人魚の約束
藤沢 遼
💧 第1話 水 槽 💧
昨日から降り続く雨は、午後になっても止むことはなかった。
雨粒がトントンと静かに窓ガラスを鳴らして、いくつもの水玉模様を作っていく。
天窓の傾斜には、川の流れのようにキラキラと光りを伴いながら、天からの恵みがひっきりなしに落ちていた。
水の中にいるこの瞬間だけは、誰も自分に干渉できないような、守られているような安心感を覚えた。
彩は、大きな窓の窓台に、膝を抱えるように座り、じっとガラスの向こうの雨粒だけを見つめていた。そのほかはまるで目に入らない。
梅雨の日の鬱陶しさも感じない。
外の景色などにもまるで興味がなかった。
💧 💧 💧
次の日も雨、朝から蒸し暑かった。
性格は内向的で、あまり喋るのが得意ではない。人の顔を見るのが何故か苦手で、いつもなんとなく俯き加減でいる。
そんなふうだから、胸を張って友達だと言える人間は一人もいなかった。
高校へはバスに乗って三十分位で着くのだが、登校時間は通勤ラッシュと重なり、いつも多くのサラリーマンや、他校の生徒が乗車している。
その日も人がいっぱいで、彩は座ることもできず、必死につり革にぶら下がってバスの振動に耐えていた。
身長もさほど高くないし、そもそも細身で、運動もあまりしたことがないから、筋力も体力もない。
周りの乗客に埋もれるように立っているものだから、バスが揺れる度ぎゅうぎゅうと押されて息苦しい。
次の停留所で、予想以上の人数が乗り込んでくると、息苦しさは最高潮に達した。その上、蒸し暑さもあってか、彩はだんだん気分が悪くなってきた。
しばらく耐えていたが、そのうちつり革を持っている手にも力が入らなくなってきて、息も上がってくる。意識が飛びそうになったその時、誰かが彩の腕をつかんで、バスから引きずり出してくれた。
声を掛けられているのは分かるが、耳の奥で音が湾曲し、何を話しているのか分からない。
何人かの話し声が聞こえる。視界はまるでフィルターがかけられたようで、目の前を幾人かの人影がウロウロするのだけが見えた。
ぼんやりとした意識の中で、彩はあることを思い出していた。
それは、いつも夢に出てくる映像。
💧 💧 💧
水中で上を見上げていると、太陽がキラキラと水面に光って、波紋が美しい。
もう一人誰かいるのだが、逆光で影になって顔がわからない。
よく見ると、水中で泳ぐその人物には足ではなく、魚の尾ひれがあった。
(人魚?)
人魚と思しきその人影はいつも、彩にこう語りかける。
「忘れないで、約束よ。絶対に覚えていて……」
(何を?)
そこでいつも目が覚める。
💧 💧 💧
今日はバス停で、ハッと我に返った。
「大丈夫?」
彩はバス停のベンチに座っていた。隣には見知らぬ女性。多分、彼女が連れ出してくれたのだろう。彩のスクールバックを肩にかけている。
深く呼吸をしていると、少しずつ落ち着いてきた。
「ありがとうございます」
俯き加減で女性に声を掛けると、彼女はスッと彩の目の前にハンカチを差し出した。
「汗、すごいよ」
ハンカチは自分も持っていたが、彼女の好意を無駄にしてはいけいないと思った彩は、ハンカチを受け取った。
「すいません」
「大丈夫そうなら、私行くね」
彼女は、彩の座っている横にスクールバッグを置くと、そのあとすぐに来たバスに乗って行ってしまった。
去っていく後ろ姿を見て、ようやく彼女が他校の制服を着ていることに気付いた。
(高校生だったんだ)
やけに落ち着いている彼女の行動や、声のトーンに、彩は自分との社交性の落差を感じずにはいられなかった。
彩の手には、薄い水色のセンスの良いハンカチ。
彼女のスクールバッグについている、ハートの形をしたピンク色の鈴がチリンッと揺れたのが、脳裏に焼き付いてしばらく離れなかった。
つづく
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