小鳥は優雅に宙を跳ぶ

咲く桜

第1話 つばさ

 縦4,260mm、横2,130mmのわずか9.0㎡の狭い空間。

 その狭い空間が俺の心を魅了して放さない。


 今でもたまに思い出すんだ。跳ぶことがなによりも楽しかった、あの宙(そら)のことを……



※  ※  ※


 

 俺は昔から、誰かに合わせて行動するのが苦手だった。


 みんなで何かを成し遂げるというのも性に合わず、球技なんかも得意では無かった。運動神経は悪くない方だと思うが、なぜか団体種目というのは苦手なのだ。


 だが、そんな俺が惹かれた競技がある。子供の頃にたまたまテレビでやっていた、オリンピック中継。その中に新競技として認定された種目があった。


 『トランポリン』


 体操競技独特の体操服に身を包み、たった一人で競技に臨む。体操は総じて一人で行う種目が多いが、その中でもこのトランポリンという競技にひときわ目を奪われたのだ。


 細マッチョの男の人が、狭いトランポリンの上で跳んでいるとは思えないほどに高く、そして華麗に宙を舞っている。およそ3階にまで到達しうる高さで跳びながら、回転・捻りを加えていく。


 わずか10本の跳躍(ジャンプ)のうちに、何種類もの技を見せる。背中から落ちる技もあった。見れば見るほど惹かれ、俺がトランポリン教室に通うまでに時間はかからなかった。



※  ※  ※



 「久しぶりにあの頃の夢を見たな……。げっ、遅刻しちゃう! 母さん、なんで起こしてくれなかったんだ!」


 急いで学校へ行く準備をして1階へ降りると、リビングに母の姿は無い。代わりにテーブルには弁当箱とメモ、それとラップされた冷めた朝食が残されていた。


 「なになに?」


 『翼へ お母さんの手がけている仕事でトラブルがあったみたいなの。ちょっと早いけど仕事に行くわね! お弁当は作っておいたから安心して! 目覚ましも枕元にかけて置いたからきっと大丈夫よね! 今日もいってらっしゃい!』


 あぁ、俺の部屋の片隅に壊れた目覚まし時計があったのはそういうことか。煩すぎて俺がまた吹っ飛ばしちゃったんだろうな。くそっ。また母さんに怒られる……


 それにしても母さんも忙しいな。なんの仕事をしているかは頑なに教えてくれないけど、たまにこうやっていなくなることがある。無理をしてないと良いけど。


 朝食はトースト2枚とスクランブルエッグ、焼いたベーコンとスライスされたトマトだ。時計に目をやると時間はちょうど8時を過ぎあたり。8時40分からショートホームルームが始まるとして、家から高校までは自転車でおよそ20分。


 「暢気に朝ご飯食べている時間はないか……」


 トーストの上におかずを全部乗せて挟み込む。即席サンドイッチをラップで包んでから、皿を台所まで片付ける。本当は母さんのためにも洗っておきたいところだけど、時間が無いので水で流すだけで許してもらおう。


 すでに時間は8時15分。すでにかなりヤバいが、決して忘れててはならないルーティーンがある。


 「行ってきます、父さん」


 写真立ての中で笑う父に手を合わせ、挨拶をしてから家を出た。時間は8時18分。いける!


 慣れた道のりを自転車で爆走し、信号にも恵まれたおかげで奇跡的に39分に到着した。


 ちなみに、昔からクジ運だけは強く、俺の席は窓際の一番後ろの席だ。


 「おいーっす」


 「おっす翼、今日もギリギリだったな。今日も重そうな荷物を持った老婆でもいたか?」


 「うるせぇ、今日は単純に寝坊だよ。お陰様でまーた目覚まし時計が長期休暇の旅に出ちまった」


 「ははは、お前ん家の目覚まし時計には同情してもしきれねぇな」


 俺の前に座っているこいつの名前は大道寺 蓮だいどうじ れん。俺の幼馴染みの一人で、一緒にトランポリン教室に通っていたやつだ。昔は純粋だったのに、気づけばチャラ男になっていた。面(つら)はいいし、体も細マッチョ。見た目に反して優しく丁寧で物腰が柔らかいからか、女によくモテる。


 「もう、翼ったらまた寝坊したの? よ、良かったら今度から私が起こしに行ってあげようか? 家も近いんだし、昔みたいに――」


 「いいや、それだけは止めておく。綾乃、朝迎えに来るの早すぎるんだもん」


 「ちぇっ、仕方ないじゃない。朝練が毎日あるんだもん」


 俺の隣に座っているのは森 綾乃もり あやの。蓮と同じく俺の幼馴染みで、トランポリン教室のすぐ隣で開催されていた体操教室の生徒だ。綾乃はずっと体操を続けているから、その界隈ではちょっとした有名人だ。大会に出ればいつも優勝していたので、こいつの家にはトロフィーがたくさんある。


 歳が近かった事もあって、いつしか俺たち3人は一緒に遊ぶようになったのだ。そして気づけば小学校から高校まで、クラスもずっと一緒という腐れ縁だ。


 「おーい静かに。ホームルームを始めるぞ~。まず事務連絡だが――……」


 こうしてまた同じ毎日が始まるのだ。


 俺は頭は悪くない方だと思う。授業はちゃんと聞いているし、家でも勉強している。最近の学年テストでは18/240位という成績だったし、今までも20位以下になったことはない。ちなみに、蓮は常に上から5番以内にいる。見た目はチャラついているのに頭が良いから余計に腹が立つ。綾乃は……まぁ、お察しだ。下から数えた方が早いかもしれないとだけ言っておこう。


 「あと小鳥遊(たかなし)、放課後に進路相談室に来るように。以上だ」


 「げっ!」


 「翼、お前まだ進路決めてなかったのかよ~」


 「うるせぇ、そういう蓮は決めたのかよ」


 「まぁね。推薦の話も来てたけど、俺は一般で大学に行くよ」


 くそ、腹立たしいけどこいつはなんでもそつなくこなすからな。だが、俺は知っている。こいつは人前で努力を見せるようなやつじゃない。陰で血のにじむような努力をしているくせに、人前では飄々としているやつなのだ。蓮は基本的に怒らないけど、一度だけ怒っている姿を見たことがある。


 

 ※  ※  ※


 「蓮はいいよな~、イケメンだし運動もできるし頭も良い。才能あるって羨ましいよなぁ~」


 「俺も最初から運動が得意だったわけじゃないんだけどね~」


 「いや、蓮が運動できないところなんて想像できねぇわ~」


 「……俺なんかより凄い奴が近くにいたからかな。俺は自分が凄いとは思わなかったよ」


 「まじで? だとしたらそいつ化け物だな!」


 ※  ※  ※


 中学3年生の頃、放課後に蓮が誰かと話しているのをたまたま見かけたのだが、顔は笑っていても目が笑っていなかった。蓮と話していた友達は気づいていなかったみたいだけど、あのときの蓮は確実に怒っていた。あんな目をした蓮を見たのはあれが初めてだった。


 「綾乃は推薦で行くのか?」


 「うん! もう推薦の話は来てるし、次の大会で結果が出せれば大学へは行けそうかな」


 「へぇ、流石は床の女王。3年生になったばかりだってのに凄いな」

 

 それに比べて俺は特にこれといった目標がない。昔は4人・・で将来について話し合ったのに、俺は……


 「翼、やっぱりもう跳ばないのか?」


 「あぁ、俺は跳んじゃいけない人間だからな……」



※  ※  ※



 俺と蓮はいつもと同じようにトランポリン教室へと通っていて、大会にいつも出場して鎬を競い合った仲だ。練習を頑張っていた甲斐あって、メダルを貰ったことは何回もある。トランポリンの大会はAクラス・Bクラス・Cクラスの3つに別れており、難易度によって分けられるのだが、俺たちも最初はCクラスから始めた。年数を重ねるごとにクラスは上昇し、中学1年生の頃にはAクラスで跳ぶようになっていったのだ。


 Cクラスは比較的簡単な技で10本が構成されており、危険度は低い。しかし、Aクラスともなれば次元が違う。2回転以上は当たり前にやるし、捻りも相当入ってくる。技が難しくなればなるほどトランポリンの中央で跳ぶことも難しくなり、下手をすれば頭や首から落ちる可能性だってある。


 それを守るのがスポッターと呼ばれる存在だ。トランポリンの4つ角に立って、選手がミスした際に補助するのが役目だ。そして何より大切で命を預けると言っても過言ではないのがスポッターマットを持つスポッターだ。トランポリンの真横に立ち、危険と判断した際にマットを着地点に投げる。イメージとしては、ボクシングのタオルを投げ入れる人に近いだろうか?


 俺には蓮と綾乃の他にもう一人幼馴染みがいる。いや、いたと言った方が正確か。その幼馴染みは俺と蓮よりも先にトトランポリンを始めていたが、歳が近いということもあっていつの間にか仲良くなったのだ。そして、3年前の中学生最後の大会で俺はそいつのスポッターマットを持つことになった。いつもならトランポリン教室の先生が持ってくれていたのだが、この日だけはなぜか俺にマットを持つように言ったのだ。不安はあったもののそいつの頼みを断ることもでぎず、俺が持つことになった。試合でマットを持ったことは無かったけど、練習ではいつもやっている。それに、「マットは絶対に入れなくていい。ただ、一番近くで見てて欲しい」と言ったのだ。


 確かに、本番でマットを入れられたらそこで終了とみなされて、事実上の負けに繋がる。


 そいつは俺や蓮よりもトランポリンが上手で、技の難易度も高かった。そんなやつのマットを大会で持てるというのは凄いことだし、いずれはオリンピック選手になるかもしれないと囁かれていたほどの実力者だ。今まで大会でマットを入れられるようなこともなかったから、ちょっと安心もしていた。


 緊張の面持ちの中、そいつの順番になり台へとあがる。深呼吸をしたのちに跳び始めたのだが、いつもよりも踏みが弱く感じた。緊張しているからかと思ったけど、どこか右足を庇っているようにも見えたのだ。それでも端から見れば全く分からないような違和感だし、もしかしたら俺の勘違いかもしれない。一抹の不安を抱えながらも、跳び始めたそいつの技を見守っていた。


 しかし、俺は直後に激しく後悔した。


 10本目の最後の締めとなる技を見事に決めてあとは着地だけ、というところで問題が起こった。着地点が、ベッドと呼ばれる跳ぶための部分と周囲を囲むフレームパットの間のギリギリの場所だったのだ。ベッド上であれば問題ないが、フレームパッドの上に落ちたら最悪怪我をする可能性もある。


 入れるか迷ったが、ギリギリでベッド上に落ちると予想してマットは入れないことにした。これで入れてしまったら、10本成功したことにはならず、事実上負けになってしまう。そんなことを思いながら見守っていたのだが、思うようにはいかなかった。


 そいつは着地をベッドとフレームパットの間に落ち、フレームパットの下にあるスプリングのところまで足が入り込んでしまったのだ。ヤバいと思って近寄って目に入ってきたのはそいつの血だらけの足。きっとスプリングに引っかかって流血したのだろう。こういったことはたまにあるし、俺も何回か経験がある。しかし、問題はそこではなかった。


 膝が曲がってはいけない方向に曲がっていたのだ。


 着地の仕方が悪かったのは間違いないが、今までに感じたことのない衝撃だった。俺がマットを入れていれば防げたかもしれない。こんなことにはならなかったかもしれない。オリンピック選手になるかもと言われていたやつの足を駄目にしてしまったのだと。


 その後のことはあまり覚えていない。気づけば放心状態のまま帰宅しおり、いつの間にか次の日になっていた。次の日になってやっと我に返った俺は、とにかく謝ろうと電話をしてみても繋がらない。トランポリンの先生に言ってみても言葉を濁される。なんとか病院の場所を聞きつけて、謝りに行ったのだ。



 部屋の前について、深呼吸をして中に入ろうとしたら声が聞こえてきた。蓮とそいつの声だ。


 「足、大丈夫か?」


 「なんとかね。手術はあるけど、日常生活に支障がないくらいは回復するだろうって」


 「そうか。……翼、お前に会って謝りたいって言ってたぜ」


 「……会いたくない。……許せそうにないから」


 俺はここまで聞いて逃げ出していた。俺のせいであいつの選手生命を駄目にしてしまった。嫌われることを覚悟してでもマットを入れるべきだったのだ。きっと蓮や先生なら入れていた。それなのに俺は……


 そいつとはそれきり会っていない。何度か会って謝ろうと思ったけど、怖くていつも躊躇してしまっていた。やっと謝る決心がついてもう一度病院に行くと、そいつはもういなかった。蓮に聞いた話だと、俺にマットを頼んだのは理由があったそうだ。親の仕事の都合で引っ越しが決まり、大会が終わったらすぐに引っ越す予定だったこと。最後の思い出に俺にマットを持って欲しかったこと。


 俺がトランポリンを辞めたのは、あいつに見せる顔がないからだ。



※  ※  ※



 「あいつは気にしてないと思うぞ? きっと、翼にトランポリン跳んで欲しいと思っているはずだ」


 「やめてくれ。俺はもう、トランポリンを辞めたんだ」


 でも、大学か。将来やりたいこともないし、行きたい大学もないんだよなぁ。授業も終わって放課後になったし、とりあえず進路相談室行くか。


 コンコン


 「失礼しまーす」


 「おう小鳥遊、来るのが遅えんだよ。待ってる間に膝が痛くなっちまったじゃねぇか。まぁ、いい。そこに座れ」


 「すみません。うっす、失礼します」


 「さて時間もないし本題だ。進路が決まってないのはお前だけだぞ。成績もいいんだし、行けるなら大学へ行った方がいいと思うんだが、小鳥遊はどうしたいんだ?」


 成績的にもある程度の大学には行ける。資金面も父さんが残してくれたお金があるから心配しなくていいと母さんには言われた。あとは俺の気持ち次第でもあるのだが、トランポリンを辞めて以来、なんというか無気力になってしまったのだ。


 「わかりません……。なるべくお金がかからないように国公立の大学へ行くつもりですけど――」


 「――トランポリンは、もうやらないのか?」


 「っ! やりません。俺にはそんな資格はないですから……」


 「……過去に何があったかは知らんが、人生の先輩として1つ言っておく。お前が挫折を経験して、本当に無理だと思ったのなら辞めてしまうのも1つの選択肢だろう。だがな、誰かを理由にして辞めるんじゃない。俺からしたら今のお前は、ただ逃げているだけに見えるぞ」


 「!!」


 先生に言われた言葉は俺の胸へと突き刺さった。俺が気づかないようにしていたことを、真正面から投げてきたように思えたのだ。でも――


 「先生には分からないですよ! 幼馴染みが目の前で、俺のせいで大怪我したんですよ! 俺がマットを入れなかったから! 選手生命を奪ってしまったんですよ?!」


 ついつい何も知らない先生に対して、自分の抑えていた気持ちをぶつけてしまった。なのに先生は真面目な顔で俺の言葉をに耳を傾けてくれていた。


 「分かるさ。……お前に一つ、話をしてやろう」

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