人魚の約束

藤沢 遼

💧 第1話 水 槽 💧


 昨日から降り続く雨は、午後になっても止むことはなかった。


 雨粒がトントンと静かに窓ガラスを鳴らして、いくつもの水玉模様を作っていく。

 天窓の傾斜には、川の流れのようにキラキラと光りを伴いながら、天からの恵みがひっきりなしに落ちていた。


 アヤは、雨の降っている日の自室が好きだった。部屋の三方に大きな窓。降り続く雨で、まるで水槽の中にいるような気持ちになるからだ。

 水の中にいるこの瞬間だけは、誰も自分に干渉できないような、守られているような安心感を覚えた。


 彩は、大きな窓の窓台に、膝を抱えるように座り、じっとガラスの向こうの雨粒だけを見つめていた。そのほかはまるで目に入らない。


 梅雨の日の鬱陶しさも感じない。 


 外の景色などにもまるで興味がなかった。



       💧 💧 💧



 次の日も雨、朝から蒸し暑かった。



 水嶋彩ミズシマアヤは十八歳。市内の公立高校に通う三年生である。

 性格は内向的で、あまり喋るのが得意ではない。人の顔を見るのが何故か苦手で、いつもなんとなく俯き加減でいる。

 そんなふうだから、胸を張って友達だと言える人間は一人もいなかった。


 高校へはバスに乗って三十分位で着くのだが、登校時間は通勤ラッシュと重なり、いつも多くのサラリーマンや、他校の生徒が乗車している。


 その日も人がいっぱいで、彩は座ることもできず、必死につり革にぶら下がってバスの振動に耐えていた。

 身長もさほど高くないし、そもそも細身で、運動もあまりしたことがないから、筋力も体力もない。

 周りの乗客に埋もれるように立っているものだから、バスが揺れる度ぎゅうぎゅうと押されて息苦しい。


 次の停留所で、予想以上の人数が乗り込んでくると、息苦しさは最高潮に達した。その上、蒸し暑さもあってか、彩はだんだん気分が悪くなってきた。

 しばらく耐えていたが、そのうちつり革を持っている手にも力が入らなくなってきて、息も上がってくる。意識が飛びそうになったその時、誰かが彩の腕をつかんで、バスから引きずり出してくれた。

 

 声を掛けられているのは分かるが、耳の奥で音が湾曲し、何を話しているのか分からない。

 何人かの話し声が聞こえる。視界はまるでフィルターがかけられたようで、目の前を幾人かの人影がウロウロするのだけが見えた。


 ぼんやりとした意識の中で、彩はあることを思い出していた。


 それは、いつも夢に出てくる映像。



      💧 💧 💧



 水中で上を見上げていると、太陽がキラキラと水面に光って、波紋が美しい。

 もう一人誰かいるのだが、逆光で影になって顔がわからない。

 よく見ると、水中で泳ぐその人物には足ではなく、魚の尾ひれがあった。

 

 (人魚?)

 

 人魚と思しきその人影はいつも、彩にこう語りかける。


 「忘れないで、約束よ。絶対に覚えていて……」


 (何を?)


 そこでいつも目が覚める。



      💧 💧 💧



 今日はバス停で、ハッと我に返った。


 「大丈夫?」


 彩はバス停のベンチに座っていた。隣には見知らぬ女性。多分、彼女が連れ出してくれたのだろう。彩のスクールバックを肩にかけている。

 深く呼吸をしていると、少しずつ落ち着いてきた。


 「ありがとうございます」


 俯き加減で女性に声を掛けると、彼女はスッと彩の目の前にハンカチを差し出した。

 

 「汗、すごいよ」


 ハンカチは自分も持っていたが、彼女の好意を無駄にしてはいけいないと思った彩は、ハンカチを受け取った。


 「すいません」

 

 「大丈夫そうなら、私行くね」


 彼女は、彩の座っている横にスクールバッグを置くと、そのあとすぐに来たバスに乗って行ってしまった。


 去っていく後ろ姿を見て、ようやく彼女が他校の制服を着ていることに気付いた。


 (高校生だったんだ)


 やけに落ち着いている彼女の行動や、声のトーンに、彩は自分との社交性の落差を感じずにはいられなかった。


 彩の手には、薄い水色のセンスの良いハンカチ。


 彼女のスクールバッグについている、ハートの形をしたピンク色の鈴がチリンッと揺れたのが、脳裏に焼き付いてしばらく離れなかった。



              つづく


 

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