「そうだ――。そういえば、『not found』。この街にはいないってことになっていたけれど、あれは……?」

「うん、それがまだ救いなんだ」

「全く理解ができない」

「これを見て欲しい」

 康樹は袖を捲る。晴は露になった肌に目を丸くさせる。康樹の肩には、烙印のような、五桁の数字が刻まれていた。

「何……これ……」

「この街に住む人々は全員この数字を肩に刻まれる。連れ去られたその数日後にはね。そして、この街に『閉じ込められる』」

「あっ……。それも、さっき言ってたよね」

「僕達、能力者には、具体的にはこの数字が刻まれた能力者には、この街から出ることができなくなる。霧があるんだ。この街を一周するように、深い、霧が」

「霧……?」

 晴は腰を浮かせ窓を見る。しかし、晴の目には一切霧は見えない。だが康樹には、街の住人には、先の空の青ささえ見えない深い霧が見えているのだ。

「多分、数字を刻まれれば、というのが条件なんだ。無理に霧を突き進もうとすると次に目覚めるのは収容所の中だ」

「え? じ、じゃあ加奈にその数字が刻まれれば……!」

 机を叩き、前へと晴が乗り出してくる。

「当然、この街から逃げ出すことは不可能」

「……!」

 晴は、重く目を閉じながら、席に着いた。

「……康樹も、なんだよね」

「そうだよ。僕はこの街から出ることはできない」

「そんな……、折角、出会えたのに」

 晴の体が少し揺れているのが目にとれた。

「僕はもう無理だけど、加奈はまだ救える」

「……あっ」

「加奈はまだ、この数字を刻まれてはいない。この数字はいわば、この街に住む人々のアドレス。管理番号といったところだ。でも、加奈はこの街の住人として未だ登録されていない。それなら――」

「それなら……まだ加奈は数字を刻まれていない……」

「正解だ。拐った直後は、その人物がどれ程の能力を有しているのか、調べる必要があるからね。今はその間なんだろう。つまり、その内に加奈を機関から奪い返せば――」

「加奈を……この街から救い出せる!」

「そういうこと。どうやら機関は能力者を見つける際に、本人が能力を行使しなければ感知できないようだからね。ここからずっと遠くの場所に能力を使うことなくひっそりと暮らしていれば、もう加奈に辿り着くことはないだろう」

 晴は一度として口のつけなかったコーヒーを飲み干し、勢い良く席を立った。

「なら、今すぐに助けにいこう!」

「待った」

 康樹は晴を制止する。今にも駆け出しそうな姿勢だ。

「機関は恐ろしいよ。とんでもない驚異だ。警察と組織体は似ているけど、持つ実力は計り知れない。彼らも能力持ちなんだ。考え無しに突っ込んで勝てる奴等じゃない」

「でも、早くしないと加奈が!」

「まずは座ってくれ」

 晴は渋々といった様子で席へと座る。

「覚悟はあるかい?」

「え?」

「機関と戦う覚悟だ。怪我だけじゃすまないかもしれない。命すら賭けるんだよ。その覚悟が――」

「ある」

 即答だった。

「ある。覚悟なら、ある」

 まっすぐな目だった。康樹は、頭に残る昔の晴と重なった感覚がした。

「そうか。聞くまでもなかったかもね。うん、じゃあ、晴には能力を発現してもらおう」

「……は?」

 晴の顔が困惑の色を見せる。

「発現って……危険な目に合わなきゃいけないってこと?」

「いや、そうじゃないよ。まあどうせ機関に挑めばそれは危険な目には合うだろうけど……。僕の能力なんだ」

「康樹の能力?」

「そう。僕の能力は、『能力を発現、覚醒させる能力』。僕は手で触れた人間の能力を好きにすることができるんだ」

「それで、私に能力を?」

「うん。少し手を失礼するね」

 康樹の手が晴の手と重なる。

 晴は少しだけ体が温かくなる気がした。それが、気恥ずかしさによるものなのか、能力によるものなのか、晴には分からないままだ。

「はい、もう終わりだよ」

「私ももう能力を持っているんだね」

「そうなるね。そして、多分宿った能力は――『元に戻す能力』ってとこかな」

「分かるの?」

「大体ね。……能力はその人物が、したい、叶えたい、その欲求に強く影響している。君は『元に戻したい』と思っているんだね。――やっぱり、あの事件のことだね」

「……」

「――ごめん。気を悪くさせたなら謝る」

「ううん」

 晴は強く拳を握る。

「私が、私が全部悪いから。あの、事件は」

「……」

 二人の間に沈黙が居座った。

 康樹も一度顔を沈めた後、声を出す。

「能力を試しに使ってみようか。マスター」

 康樹はカウンター奥の寡黙な店主に話しかけた。

「このカップ割ってもいいかい? うまくいかなければもちろん弁償するよ」

 その言葉に店主は頷くことはなく、ただ顎髭をさするだけだ。

 しかし、康樹は「ありがとう」と言い早速カップを床へ叩きつけようとする。

「マスターは了承してないみたいだけど」

「マスターは喋らないし、顎髭をさするのはオーケーの合図なんだ。ノーの場合はこめかみを触るんだよ」

「へぇ……」

 晴はマスターを見る。確かに一言も発していない。細目で渋い顔つきは何を考えているか分からない。

 突然、音が響き、晴は目を奪われた。康樹がカップを割ったのだ。

「手をかざしてみて」

「――こう?」

「そして、元に戻れって祈るんだ。能力というのは簡単に発動する」

 晴は目を閉じ、元の形のカップをイメージする。

 そして――。

「……あれ?」

 床には、バラバラになったはずのカップがいつの間にか消え去っていた。

「消えたのか?」

 康樹は疑問を持ちながら、机に目をやると――

「……何?」

 割れたはずのカップが元に戻っていた。

「なんだ、成功していたんだね」

「えっと?」

「これで判明した。君の能力は『元に戻す能力』だね」

「いきなりどうしたの?」

 晴は意味がわからないといった様子で尋ねてくる。

「いや、どうしたのって……。君は今割れたカップに手をかざし、カップを元に戻したじゃないか」

「私、手をかざしてないし。それ以前にカップを割ってもないよ。マスターがノーってサインだしたじゃない」

「……なるほどね」

 これが相当厄介な能力であると、康樹は悟る。

「マスターはさっき本当に、ノー、ってサインしたんだね。そして、カップは割らなかった」

 マスターはゆっくりと、顎髭をさすった。

「分かったよ。君の能力の本質が」

「さっきからおかしいよ」

「カップが元に戻っている。それ自体は変わりない。でも、重要なのはそれ以前。そもそもに、カップが割れることはない、割れるはずの運命を変えたんだ」

「……?」

「『元に戻す能力』ではなく、『壊れる事実を壊す能力』ってところなのかな」

「何を言っているのか全然分からない」

「さっき僕は、実際にこの手でカップを割り、晴は手をかざした。これは、本当だよ」

「それを信じるにしても……おかしいじゃない。何で私は覚えていなくて、康樹が覚えているの」

「僕は、自らの手で発現、覚醒させた能力は通じないんだ。何ら効力を持たない。だから、君の能力は通じなかった。僕だけが覚えている理屈はそれだろうね」

「……信用していいの?」

「マスターは僕を信じてくれるね」

 マスターは何のサインも出さない。どうやら、分からない、といったところだろう。

「マスターは信用してくれると思ったのになあ。――っと、頃合いかな。よし。じゃあそろそろここを出よう。マスター、おいしかったよ」

「あ、ちょっと」

 康樹達は席を立ち、会計をすませる。

「あ、そうそう」

 ドアに手をかけた時、康樹はマスターの方へ振り向く。

「トラちゃんに連絡。用件は……緊急、って伝えてくれるかい? それと回収に何人か」

 マスターは顎髭をさすった。

 康樹は笑顔で応えその場を後にした。


「康樹はこの街から出たいとは思わないの?」

 カフェを出、特に目的地もなく二人は歩く。斜陽が二つの長い影を作る。

「出たい、けど、出来ればってとこかな。命の危険を冒してまで、叶えたい欲求じゃない。機関は僕達を支配するとともに、安定した治安を約束してる。平穏である以上、僕が動く必要はない」

 康樹は迷うことなく言い切った。

 確かに、この街は牢獄のような空間だとしても、物騒な事件が起こるわけでも、モルモットよろしく怪しい実験の対象にされる訳ではない。それならば、康樹はこの街から出るという考えは頭の片隅でしかなかった。

「他の人達もそうなの?」

「どうなんだろうね。やっぱり満足していない人も多いんじゃないかな。もしかしたらどこかで暴徒でも組んでいるのかも」

 こんな会話を繰り返しながら、康樹達は道を進む。目的地はない。しかし、一つの目的のために行っていることだった。

「おい、そこのお前達」

 脇道の無い住宅街のとある道。康樹達は呼び止められ振り向いた。

 そこには、黒い服で身を包む男達の姿があった。

 影がいくつも重なった。

 そして、いつの間にか囲まれていることに気づく。どうやら、話を聞く、程度では済みそうもない。

「おとなしく捕まってもらおうか」

「この人達が、もしかして機関っていう……」

「そうだね。僕達が加奈を探っていることを不審に思ったんだ」

 大方、華織さんが通報でもしたのだろう、と康樹は考える。晴が名前を言ってしまったのもその要因だろう。街に登録されていない名前の人物と共に動いているのだから、怪しまれて当然である。

 機関の人間はジリジリと距離を詰め、今にも飛びかかりそうな姿勢でいる。

 晴は手に汗を握りながら戦闘体勢を構える。晴は武道を極めており、腕っぷしはたつがこの人数に加えて、能力者ともなればその力量差は歴然としている。まさに絶体絶命という局面だ。

 たが、康樹は悠然といた。警戒をするでもなく、逃げる手を思考するでもなく、ただ悠然と。

「今だ! かかれ――」

「ちょっと待ちな」

 多勢に無勢。人数と力の波が康樹達へ押しかかろうとした時、空から、正確には人様の屋根の上から、彼女はやって来た。黒服達と康樹達の間を切り裂くように降り立った彼女は、鬼にも似た形相で黒服達を睨み付けた。

 黒服達は足を止め、動きあぐねる。

「あたしを差し置いて楽しそうなことしてんじゃねーよ」

 右手に持つバットが音をたて地面に当たる。

「くっ――、『トラ』だな」

「お前ら三下にもばれてんのか。こりゃいよいよ動きづれぇなぁ」

「――ッ。捕らえるぞ!」

 黒服達は一斉に動き出す。いくつもの手が、トラへと伸びていく。

 だが、ハラは顔色一つ変えずその全てを避けた。隙間などほぼ無い。にも関わらず、黒服達の手はかすりもせず、空間さえ移動したようにハラは避けていく。

「おっせー」

「グガッ――」

 トラはついにバットを黒服達へ向け始める。その威力は絶大なようで、背中を叩かれた一人は地面に倒れ痛みに悶えていた。

「オラオラ! 覚悟決めてかかってこいや!」

 凄い、晴は目を奪われていた。

 殴り方も避け方も全部が目茶苦茶なのに、凄い。

 トラは息をきらすこともなく、流れるように黒服達を再起不能にさせていった。

 そして、気づけば黒服はたった一人だけになった。

「どうする? 怖くて怖くてもう仕方ねぇ、つっーなら逃げてもいいんだぜ? それともうちらエスプにでも入るか?」

「エスプ――。貴様やはり繋がっていたのか」

「トラちゃん。前にも言ったけどそう易々とその名前は出さないで」

「あっ、わ、わりぃ。だって何かかっこいいだろ、組織の名前言うの。へへっ」

「エスプ――、あっ、反乱軍って言ってたっけ」

「んあ?」

 トラは晴にかがみこむように、顔を睨み付ける。

「誰だぁ? この女?」

 晴が圧されているのを尻目に、康樹は微笑ましい気持ちでいっぱいになっていた。

 トラは言っては難だが、というより言ってはいけないのだが、有り体にいって身長が低い。晴は女性では比較的身長は高い方なので、並ぶとその差が際立っていた。

「――了解しました」

「――! トラちゃん、早くアイツを!」

 黒服は道に手をかざす。間違いなく、能力使用だ。

「ちっ」

 トラは黒服に向けて駆け出す。しかし、その勢いはまるで地面に吸収されたように、膝をついてしまった。転んだ? いや、違う。トラの足は地面にめり込むようになっていた。

「トラちゃ――、なっ」

 康樹は急いでトラの元へ向かおうとするも、足が棒のように動くことを許さない。見れば、自分の足もまた、地面へと入っている。否、どんどん地面の中へ沈んでいく。さながら、沼へ沈んでいくように。

「これが俺の能力だ」

「何でこの能力を初めから使わなかったの!?」

「暴力には暴力を、能力には能力を、が鉄則だからね。僕達が能力を使わなければ向こうも使わない。でも、トラちゃんは能力を使用してた。それがばれてアイツに連絡が入ったんだ。能力使用許可の連絡がね」

 こうしてる間にもますます、体は地面へと消えていく。もしこれがこのまま続き全て体が呑まれてしまっては、と最悪が康樹の頭を過る。

「畜生!」

 叫んだのはトラだった。

「こんなところで終わるわけにはいかねぇんだ! 俺は絶対にこのくそったれの街からでなきゃならねぇんだよ!」

 トラは全ての力を振り絞り、半身を起こす。

「それで何ができるっていうんだ――ゴッ」

「……こうすんだよ」

 トラの右手から放たれたバットが、風を切る速度で黒服の頭へと直撃した。

 黒服は力なく倒れふし、その瞬間トラ達の勝利が決まった。


「また派手にやったなぁ」

「ごめん。ほら、トラちゃんも謝るんだよ」

「天野に頭下げるくらいなら死んだ方がましだね、天野が」

「俺かよ!?」

 決着が着いて後、回収班が現れた。

 回収するというのはもちろん、黒服達のことである。置きっぱなしという訳には当然いかない。しかし、連絡が途絶えたことから、本部は既に察知しているであろうことは予想できるが。

「そんで、やる気になった、ってことでいいのか?」

「うん。本部に攻めこむよ」

「え、ええっ!? ど、どうしたつっーんだよ康樹! 昨日までずっと首を振っていたのに!」

「男は一日経てば変わるもんなのさ」

「天野は黙ってろ」

「バットは止めろ!?」

 康樹はクスリと笑うと、天野とトラに向き直る。

「天野は別勢力に声をかけて。トラちゃんはエスプのメンバーをかき集めて欲しい」

「あいよ!」

「おう!」

 天野とトラはそう返事をした後、別々の方向へと駆けていった。

 康樹はそれを見届けると、困惑した晴を見る。

「えっと、彼らって」

「エスプのメンバーだよ」

「エスプ――反乱軍って言ってた――」

「そう。この街を支配する機関に抵抗する集団だよ」

「あなたもそのメンバーなの?」

「ああ、えっと」

 康樹は口ごもる。

「話は基地に行ってからにしよう。その方が簡単に理解してもらえると思うから」


 市街地をしばらく歩くと続いていた住宅は途切れ、工業地帯へと入っていく。

 その地帯の一つの工場に、康樹達は入っていく。傍から見ればただ単の工場にすぎない。しかし、そこは反乱軍エスプの本拠地であり、隠れ蓑として利用しているのであった。

「エスプのメンバーにここの工場長がいてね。地下をまるごと僕達に利用させてもらってるんだ」

「なるほど」

『脅して奪った、の間違いじゃない?』

「……フィ君、調査は終わったの?」

『うむ。成果は上々だよー』

「なら教えてくれるかい」

「私も知りたい」

『加菜はどうやら昔住んでいた屋敷をふっとばしたみたいだね』

「……ふっとばした?」

『うん。とある商店街に急に屋敷が現れたみたいなんだ』

「つまり、加菜の能力は『物を飛ばす能力』?」

『惜しい』

「――テレポート、かな」

『正解!!』

 康樹はその返事を聞くと熟考する。

「その二つに差異ってあるの?」

「どうだろう。ないかもしれないし、ないのかもしれない」

 含みを持つ言い方である。晴はそう零した康樹の口元が少し上がったのを見た。

『あー、レポーター凄いこと考えるね。失敗が怖くないの?』

「失敗の気配があっても、真っ直ぐ突き進む人間が近くに居るから怖くないよ」

「私のこと?」

『少なくとも僕じゃないね。レポーター、疲れたから少し寝るね』

 フィの能力は体力を荒削りする。脳を解析、共有する能力は確かに強力であるが、その疲労は計り知れないものがある。フィの能力を別の言い方をするのなら、脳を巡る能力である。人が別の人物を思考することで、脳を繋ぐパスが出来上がり、次の人物へと脳を支配することが出来る。だが、一人一人の脳を巡る度、おそろしい程の情報量が流れ込む。受け取るだけで意識が飛びそうな情報量、加えてそこから目的の情報を引き出すことは決して容易なことではない。たとえこの能力を発現出来たとしても、常人の精神力では使用することすらままならなかったであろう。

 この事実を理解している康樹は、一見怠惰に思えるこの発言を簡単に了承した。

「かまわないよ。だけど、戦闘時は頼むね」

『任せて』

 フィの声が途切れる。

 二人は工場の地下へと足を進める。

 そして階段が終わり少し伸びた道の先のドアをゆっくりと康樹は開けた。

「――!」

 晴は息を呑む。

 確かに、ここは普通ではない。何十人、いや何百人だろうか。その数が、狭苦しい地下内で構えていた。

 ドアを抜けた先は吹き抜けであり、その眼下に彼らが見えていた。

 彼らはドアの音に反応し、康樹を見上げる。

「みんな待たせたね」

「攻め込むというのは本当なんですか!?」

「――ああ」

 彼らは沈黙した。

 晴は彼らは戦闘に反対だからこそその態度を示したものだと思ったが、次に響いたのは批判の声などではなく歓喜の声が湧いた。まるでまちわびていたかのような。いや、まさにその通りなのだろう。

「これで俺たちはこの街から出れる!」

「ああ! レポーターがようやく決心してくれたぜ!」

「いつ行動開始しますか!?」

「みんな落ち着いて」

 再び静けさが戻る。

「機関をなめるような真似はやめた方がいい。心してくれ。それと、何故戦いに至ったのかを説明するよ」

 康樹は晴に前へ出るよう手で促す。人々の視線は突然現れた晴に釘づけになる。

「この子は白峰晴。僕の旧友だ。この子の友達が昨日攫われた。その人物はまだ本部に囚われている。この街に縛られる前に奪還する」

「ま、待ってください! 制圧が目的ではないんですか!?」

「……申し訳ないけどそういうことだ」

 動揺が波のように広がる。明らかな不満が目にとれた。

「確かに今回の戦いはあくまで『倒すこと』が目的じゃない。でも、僕達と機関との大事な初戦であることは変わりない。僕達が機関を凌駕する力を持っていることを証明するんだ」

「……そうだな。俺達エスプの実力をアイツらに示してやるんだ……!」

「ああ! びびらせてやろうぜ!!」

 康樹は晴に耳打ちする。

「単純だろ?」

「……そうだね」

 再び歓喜の声で一杯になった空間で、晴は苦笑する。

「この状況を見ると康樹がリーダーのように思えるんだけど」

「そうだよ」

「……何でそんなことに」

 晴は頭が回らない。

 康樹は平穏を望む。ならば、自ら火に飛び入るような真似をしていることに理解ができなかった。さらには、機関とエスプ、その戦いを導こうとしている。晴は今日一番の巨大な疑問を抱える。

「僕がリーダーになったのは成り行きだよ。自然と、なっていたんだ。まあ、人望じゃなくて僕の能力に依るところが大きいと思うけど」

「でも、リーダーを辞退することだってできたはずでしょ」

「見て分からないかい? 彼等は血気盛んなんだ。みんな機関を恨んでいるし。放っておいたら、何をしだすかわからない。僕がリーダーになって、彼等を抑制すればある程度は戦いは避けられると思ったんだ。実際、上手くいってたしね。それでも、最近は不満が溜まって爆発寸前って感じだったから、今回は戦うことにしたんだ」

「なるほどね……」

 康樹が、リーダー。

 確かに合理的な理由であったが、やはりその言葉は安易に呑み込みづらいものがあった。

「こっちは終わったぜ」

 右側のドアからトラがやって来た。

 終わった、というのは先程全滅させた機関の連中にとあることを吐かせる、ということである。

「結果は?」

「向かった、らしいぜ。今がチャンスだ」

「わかった。ありがとう」

 康樹は勝ち筋が見え始めていた。

 突然、ドアを蹴り破るように天野が入る。

「おい康樹! 『自警団』の連中が協力しねぇって言い始めたぞ! アイツらびびってやがる……。説得してやってくんねぇか」

「『自警団』は大事な戦力になるしね……。うん、向かおう。あまり時間はない。天野、バイク飛ばして」

「おうよ!」

 天野は出口へと駆け出す。

 康樹はそれに続こうとするが、晴へと一旦向き直る。

「二時間後、戦いが始まる。晴はそれまでに休んでおいて」

「……わかった。康樹は?」

「僕は大丈夫。普段動いていないから、体力は有り余ってるんだ」

 晴は普段動いていないからこそ、体力なんてものは無いのではないかと思ったが、康樹に対する妙な信頼が安心を生んでいた。

 康樹なら大丈夫なのだろう、そんな心情だった。

 自分でも不思議だった。


 窓を眺める。

 鉛色の空が重たい雨を降らす。梅雨に入ると同時に、一人の生徒がめっきり姿を見せなくなっていた。

「高城はまた居ないのか」

 担任がため息を一つつく。

 私はそれが気がかりでならなかった。


 康樹を呼び出した。康樹は何気ない顔をしてやって来て、放課後の教室で二人残る形となった。

「高城加菜――知ってる?」

「知ってるもなにもクラスメートじゃないか。もちろん、把握しているよ」

「じゃあ――一ヶ月も学校を休んでいる理由は?」

「……」

  康樹は口ごもることはなく、平然と次の言葉を繋げる。

「風邪って聞いたけど」

「風邪で一ヶ月も休むはずがない。おかしいと思わないの?」

「僕に言われてもな」

 康樹は肩をすくめてそう答える。何か知っている、私はすぐにそれを察した。

「本当のこと、言ってくれないなら――私は加菜の家に行く」

「……はぁ。晴の脅しは随分と強力だね」

「話してくれる?」

「うん、条件付きで」

「何……?」

「真相を聞いても、動かない。いいかい? これは解決してはいけないことなんだ」

「え?」

 解決してはいけないこと、私にはそれが入ってこない。一体、どういう――。

「まず、加菜の父親がこの市内で有力な政治家であることは知ってるね」

「うん」

 私は遠目で加奈の家を見たことがあるが、その一目で判断できる豪邸だった。調べればすぐに加菜の父親がただ者ではないことはわかった。

「その父親が、加菜に対して暴力行為をしているんだ」

「――!」

 家庭内暴力、というものだろうか。

「……康樹は何で知っているの?」

「ずっと前に街中でばったり加奈に会った。買い物帰りだったね。体はフラフラとして、目は虚ろ。付けてみて家の中を覗けば、案の定だった、ってことさ」

「康樹は見捨てたってこと!?」

「落ち着いて」

 康樹は私をたしなめる。

「この事実は、おそらく学校側も把握している」

「――そんな」

「でも、動けないんだよ。多分、市政から圧力を受けている。暴力行為を表沙汰にすれば、補助金を出さなかったり、給料を下げたりでもするんじゃないかな」

「それって――自分達のためじゃない! 見捨てていることに変わりなんてない!」

「そうだね」

 康樹はあっさりと頷いた。

 まるで、私のことを見透かしているといわんばかりに。

「じゃあ君は――どうする?」

「……どうするって」

「彼女を、高城加菜を助けたいんだろ? じゃあどうやって助けるつもりなんだい?」

「そ、それは……」

 口ごもる。

 私はいつもそうだ。何も考えることはない。考えたことはない。ぶつかって、ぶつかる。それだけだったから。

 それが、結局は何を生まないのだとしても。じっとしているより、私は何倍も良かった。

「君に一つ言っておくよ」

 康樹は一拍置いて、告げる。

「僕達にできることなんて、たかが知れている。いいかい? 僕達は『普通』なんだ。何も生み出せないし、何も排除することはできない。常識という線になぞられながら世の中を生きていくだけ。君もその一人にすぎない」

「……」

「わかったかい? この件は諦めるんだ。僕達の力じゃどうしようもない」

 私は、黙っていた。黙っていることしか、できなかった。


 雨音は夜になっても響いていた。

 普通。

 その言葉を考えてみる。

 普通とは。

 正しさを押し殺しながら、常識に目を回す、ということなのか。救えないものは救えないと決めつけ、目を反らしながら生きる、ということなのか。

 分からない。理解できるはずのない。

 私はまっすぐな両親に育てられた。警察官だった。二年前に死んでしまったけれど。それでも、両親が残してくれたものは何よりも大きかった。

「迷わず生きろ」

 私はその言葉をずっと胸にしまっている。

 涙が気づけば流れていた。

 そうだ。何、迷っているんだ私は。

 周りがどうなろうと、どうだろうと、関係ない。無論、康樹のことだって。

「……よし」

 ほら。体は勝手に動く。意思は自然に固まっている。

 私は、加菜の家へと向かっていた。


 小高い丘に彼女の家はあった。彼女の家の周りには草木が広がっている。まるで、彼女を囲む檻のように。

 窓を見つめる。リビングのようだ。見るからに豪華絢爛とした内装だ。

 しばらく見るが、音が聞こえるどころか、姿さえ見えない。

 インターホンを鳴らすことを考え、足を向けようとした時、状況は一変した。

 耳に届いたのは、何かが押し倒れる音。

 再び窓から覗く。部屋の中には、全身痣だらけの加奈とその父親らしき人がそこにはいた。加菜は体を床につけ、そのまま動かない。気を失っているわけではない。ただ、衰弱しているのだ。見ているだけで、度重なる暴力が彼女の生命力を奪っていたというのが目にとれた。

 父親の方へ目をやると――その手には包丁があった。

「――!」

 父親の顔は醜く歪んでいた。冷静さを欠いてることなど、すぐに察した。そして、この事態が窮地に追い込まれているということも。

 不意に、加菜と目が合った気がした。

『助けて』。

 満足にそんな言葉さえ伝えられない口。

 でも、私には確かに届いた。

 だから、私は迷わなかった。

 幸いここには、落ちた枝が多い。

 手頃な枝とは、ある程度太さ、先端が尖った枝だ。それを見つけ出し、手に取り、思い切り窓へと投げつけた。

 割れるわけではない。しかし、大きな亀裂が入った。急いで枝を引き抜き、数発の拳を見舞う。すぐにガラスは粉々になり、侵入することができた。

 中に踏み入る。すると、視界に入ったのは加菜だけで、父親の姿はどこにもなくなっていた。窓の異変を察知し、逃げたのか、それともどこかへと身を隠したのか――。

 いずれにせよ、加菜をそのままにはしておけない。

 加菜に近づく。

「――ッ」

 ひどい。そんな言葉しか浮かんでこなかった。

 怪我をしている? 痣だらけ? そんなレベルの話じゃない。こんなものは最早『人間として扱われていない』。

 息を呑む程だった。康樹が見たときより確実にひどくなっているだろう。暴力は日に日に増していったのだろうか。

「いやー、申し訳ない」

 背後から声がかかり、すぐに体を反転させる。

 父親だ。手に包丁はない。それどころか襲ってくる気配さえない。

「君を勘違いさせてしまったようでね」

「……何?」

「まあここで話すのもなんだろう。加菜を連れてこちらまで来てくれないか?」

 私は食い下がるつもりだった。信用できない、そう声をあげるつもりだったのに。

 加菜が勝手に動き出してしまっていた。先程打ったのであろう右腕を左手で庇いながら、のらりくらりと。

「……」

 私は黙ってついていくしかなかった。


 部屋を移動し、席に着く。私は、父親と対面し、その父親の隣に加菜は座っていた。加菜は一向に目線を合わせようともしない。少し下をうつむき、それきりだ。対して、父親は微笑を浮かべたままこちらを見つめている。

 怖い。その顔はいうならば、仮面だ。本性を隠すためのもの。そうとしか思えない。

「君は確か加菜の同級生、だったね」

「……はい」

 市長、だったか。だとするなら、娘のクラスメートを下調べするのも何らおかしくはない。

「うーん、名前は――」

「晴です。白峰晴」

「おお! そうだった、そうだった。白峰さんの娘さん、ってことだね」

「白峰さんって……。私の両親のことを知ってるんですか?」

「当たり前じゃないか。君の両親のことは私は良く知って――」

「待ってください。聞いておいてごめんなさい。そんな話よりも、私は知りたいことがあります」

「……ああ、そうかい」

 父親はチラリと加菜を見る。

「彼女のこと、だね」

「はい」

「勘違いさせてしまった、と私は言ったね。そうだ。端から見れば私が暴行を加えてるようにしか見えないだろう」

「……違うとでも?」

「違う。何故なら、暴力を求めたのは、他でもない加菜なのだから」

「……は?」

「全くこの子はどうしようもなくてね。自ら暴力をふるって欲しいなどど――呆れた。が、私はその要求を呑んだ。何せ私はあまり妻にも娘にもろくに何かをしてあげれていないものでね」

 父親は席を立ち、窓を眺める。

「君を勘違いさせてしまったこと。素直に謝罪することとしよう。すまなかった。窓の弁償は当然構わないよ」

「そうですか」

「おお、納得してくれるのかい。なら、もう一つ頼みたいことがあるのだが」

「何でしょう」

「この事は、黙っていてくれないか。事実は違えど、私の周りには妙に騒ぎ立てる連中が多くてね。たまったものではない」

 父親はゆっくりと私に近づき。

 手を私の肩へと置いた。

「……分かってくれるね?」

「……ッ」

 異様な強さで肩を捕まれていることを知覚した。脅し以外の何物でもないだろう。

 私はその手を払いのけた。

「そんな子供騙しで、納得なんてするわけないでしょ。あなたは許されないことをした。だから私は許さない。それだけのこと」

「――はぁ。君も、か」

「……? 何?」

「君の両親もそうだったな。無意味な自己犠牲なんて下らない。余計なことに首を突っ込むからあのようなことになるのだ。親子揃って大馬鹿者が!!!」

 窓が揺れるほどの大声を、突然父親が発する。

「貴様は親から何も学んでいないのだな」

「……うるさい」

「あの銀行の事件を覚えているか!? 日中、腹に爆弾をくくりつけた犯人が現れ、人質をとった。人質の中にはお前の母親がいた。犯人との交渉にあたったのはお前の父親だそうじゃないか」

 二年前のことだ。犯人は金目当てではなく、強制的に周りを巻き込んでの自殺が目的だったという。

「交渉は無事成功。人質の解放までこぎ着けた。だが、お前の両親はあろうことか! 犯人まで救おうとした! 不必要な情けを犯人へとかけたのだ!」

「……うるさい!」

「馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ!! それでいて、犯人を無理に刺激し、共々爆死するとはな! 滑稽だ! ハハハハハ!!」

「うるさい!!」

「お前それと何一つ変わらん。だから、お前は、ここで死ぬのだ」

 私は冷静さを欠いていた。だから、見逃した。

 父親がゆっくりと、近づいていることに――。

 その手には包丁が握られていたことに――。

「あっ……」

「遅い」

 頭の上から落とされる一振りは、身を横に動かし何とか頭には当たらずにすんだ。その代償として深々と肩へ突き刺さる。

「ぐっ――」

「ん? さっきの威勢はどうした?」

 肩から包丁が抜き出される。

 次に訪れたのは、横凪ぎの一線。後ろへと脚を使い飛び、胸の前すれすれで避ける。

 たが、間髪入れずに蹴りを腹へ入れられる。

 想像を絶する衝撃に私は宙へと浮き、壁へと叩きつけられる。

「――かっ、は……」

 息が上手く出来ない。視界もぼやけてる。肩へと手をのせると尋常じゃない血が手のひらへとついていた。

 もう考えるまでもない。直感で私は、もうすぐ死ぬ、と察する。

「安心しな。加菜もお前の後を着いていくようにしてやる。寂しくないだろ?」

 ゆっくり、ゆっくりと足を向ける。

 ああ――。

 何でだろう。何で最後なのに、私のことでも、両親のことでもなく、あの男のことが頭に浮かんでくるんだろう。

『僕は君のことが好きじゃない。君も僕のことを好きじゃない。君はもしかしたら僕のことを嫌いなのかもしれない』。

 そんないつ時かの言葉が過る。

『でも、僕は君のこと、嫌いじゃないよ』

 ――ああ。

 私が『普通』だったら、良かったのかな。

 もっと君と、話せてたのかな。

 こんなことには、ならなかったのかな。

 後悔と涙が押し寄せる。

 悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて、たまらない。

 私は何も出来なかった。

「終わりだ」

 包丁を構えている。より一層力をこめて。

 そして、その時はくる。

 包丁は私の方へと向かってきて。

 私は、目を閉じた。

 ――。

 ――。

 ――?

 痛みはこない。

 一体、どういう。

「侮ってた」

 その声は、父親の声ではなかった。

 先程まで頭の中で、煩いほど聞いた、あの。

「君を侮ってた。そうだった。忠告程度じゃ君は止まらなかったね」

 私は、目を開けた。

 そこに、彼はいた。

 包丁は宙に留まっている。

 彼は父親の振り下ろした腕を、全身を使い肩で止めていた。

「ちっ」

 父親は即座に距離をとる。

「なんだてめぇは。邪魔しやがって」

「邪魔してごめん。でも、邪魔する理由があるんだ。仕方ないだろ」

「あっそ。じゃあ、死ね」

 包丁は彼の、胸、脚、腕、頭、全ての部位へと向く。だが、彼は冷静にそれを捌く。

「ど、どうして来たの」

「君の家に行って、インターホン押してもでなかった。それだけ!」

「何をごちゃごちゃと!!」

 包丁はなおも牙を向く。先程より余裕が彼には無いように見える。

 彼は横には逃げない。後方へと足を動かす。何故――?

 私が、いるから?

 彼の背に私が、いるから?

 彼はこちらをちらと見る。

『そこにいろ』。

 そう言ってるのが分かった。

 でも、従えない。せめて足手まといにはなりたくない。

 私はよろよろになりながら、手を壁へ向け何とか体を起こす。

「ひひっ」

 嫌な笑い声がする。

 父親と私は目が合う。父親は彼の隙間を縫うように包丁をこちらへと投げつけた。

 そんな――。

 血が、頬を濡らす。

 彼の血が、地面へと滴る。

 彼は腕を伸ばし、包丁の軌道を防いでいた。

 だが、あれは。あの傷では。

「左腕はもう、使い物になんねぇなぁ」

「まだ、右腕は使えるさ」

「どうだが?」

 父親は彼を押し倒し、足で思い切り彼の右腕を踏みつける。

「ぐあっ!」

「包丁を使うのもいいが、なぶり殺さなきゃ気が済まないんでな。――オラ!」

 ――嘘だ。

 父親の足は、ためらないなく彼の体へと入れられる。彼の叫び声は、ついには骨の軋む音まで混ざる。そして、彼は吐血までした。

 ――やめて。

 声にならない叫びが頭の中に響く。

 私は結局脚の力が抜け、その場で崩れ落ちる。

 父親は手を彼への首へと伸ばす。がっしりと彼は捕まれ、次第に彼の体は宙へと浮いた。

「――はっ」

「へへ、どうだよ、苦しいか? 何とか言ってみろよ」

 彼はもがくが、そんなもの意味をなさない。

 彼は自分の手を父親の腕へ向け、掴む。

「や、やめて!」

 ようやく声に出せた。

 父親はこちらへと向き直る。

「……そうだな。お前からにするか」

「ぐはっ、はっ、はっ」

 彼は地面へと倒れる。

「私は、どうなってもいい」

「あん?」

「私は、いいから。彼は、彼だけは」

 涙ぐんで、声も掠れて、紡いだ声は、何のこともない、命乞いだった。それも、他人の。

「嫌だね」

「――ッ」

「そんな都合のいい訳が通るかよ。それによぉ、お前」

 父親は告げる。

「お前、加菜のこと忘れてね?」

「――なっ」

「加菜をそっちのけで、彼を救って欲しい、助けて欲しい、なんざ。下らねぇなぁ」

 私は気づきたくなかった。いや、心のどこかでは分かっていた。でも、目を反らしていたんだ。

「お前は所詮真似事。誰の真似事かって? 両親さ。お前の正義は両親から型どったものに過ぎねぇ! 違うのか?」

「……そ、そんなわけ」

「そうさ。お前は両親にも劣る、ヒーローにもなれないヒーローの背だけを追いかける哀れな存在。な? 死んだ方がマシだろ」

「死んだ方が、マシ――」

「白峰晴。学校の一番の問題児。正義を振りかざしては、それでお仕舞い。自己満足でお仕舞いってこったな」

「自己満足、――」

「それからそこの男も迷惑かけてんだろ? 面倒事引っ提げてはこの男に押し付ける。困ったもんだなぁ、お前さんは」

「押し付けて、なんか――」

「お前の真似事正義、自己満足、そのせいで、お前はおろかこの男も死ぬんだ」

「――あっ」

 ああ。

 そうなのか。

 私は彼に甘えてた。

 彼が居れば、そんな心が、私にはあった。

 だから彼は、殺されてしまうんだ。私が身勝手に、自己満足に、動かなければ、彼は死ぬことは無かった。

「死にたくなるだろ?」

「――」

 私は応えなかった。それが唯一の、抵抗だった。

「じゃあな」

 今度こそ、死ぬ。

 そう思う。

 私は、目を開けていた。視界の端に彼を捉えていた。

 ――ごめんなさい。

 そんな言葉を呟きながら。

「――!? ぐ、があっ!?」

 包丁が落ちる音がする。見ると父親は悶え苦しんでいた。

「あ、あぐっ、ぐっ」

 父親は手を胸に重ねている。その内、倒れこみ、ぴくりとも動かなくなった。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 彼の拙い息づかいだけが、その場に残る。

「晴。『普通』の話に、言葉を付け足そう」

「……なに?」

 初めて、晴と呼んでくれたことに、少しだけ跳ねた心音を隠して恥じて。

 その言葉を、聞き終えたとき私の意識は遠退いた。


 加菜はその後、私と暮らすことになった。塞ぎ込んでしまい、人間不信になってしまっているが、積極的に関わっていこうと思う。彼が残してくれたものだから。

 加菜の母親が言うに、父親は心臓が悪く、あの時は心臓発作を起こしてしまったらしい。即死だつたそうだ。

 母親は心身ともに大きく傷つき、加菜の顔を見ると父親を思い起こしパニックになってしまうという。それが、私が加菜と暮らすようになる要因であった。

 加菜は徐々に回復が見え始め、学校にも行くようになった。でも代わりに、彼の姿がどこにもなかった。

 彼は姿を消した。学校からではない。町から姿を眩ましたのだ。

 彼を思い起こす度に、あの言葉が浮かぶ。

 私は、その言葉に従い生きている。ずっと、今でも。


「おい」

 悪夢だ。晴が見る悪夢はいつもこれだ。

「おいって」

 晴と康樹を引き裂いたあの出来事を、未だに晴は夢に見るのだ。

「おい!!」

 晴の意識を現実へと強制して戻らせたのはトラであった。胸倉を掴むという強引な方法で。

「あ……、えっと、トラ、さんだっけ」

「さん付けは止めろ。むずがゆい。呼び捨てか、ちゃんに……いや、やっぱちゃんはなしだ、うん」

 トラは晴から手を放す。

「……トラちゃん」

「お前なぁ!!」

 再びくってかかるように晴にトラは接近するが、直接何をするでもなく、ため息をついて椅子に腰かけた。

「まあいいや。いい加減ちゃん付けにも慣れてきた。くそっ、天野の野郎。余計な呼び名広めやがって」

「あの、聞きたいことがあるんだけど」

「あぁん?」

 見るからにご立腹なトラだが、晴はそんなこと気にも留めない。

「ここ、『エスプ』って組織で間違いはないんだよね?」

「ああ、そうだよ。それが?」

「『エスプ』にいる人たちはみんなこの街からの脱出を目的としている――それなら、トラはどうして街を出たいのかなって」

「はぁ? お前そりゃ当たり前だろ。勝手に連れてこられて、勝手にここに住めといわれて、勝手に人生を決められて。納得する人間なんかいやしねぇよ。簡単に飲み込める奴は誰一人だっていない。そんな不満の結晶がこの『エスプ』だ。簡潔だろうが」

「それは私にも分かってる。そうじゃないよ。あの戦いの時、トラは言ってた。こんなところで終わるわけにはいかない、って」

「……」

 晴は似たようなものを感じたことがある。それは加奈の父親だ。決して同一なものとはいえないが、何かを求める執念、思い断つことのない精神。父親の場合は、殺意だった。トラにはその気迫と近しいものを感じたのだ。

「トラの目的は脱出だけじゃない。違う?」

「……恥ずかしいとこみせたな」

 トラは照れ隠しなのか頬を掻いた。

「そうだな……。脱出は目的だけど、最終目的じゃないんだ。この街を出て、叶えたいことがあるんだよ」

 トラは壁にかけた自分のバット、否、大輝と名前が書かれたバットを眺める。

「弟がいるんだ。ここじゃないところにな。このバットは弟が元気だった頃に使ってたバットだ」

「元気、だった?」

「そう。弟はある日、病にかかった。重い病気だ。学がないアタシでも、ああこれはまずいんだな、って分かったさ。チューブやら機械やらに囲まれながら病院で寝そべってる弟を見れば、そりゃあな」

 トラは少し俯きがちに言葉を続ける。

「ほんでもって、アタシが能力に目覚めちまって……弟を置いてけぼりにしちまった。情けない話だぜ。ずっと、傍にいてやるとか言っときながら、今身近にあるのは弟のバットだけとはね」

 トラは席を立ち、バットを手に取った。

「だからアタシはここから出なくちゃいけない。弟はもう死んでいるのかもしれないけど、でも、それでも。アタシは弟に会いに行かなきゃいけないんだ」

 バットを担ぎ、晴と目を合わす。

 強い意思だ。まっすぐな目だ。晴はすぐにそれを感じ取った。

「ま、弟に会いに行けるかはわからないんだけどよ」

「え?」

「アタシ達には記憶がないんだ。この街に来る前までの記憶が」

「……そんな」

「記憶に残るのは二つ。自分自身と、フィ調べによると、一番大切な人らしい」

「なんでまた」

「さあね。でも実際、アタシは親や友達の顔を覚えてないし、何処に住んでたかもわからなければ弟がどこの病院にいたかもわからない。わかるのはアタシが弟を溺愛してたこと、ぐらいだな。とんでもないブラコンだな!」

 晴は言葉を失っていた。

 もちろんショックであったこともある。だが、ある一つの推測に至ったのも原因だった。

 康樹が自分のことを覚えていた。忘れてなんかいなかった。そして覚えているのは、大切な人だけなのだとしたら。

「どうした?」

 はっ、として顔を上げるとトラがいた。

 まずい。悟られたら何を言われるかわからない。ここは誤魔化すことにした。

「トラは強いんだね」

「やめろって。むずがゆいのは嫌だっていってんだろ」

 晴はおもむろに手を伸ばし――トラの頭を撫でた。

「は?」

「……あ」

「――何してくれてんだ、お前なぁ!」

「ご、ごめん。何か、自然と」

 特筆することでもないが、トラは身長が低い。とてもじゃないにせよ、低い。晴が手を横に伸ばしただけで頭を撫でられてしまう程、低い。

 晴はトラが年上だと判明し驚くのはしばらく先の話である。

「ガルルッ!!」

「ごめんって」

 晴はその体からは想像もできない力で、鷲掴みにされた手と共に体が揺れる。

「あ! そうだ! アタシからも質問させてもらうぜ!」

「な、何?」

 多少の怒気を含んだまま、トラは続ける。

「お前、康樹と、あー、その、だな」

 だが、突然として歯切れが悪い。これには晴も目を丸くする。

「康樹がどうかしたの?」

「いや、だからな……あー! らしくねぇ!」

 トラはバットを強めに床に置く。

「お前、どういう康樹とどういうカンケイなんだッ!」

「関係、って」

「お前ここに来たばっかなんだろ! それにしては康樹と仲が良すぎなんじゃないのか!」

「いや、仲が良いってわけじゃ……」

「いいや仲いいね! だ、だって、アタシより何かうまく康樹と話せてるし? それって仲良いってことだろ!」

「自分基準なの?」

「ともかく吐け! どんなカンケイなんだッ!」

 トラは大声で捲し立てる。晴は平然とした顔を装ってはいるものの、何が起きたのか、さっぱりで混乱していた。

 だから、状況を整理することにした。あの時とはもう違う。突っ込んで終わるだけの晴ではない。真剣に真摯に考えて考え抜いて、結論を出すのだ。

 康樹の話になった途端、急に口ごもった。喋りだした途端、発火したように態度が変わった。――発火? 見るにトラの顔は燃え盛るように赤いではないか。晴は予感する。

「もしかして、トラって――」

「何だよ」

「康樹のこと、好き?」

「――」

 あ、黙った。

「す、好きってお前な、勘違いもいいとこだぜ。あんな、へっぴりで痩身で覚悟もない、でもやるときはやって、意外にリーダーシップもあって、引っ張ってくれる、時々優しい――」

「途中から褒めてるけど」

「――はっ」

 トラはゼンマイ仕掛けのロボットのように首を動かす。そこには、微笑を浮かべた晴がいた。

「忘れろっ!」

「え、ちょ、待って待って」

 バットを強く握りしめたトラから逃げる晴。しばらく、この逃走は続いた。


「だから、私たちは付き合ってなんかない。好きでも何でもないの。ただの友達。旧友。これで安心した?」

「安心? へっ、何をだよ」

「この期に及んでまだ……いいか」

「わかってもらえて何よりだぜ」

 流石に二人は疲れたのか、席につき一息ついた。そこでトラが口を開く。

「トラって呼んでくれてありがとうな」

「え? ……ああ、いいよ。別に。私は名前で人を呼びたいだけだから」

「周りもそんな奴だと嬉しかったんだがなぁ」

 トラは嬉しくない奴代表として天野を思い浮かべる。

 ちなみに天野はトラちんなる新しい呼び名を広めつつある。もちろん親しみを込めてではなく、トラはちんちくりんを省略してもトラちんだ。トラは知る由もない。

「あっ!」

 トラはとあることを思い出す。

「わ、悪い。アタシ、お前の名前聞いてなかった……」

「ああ。うん、気にしてないよ」

「今更で悪いけど、教えてくれないか」

「白峰晴。白い峰に、晴れ晴れの晴」

「晴、かあ。いい名前だな。アタシも晴って呼んでいいか?」

「もちろん」

「ありがとよ! それじゃあよろしく頼むぜ晴!」

「こちらこそ、トラ」

 握手を交わす二人。その部屋でドアを開ける音がした。

 二人は目を向ける。その先には康樹がいた。

「そろそろ始まるよ、二人とも」

 始まる。それは、エスプ、機関との闘いが迫っていることに違いなかった。


 エスプは行動を開始した。総勢二百名で機関へと攻め込む。

 時刻は夜。人々も寝静まったこの環境で、エスプのメンバーは機関へと足を向けていた。

 無論、康樹と晴もその中に混じる。

「トラちゃんとの話、少し聞いちゃったんだ」

「盗み聞き?」

「そうなるね。ごめんよ」

「いいけど……どうしたの?」

「トラちゃんと気が合いそうで良かったな、って思ってさ。それと、もう一個。君は、どこか変わったね」

「……私が?」

「うん。出会った時には気づかなかったけど、変わったように感じるんだ。上手く言葉では言えないな……。柔らかくなった、角がとれた、いや、何だろうな……」

「康樹」

「どうしたの? って、名前で呼んだかい、今」

「呼んだよ」

「どうしたって、そんな」

「私はこれから康樹って呼ぶ。だから、康樹も、晴って呼んで」

 康樹は困惑する他ない。でも、晴を見つめても晴に動揺の色どころか、変化一つない。

「君は本当に変わったんだね」

「そう?」

「いいよ。というか、初めからそうでもよかったんだ。晴」

「……ん」

 康樹はその言葉を皮切りに前を向いてしまう。

 だから、気づかない。横を歩く晴の顔に。街頭に照らされた少しだけ赤くなった頬に、気づかない。


「トラちゃん、準備はどう?」

『万端だ。先陣切ってきた機関の連中は全滅したぜ』

「わかった。――よし、攻め込んで!」

『任せろ! お前ら、突っ込むぞ!!』

 オォォォ! という雄たけびが康樹と晴の耳元にも届いた。

「フィ君もよろしくね」

『情報次第ってとこかな』

 先ほどのトラとの会話は無線使ったものなどではない。フィによるパス、脳の接続によるものだ。フィはこの戦いでは要であった。それは、無線代わりの会話だけではない。

 康樹と晴を安全に加奈の元へ送り届けるためである。フィは機関内部の動きを的確に把握できる。敵との遭遇を最低限にする役割も兼ねてあった。

「天野もよろしく」

「ああ、俺についてくれば安心だぜ!」

 天野は康樹、晴と共に付いていく。どうしても避けられない戦闘は天野が受け持つ。護衛係というわけだ。

「『自警団』の方々もよろしくお願いします」

『任された』

 自警団はエスプ程、活動的な反乱軍ではないにせよ、重要な戦力である。康樹の交渉の結果、後詰なら、という結果に至った。元々、戦いを望んでいないメンバーの多いチームのため、これは仕方のないことと康樹は判断する。だが、少しでも戦力が多いことにこしたことはない。

 以上が作戦概要である。トラ率いる突撃隊が注意を引き付け、その隙にウィ、天野の支援の元、加奈の居る場所まで辿り着く。やむを得ない撤退、もしくは壊滅の危険性がある限り後詰の自警団が動く。という流れである。

「よし、僕達も動こう」

「おうとも」

 天野は手を地面にかざす。するとゆっくりと三人の体が浮き上がるではないか。

「わ、わ」

「あんまり動くなよお嬢ちゃん。落っこちても知らねぇぞ」

「は、はい」

 天野の能力は、『空気を操る能力』である。圧力の高い空気を下に凝縮させることによって身体を浮かしているのだ。

 天野は二階部分の窓を蹴り破り、いとも簡単に内部へ侵入する。

「警備はいねぇな。お前らも来い。俺たちの動きがばれる前に、さっさと加菜って奴のとこに行くぞ」

 康樹は晴の手を取り、加奈を目指し歩みを進める。


 一方、トラ達は暴れまわっていた。

「オラオラ! 突っ立てるとあぶねぇぜ!」

「ぐっ――!」

 勢いはすさまじいものである。特に前へと立つトラはまさに獣と称されるほどの突撃を見せていた。

 何とかその流れを断ち切ろうと職員は手を出すが、即座にいなされ、バットで振り切られ、やはり止めることはかなわない。

「こいつらが能力を使い始めるより先に数をどんどん減らすぞ!!」

「「「オォォォ!!!」」」

 士気は最骨頂。勢いは最高潮。

 未だ、止めるものはいない。


「支部長!」

「何だ」

「反乱軍が、エスプが突如攻め込んできました!!」

「――何?」

 涼原華織は動揺する。それもそのはずである。エスプは後、数時間もしない内に滅びるはずだったのだから。

 だが華織は確かに耳に聞こえてくる騒音、雄たけびに、真実をたたきつけられる。

「一体何が……」

 入れ違い? 否、もうエスプの基地周辺には防衛ラインを引いている。ネズミ一匹、とはいかずとも軍勢を前にして素通りさせるはずもない。

 では、何故?

『潜伏場所は辺境の山の中腹付近にある洋館らしい』。

 レポーターが放った言葉だ。私は、この言葉を鵜呑みにし、上部へと報告した。

『すぐに討伐隊を派遣するとしよう』

 上部の答えだ。敵視はしている。だが、軽視していた。たかだか、三十人足らずの新手の職員達で何ができるものか。エスプ今や百人を超える組織だ。敵うはずなどあるわけがない。だから、私は反対した。そして、提案した。

 提案してしまった――。

 上部はその提案を呑んだ。

 呑んでしまった――。

 この、タイミングで? 奴らは攻め込んできたと?

 都合が良すぎる。何て不運なのだ。

 でも、これは運などではないとしたら。誰かの計画的なものによって引き起こされたものだとしたら。

 その仮定をして、そんなことを計れる人間がいるとしたら。

「レポーター!」

 しまった。迂闊だった。信頼などしていない、でも、信用してしまっていた。彼の吐く言葉はいつだって真実だった。彼の情報が私たちに益をもたらしたことは一度や二度じゃない。だから私は――あっさりと彼の言葉を信じてしまった。

「くそっ!」

 これはレポーターに対する怒りではない。私の不甲斐なさに対する怒りだ。

 レポーターに怒りの矛先を向けるのは間違っているのだろう。何故なら、彼は一枚も二枚も上手だったのだから――!

「あの、どうされますか?」

「――職員の半分は派遣させなさい。残り半分は能力使用許可が出てから派遣させること」

「了解しました!」

 華織は一人になる。

 ――彼の目的は、一体何なのだ。機関の殲滅、それとも――?


『前方に二人組確認。こちらには気づいてない様子だけど、まっすぐ康樹達の方へ向かってくるよ』

「ちっ。隠れるにはちと心許ねぇな。ここで迎え撃つ」

「頼んだ」

「おうよ」


「エスプの連中はもう下の階を制圧したそうだ。いずれはこの階にもくるぞ」

「地下に行くことだってあるんじゃないのか?」

「馬鹿。アイツらは俺たちと戦うことだけが目的に決まってる。罪人を収容している地下にいくもんかよ。罪人助けたところで仲間になってくれる保証もねぇしな」

「それもそうか」

「そこのお二人さん。急ぐのはいいが、前は向いた方がいいぜ」

「何っ」

 二人組は足を止め、前方を見る。

 そこには、膝を折り、まるでコインを投げるような手を作った男がいた。

「なっ! 貴様エスプだな!」

「そこを動くなよ」

「動かねぇよ。動いたら――狙いが逸れちまうだろ」

「あ?」

 男の手には何もない。だが、男はパチンと指を弾かせた。まるでコインを投げたように。その動作と違うのは二つ。やはりコインなど見えないということと、その指先は自分たちの方を向いていたということだ。

「お前何を――がっ」

「ぐっ」

 二人ほぼ同時に地面へと倒れる。意識はなくなっていた。

「い、今何が」

「空気の弾丸を作ったのさ。竜巻の威力って恐ろしいよな。それを小さく丸め込んで自分のどてっぱら目がけて舞い込んだとしたら――どうよ、考えただけで怖ぇだろ」

 晴は素直に頷く他ない。ま、手加減してるがね、と天野は付け足した。


「フィ、康樹の連中は?」

『順調。もうすぐ地下への階段部分へとさしかかるよ』

「オッケー」

 以前、トラ達の猛攻は続く。

 だが、トラは足を止めた。けたたましくサイレンが鳴り響いたからだ。

「……まずいな」

『全職員に告ぐ。侵入者の能力使用を確認した。これをもって能力使用を許可する。繰り返す。能力使用を許可する!』

「お前ら覚悟持てよ! ここからは、死闘だぜ!」

 少し数が減った軍勢を尻目に、トラは呼びかける。

(さて、何処までいけるかな)

 先ほどより、きつく握りしめたバットと共に、トラは駆けていった。


『能力使用を許可する!』

「まずいね」

「ああ、まずいな」

「まずい、の?」

「まずいさ。地下へと続く階段へときたはいいが……」

「フィ君、やっぱり下の警備は動く気配は無し?」

『そうだね。緊急事態でも全く動じてない。ここには来ないと油断しているのか、それとも相当な手練れか』

「いずれにせよ、倒さにゃ前には進めねぇ。行ってくるぜ」

「待つんだ天野」

「あん?」

「ここで君を失うのはまずい」

「んじゃどうするってんだ」

「フィ君」

『えー? 僕ー?』

 明らかな不満である。でも、仕方がない。これから康樹がフィに指示することは、そんな反応されても何ら不思議ではないのだから。

「僕の考えはもう読めてるでしょ。頼む」

『……分かったよ。全く』

 しばらくして、下の方からドサドサと人の倒れる音がする。

 向かえば、職員達は外傷一つなく倒れこんでいた。

「一体何が……?」

 晴は状況が掴めなかった。

「フィ君に指示したのは、オーバーフロー。脳の限界だ」

「それって……?」

「情報を一気に人の脳みそへと流し込む。抵抗の余地もない反則技だ」

「そんな技があるなら初めから使えば――」

「使えるなら使ってるよ。何も代償がないならな。そうだろ、康樹」

「……ああ」

 康樹は暗い顔をする。

「これを使えばフィ君も同じ状態になってしまう。彼の能力は脳を共有すること、だからね」

「え……それじゃあ」

 晴は心の中でフィに呼びかける。しかし、返事はない。

「フィ君はしばらく復帰しない。僕達だけでいかなきゃならない」

「そ、そんな」

「もう時間がない。相手が能力を使うっていうのはそういうことなんだ。手段を選ぶ余裕なんてない。後、数時間もしない内に、僕達は全滅する」


「オラッ!」

「がふっ」

「……はぁはぁ。こりゃいよいよまずいかもな」

 残りは――五人といった程度か。味方が。

 トラは囲まれていた。最悪の状態である。今も次々と仲間は襲われ、捕まえられていく。

「くそっ」

 トラを今、動かしているのは気合以外何物でもなかった。

(自警団! 早く来やがれ!!)


 自警団。機関の扉の前で待機をしている。

 五十人は超えようかという人数は、逆転、とまではいかずとも、この状況をある程度は覆せるものだ。

 しかしながら。リーダーは、動かない。それどころか、

「撤退だ」

 そう口にした。

 絶望はエスプをゆっくり呑み込んでいく。


「お待ちしていましたよ」

 地下へと踏み込み、現れたのは華織であった。

 やはりフィ君が居ない今、こうも容易く接近を許してしまう。

「レポーター……やはりあなた、私達を裏切ったのですね」

「裏切る? やだなぁ。そもそも機関に与いったつもりなんてないですよ」

「……まあいいでしょう。確かに信じてしまったのは私だ。私は、私が情けなくていけない」

 華織は下唇を噛む。

「ですが、とても幸運でした。あなた方はまさか、捨て身で攻め込んでくるとは」

「……」

 そうだ。

 華織は端から負けるつもりなど一切ない。

 機関は協力な組織である。能力者を相手取り、管理するということは、周到な鍛練を積んでいる。ましてや、組織内部へと攻め込むことに対して想定していないことなど、ありえないのだ。

 機関はどのような事態に陥ろうと、最適解を叩き出し、どんな勢力だろうと潰す。それが可能であった。否、絶対である。

 華織が動揺を見せたのは、敗北という言葉が過ったからでは決してない。敗北などそもそもに頭の片隅にもない。レポーターが裏切ったこと、そしてあの提案。エスプを壊滅させるために機関の強力な能力者を派遣してはどうか、と提案してしまったことである。華織はいち早く目障りなエスプを潰しかったのだ。現状、彼らはエスプ討伐へと向かい、この機関内部にその姿はない。とはいえ、そのエスプの基地の情報はレポーターのでまかせではあったのだが……。いずれにせよ、彼らが居ればより速く攻め込んできたエスプを殲滅することができたであろう。

 華織が抱いた動揺とはこれである。

 だが、華織にはこれで充分だ。怒りに燃え、必ず叩き潰すという意思を宿すには、充分だった。

「ですが、私が引っ掛かったのは、戦いに勝利することが目的ではないということです」

「……どういうことかな?」

「あなたは馬鹿ではない。私達に勝負を挑んだところで勝ち目が無いことは理解していたはずだ。それでも、あなたは攻めてきた。その理由を、考えました」

「答えは?」

「高城加菜ですね。あなたは彼女を救おうとしている」

「凄いな、正解だ」

「何も優れてなどいません。すぐにこの考えには辿り着きました。私が引っ掛かっているのは、どうやって加奈を救うというのか」

「……普通に加菜をここから出すってことじゃないの」

 晴は口を挟む。それには、天野が応えた。

「お嬢ちゃん、よく考えな。この街から逃すようなことはしねぇよ。だろ? 第一支部長さん」

「勿論。当然のことです」

「今頃、駅や道路――街を出るためのあらゆる手段を潰しているだろうな。霧の壁がなけらゃ人の壁を置いておけばいい」

「そういうことです。初めから逃げる手段など与えていない。――だからこそ、私はレポーター、あなたのことが恐ろしい。何を、考えているのです」

「……さあ? 当ててごらん。でも、一つ言えるのは、僕達は絶対に加菜を救う。必ずだ」

「……そうですか」

 ほんの一瞬の静寂。にらみ合いが永劫まで続くかと思われる程の、重圧な空気感。だがそれは華織の俊敏な動き一つで変わる。

 構えなど一切していない。にも関わらず目で追いつけない速さで康樹の懐へ接近する華織。虚を突かれた康樹は、しまった、と頭で捉えてももう遅い。体は動かない。華織の拳が近づき――康樹の目の前でその勢いは抑えられた。

「待ちな」

 天野である。咄嗟の判断が康樹を守った。

 天野の手のひらによって防がれた華織は距離をとる。

「先に行け」

「……分かってると思うけど彼女の拳は」

「知ってるぜ。俺が信用ならねぇってか」

「……いいや、そうじゃないよ。うん、ここは任せた。晴、行くよ」

「わかった」

 康樹と晴は、天野を置き先へと急ぐ。華織はそれを阻止する動きは見せない。

「おとなしいもんだな。必死こいてここは守るもんだと思ったが」

「構いません。結果は同じことです」

「そうかい」

 天野は構える。標的は佇む少女。

 だが、天野はすぐに異常に気づく。先ほど、華織の拳を受けた左手が動かない。まるで石になったかのように――。

「……なるほど、これは厄介だな」

「対峙するのは初めてでしたね。私の能力について説明でも?」

「いや十分知ってるっての。そして、今も身に染みてわかってるぜ」

「そうですか」

 天野は右手で構えを作る。

「――空弾」

 天野から放たれたのは、一つの弾丸に等しい。威力も速度さえも弾丸そのもの。圧力の違う空気を詰めた弾丸は華織へと一直線に向かっていく。死ぬことはないが、重い傷になることは免れない。

 しかしそうでありながら、華織は動かない。否、もう既に避けているのだ。あまりに一瞬。だが、天野はそれを知覚した。

「なッ」

 確実に空弾は華織の元へと向かっていった。確実に、当たるはずであった。

 しかし、そこに華織は居なかった。一瞬で横へと体を動かしていたのだ。

「あなたの弱点は知っています」

 華織は天野へ向けて走り出す。

 天野が空弾を放てば全て見切り、天野へと近づいていく。

 天野は困惑する。

(くそっ、弾でも見えてるっていうのかよ!?)

 空気の弾である。視認など不可能だ。されとて、そう感じるほどに華織は完璧に見切っていた。

「あなたの弱点はその単純さ。あなたの攻撃は直線に伸びる。なら、避けるのは容易いのです」

「ちっ」

「そして、もう一つ。それは集中力を必要とすること。だから、こう接近して攻める隙を与えないようにすればいい」

 天野は息を呑んだ。そして、後悔した。

 空弾を避けられた時点で、別の手段を考えるべきであった。それでも意地を張り、撃ち続けたのは自分のミスである。だからこそ、こうも接近を許してしまった。

「終わりです」

「――ぐ!」

 真っ直ぐ鳩尾付近へと迷いない拳が突き刺さる。

 あまりの衝撃に天野は膝をつく。

 だが、天野はすぐにそれ以上に、体を床へとつけてしまう。気を失ったのではない。自分の体の重さに負けたのだ。

「――なるほどな。これは確かに強いな……」

「油断しましたね」

 天野が顔を見上げたと同時に、華織は足を振るう。天野は簡単に吹き飛んだ。

「さて」

 華織は振り返り、階段へと向かおうとする。しかし、足を止めることとなった。

「……トラ」

「よお。天野、惨めだな」

「……うるせぇ。コイツの能力には気をつけろよ」

「分かってるっつーの。『殴った対象を重くさせる能力』、だっけか? ようするに、殴られなきゃいいんだろ」

「果たしてそんなことが可能だとでも?」

「可能だね。アタシの『未来を視る能力』ならな」


 階段を駆け下る。無機質な灰色で囲まれた空間を二人が走る。

 壁に書かれたB3という表示を見て、足を止めた。この階に加菜がいるはずだ。

 階段の踊り場にある扉を開け、周囲を見渡す。

 335、それが加菜がいる一室だ。この情報はフィとトラが捕らえた職員から引き出した情報のため、ほぼ正しいといっていいだろう。

 問題はたどり着けるかどうかである。

「さて、うまくいくといいけど」

「――! 止まって!!」

 晴の静止の声を聞き、勢いを殺す。

「やっぱりいるよね……」

 何十人と居る職員が一瞬で康樹達を取り囲んだ。

「どうするの、康樹」

「大丈夫」

 康樹は上を見る。

「きっとね」


「ふっ――」

「甘いですね」

 重みある一撃がトラのこめかみをかする。バットで応戦するがあっさりと躱され先手を打たれる。

「強いな! あんた!」

「あなたが弱いんですよ」

 来るッ! と読んだトラは反撃を試みる。華織の拳はトラの予想通り頭へと向かってくる。その隙に空いた脇腹へとバットを振る。

 が、しかし。読み勝ったのは華織だった。

「……ッ」

「だから甘いと言ったんです」

 右の拳はブラフ。バットは誘導されていただけだった。バットの衝撃は左の拳に吸われていた。華織の手からは血が滲み出ている。

「くそっ」

 躍起になったトラはバットを振りかざし何度も何度も華織へと叩きつけようとする。しかし、その度に弾かれどんどんバットの重みは増していく。

 ついにはバットはもう持つことのできない重さになったのか。トラはバットを地へと向けている。

「確かに能力は驚異的です。しかし、視れることができる未来が非常に限定的なこと。そして、あなたが短気であるということがそのハンデを無くしましたね」

「……そうかもな」

 華織は迷うことなく、トラの元へ近づいてくる。

「……だけどよ」

 もう少しで拳が届く。

「あんたには感謝してるぜ」

 華織は目の前の光景に驚愕した。


「やるしか、ないね!」

「晴、待って」

 上から大きな音がする。地響きのような音。その音と同時にゆらゆらと揺れる。

「よくやった、トラちゃん」

 一際大きい音が頭上で響く。

 見ると、天井が崩れていっている。降り注ぐ瓦礫の中に華織とトラがいた。トラは極限なまでの重さのバットを持ちながら。華織は何かに気づいたような顔を浮かべながら。

(しまった……! バットを重くさせたのは床を破壊していくため! それにしても、何て力!)

 トラは康樹達の頭上の瓦礫を払いのける。職員は不意打ちのためか防ぎきれずにいた。

「よし、いくよ!」

 康樹達は駆け出す。

「と、捕らえろ」

 瓦礫に埋もれることの無かった職員は後を着いていくが、もう間に合わない。

 康樹達は加菜がいる部屋へと入り込んだ。

 黒に覆われたこの部屋は三畳ほどの広さ。机と椅子が二つ。その一つに加菜はうつむき座っていた。

 康樹はドアの前で塞ぐように構えた。もうドアの前に数人の職員がいるからだ。

 晴は加菜の元へと駆け寄り、二人とも再会を喜んでいた。康樹の目から見て、加菜はすっかり快方したのだと感じた。

「これからどうするの?」

 晴が訊ねる。

「加菜、久し振りだね。康樹だ。覚えてる?」

 加菜は首を振った。まあ仕方ないか。交流が盛んだった訳じゃないし。

「よく聞いて。君は今から住んでいた町を思い浮かべて。そして、『飛ぶ』ことを意識するんだ」

「加菜お願い。言うとおりにして」

 晴が頼むと、加菜は素直に応じた。目を閉じ、思い描いているのだろう。

 ドアを叩く音が激化する。もう長くはもたないだろう。

「晴は加菜の手を握るんだ」

「わかった」

「そこから先は全部、君次第だからね」

「え?」

「全部なかったことにしてくれよ」

 途端、晴の視界は白に染まって、加菜や康樹の姿も白に呑まれていった。


 目が覚めた。

 先程とは全く違う光景だ。風が横を通り抜ける。ここには加菜も康樹も居ない。自分一人が居た。

 そうか、加菜の能力なのか。私をここまで、テレポートさせたんだ。でも、どうして?

 目の前にの光景には見覚えがある。この木々が生い茂るこの場所には。

 振り返る。

 加菜の家があったはずだからだ。

 でも何もなかった。一部として無かった。地面が広がっているだけだった。

 目を瞑り、考える。確か康樹は加菜が能力を使ったと言っていた。それが、この家を対象としたのなら。

 家をテレポートさせてしまったのか。

 なるほど。合点がいった。

「私の能力なら、無かったことにできるんだね」

 康樹の言うことが本当なら、私はそんな能力を持っているらしい。加菜が能力を使うことのなかった世界へと現実を変えることができるらしい。

 だから、加菜は拐われることはない。

 でも結果として、私は康樹とは会うこともないのだ。

 その記憶も、無くなってしまうのだ。康樹に会えたことは、無かったことになってしまうのだ。

「……」

 この感情は何だろう。分からない。理解なんてできない。

 それは私が異常だから?

 彼が言ったことを何とか守っているというのに。結局は私はおかしいままなのだろうか。

 彼があの事件のとき、最後に言った言葉。

『普通に生きろ』

 私の胸に深く、深く突き刺さったその言葉は、今も忘れることはない。だから普通になることを決意した。努力をした。笑顔もできるようにした。私は表面上はきっと、普通になれた。

 でも、康樹の前でそんなことはできなかった。怖かったのだ。変わったといわれることが。あの頃の関係が壊れてしまわないかと、怖かったのだ。

 時々、普通になった私が顔を出してしまったけれど。

 それでも、私はまたあの頃のように、二人は二人のままで、いられると思ったのに。

「そっか……」

 どうにもならないみたいだ。

 私達はやっぱり真逆で、離れ離れになってしまう。

 一緒に居ない方がいいに決まっているのに、私は一緒に居ることを願ってしまっている。

 矛盾だ。だから、この感情はおかしいのだ。

 なら、全部零にしてしまおう。

 無かったことにしてしまおう。

 あの事件は拭いされないけれど。君と出会ってしまったことは、全部無かったことにできるから。

 私はそっと地面に手を置いた。

「康樹……」

 さよなら。

 そんな言葉は果たして届くのだろうか。

 私の視界は再び、白に奪われていった。


 とある夏の日のこと。やはり蝉は煩く鳴いている。やはり太陽は燦々と照らし、人々を苦しめている。

 いつもと変わらない日常だ。いつもと変わらない夏だ。

 そして、いつもと変わらない僕だ。

 僕はいつの間にかこうやって歩いていた。もう加菜の姿も職員もいない。

 やったのだ。晴が能力を使って、加菜の家を『元に戻した』。

 加菜が能力を使わない世界へと、今はなったのだ。

 だから、僕はこうして歩いているのだろう。

 普段と変わらないのだから。

 不意に、自販機から音がして目をやる。

 すると、まあ、驚きだ。

 今度こそ僕は冷静さなんて保てない。平穏がすぐに崩れることを知っているなんて、流石にこれは予想外。

 さっきまで見ていた長い髪、さっきまで見ていた背、相も変わらない凛とした姿勢。

 そして、何処までもまっすぐで、突き進む彼女がそこに居た。

 そして、

「久しぶり」

 なんて言うものだから。

「……やあ」

 と返す手段しかない。あれ? 前もこんな感じで返してただろうか。

「あなたを助けに来た」

 ……ほう。

 いずれにせよ。

 僕と彼女の一夏は、もう少しだけ続くようだった。

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陽炎、二つ寄り添いて 荒海雫 @arakai

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