第11話 春の空の下


 びゅんと吹いた風が頁を次々と捲った。ペンは転がり、髪は広がり、体は一瞬ふわりと浮いたように錯覚した。

 四季のあるウィレニア王国に、春の風が舞い込んでいる。


 何ページ目だったっけ……と、エマが難しい顔で本を開き直す中、カンカン、と木剣がぶつかり合う音が響いていた。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカン


 建築場じゃないんだから、と嘆息する。


 強弱や波はあるものの一定的に騒がしく立つ音。

 それが、突風によって集中が切れたエマの耳に煩わしく刺さった。

 伏せていた顔を上げる。

 清涼な深い青の瞳が、目の前の騒がしさの元凶である男二人を見やる。


 すぅ、と息を吸って、


「そこまでぇ〜!」


 最近やっと言い慣れてきた制止の言葉を掛ける。


 ピタリと止まったユーリとリュカは、その後二人同時に地面に座り込んだ。


「止めてくれないから、一生泥試合が続くのかと思った……」

「流石にバテました……剣術縛りじゃ簡単にはユーリには勝ち越せねぇすね」

「縛り外したら僕は魔法使うしかなくなるね……」

「それはもう稽古の域を越えちゃいますねえ……」


 勝負の後の語らいもいいが、


「《水雫ドロップ》」

「「わぶっ!」」

「《乾燥ドライ》」

「「ぶわぁ!」」


 たぷん、と二人の頭上にたっぷりの水を落とし、すぐさま乾燥させた。いつもはちゃっちゃと湯浴みに行くのに、今日はいつも以上にバテているようで、二人がなかなか動き出さなかったからである。


「お疲れ様」

「エマ、本当に労るつもりある……?」

「? 勿論あるよ。お疲れ様」


 言いながら手を伸ばせば、ユーリは一度肩を竦めてからエマの手を取って立ち上がった。

 そのやり取りをぼけっと見ていたリュカにも手を差し出す。


「あー……どーも」


 相変わらずだが、こうして手を取り合えるくらいまでの仲にはなった。

 そういえば、『見習い』なんて言ってたのはどうなったんだっけ、と思うが、別に気にする必要もないかと考えを取っ払った。


 エマ・ルソーネ、十四歳。

 残念ながら攻略対象達との関係は、この通り緩く継続中である。



 未だ変わらずエマは王宮書庫に住み着いた虫であった。


 一年前から魔法学園に通い始め、また違った環境で教養を深めているところではあるが、ぶっちゃけると殆ど知っていることばかりだった。

 まあ復習は大事だ、と真面目に授業を受けているエマではあるが、少しばかり退屈である。

 ユーリとクラスは違い、それは別に良いのだが、これといって話せる友人も出来ていない。


 公爵家の娘だから、ユーリの婚約者だから、そんな理由で周りはちやほやと持てはやしてはくれるが、あまり気遣わせるのも気が引けるので、エマは一人ぼんやりとした日々を過ごしている。

 わりと、心地が良い。

 こういうゆったりとした日々が続けばいいと、エマは幸せそうに殆ど引き篭りのような生活をしている。

 学園にいても教室でポケー…っとしていたり図書室にいたり、王宮に来たと思えば書庫に篭り、お茶をするにも庭園に出ることはなくなった。

 元々運動嫌いなエマである。完全に日光とは無縁の毎日。


 ある日、そんなインドアを極めきっているエマに『不健康すぎる』とユーリが冷ややかに言い放ったのだ。


『しまいには苔でも生えそうだよね』


 と、嘲笑まで受けた。


 二人の間に微妙な、冷戦のような空気が流れ、リュカは「勘弁してくださいよ~」とげっそり顔を浮かべていた。

 しかし元々ユーリの好意に甘える形で書庫を利用していた為、こうなってしまうと大きく抗議はできなかった。それに、やっと関係が絶たれる時が来たかな、なんてことも考えた。

 若干の寂しさはあれど、これでもうユーリからの呼び出し封書が届くこともないのだと思うとホッとする。

 上手くいけば早い段階で婚約解消が叶うのでは、とまで思った。


 しかし、そう簡単にいくわけもなく。

 書庫利用禁止令を出されたくなければ、自分たちの稽古に付き合うこと、あと、時々庭園で一緒にお茶をすること、という条件が課せられ、未だ定期的に会うことを余儀なくされている。


 稽古に付き合うといっても、見ているだけだ。

 なんなら読書をしながらなので、殆ど見てもいない。

 しかし、ユーリから課せられた任は厳密に言えば「光合成しなさい」だったので、これでいいらしい。

 自分は葉緑体を持たないから光合成は……と真面目に答えるエマの頬をユーリが黒い笑顔で引っ張るなんて事態が起きたが、「わかった」と答えた時の満足気な表情が可愛らしかったので、機嫌が直ったならよかったかな、なんてエマは思った。


 可愛い┄┄とはいえ、十歳当時ほどではない。恐るべし成長期、身長は伸び、顔つきもやや凛々しくなり、かっこいいの要素が大いに追加された。男子三日会わざれば刮目してみよとは、まさにこの事である。

 リュカも同じく。ぐんぐん成長する二人に、身長を伸び悩んでいるエマとしては面白くないところがあった。


 ゲーム内でのエマは高いヒールを履いて、どこか女王的圧を放っていたせいか大きく見えたが、実際のところそうでもなかったのかもしれない。詳細なプロフィールは知らないので、自分がどのくらいの身長に到達できるのかわからない。

 でも折角なので、スラリと高い視線を味わってみたいのだ。


「いいなあ」

「なにが?」


 エマの独り言に、修練服からいつも通りの小綺麗な格好に着替えてきたユーリが背後から覗き込みながら問う。

 ずっと前から思っているが、この男、距離が違いのである。

 フェリクスのことを『悪い大人』なんて称していたのは懐かしいが、自分も人の事を言えないような無自覚タラシに育っているぞ、と注意を入れてやりたい。


「……二人は大きくていいなって」

「エマ、大きくなりたいの?」

「うん。かっこいい感じの女の人になりたい」

「「ははは」」


 何故そこで二人して乾いた笑いを上げる。

 エマが怪訝そうに二人を見上げれば、


「まあ、目指せ平均ってとこじゃないですかね」

「日に日に丸くなってるせいで、事実以上に小さく見えるしね」


 と、そんなこと言うので、


「ふ、太ったってこと!?」


 エマは青ざめながら声を荒げる。

 愕然としている彼女に、二人は今度は可笑しそうに笑った。


「どうだろうね。ま、運動不足なのは確かなんじゃない?」

「それは否定できないけど……」


 食事は気を付けてるつもりなのに……と落ち込むエマに、寝食を忘れて篭るのは節制とは程遠いぞ、と思う二人である。


「じゃあ少し運動しない?」

「? さっきしてたのに」

「エマもできるやつ。僕とエマは逃げる役で、狩人はリュカ。捕まったら負け。どう?」

「いや俺まで巻き込まんでくださいよ」

「制限時間は日暮れ前までね」


 聞いちゃいねえ、とリュカは肩を落とした。

 言い出したら聞かないのだとわかっているようで、さっさと諦め「範囲は?」と溜め息交じりに問うリュカ。


「んー、じゃあセレス城全域」


 いや広、とエマがツッコむより先に、リュカが「いいすよ」なんていうのでギョッとした。


「いいの?」


 どこかの本棚の隅にいるだけで時間までやり過ごせてしまうのではないかと思う。


「何度かやったことありますけど、俺の全勝なんですよ」


 得意げに言うので、エマは素直に感心した。

 それは凄い。ますます犬っぽい、なんて思ったのは秘密である。


「アンタなんか直ぐ狩っちまいますよ」

「や、やるからには私も負けないよ……!」


 犬というより狼だった。

 もう立って並んでいても見上げなくてはならない差があるが、エマは負けじと鼻を鳴らしてリュカと向き合った。

 正々堂々と、この男を負かしてやるいいチャンスだと思った。


「いつもは三十秒だけど、エマには二分あげてもいい?」

「はい」


 初っ端からハンデを貰ってしまったが、逃げ潜む前に見つかってしまうと元も子もないので甘んじて受けておく。


「じゃ、エマ、準備はいい? 捕まったら死ぬと思って逃げるんだよ」

「いや、重くない……?」

「それくらい気合入れなきゃ勝てないってこと」


 ┄┄それはまあそうかもしれないけど……


 捕まったら、死。そう思うと何だか無駄に緊張してきた。


「では、よーい、スタート!」


 パン、とユーリが手を叩いたのと同時に、一度ビクリと鈍くさく体を揺らしてから、エマはパタパタと場内へと駆けて行った。

 足取りは決して軽やかなものでなく、危なっかしいほど覚束無い駆け足だ。


「もう付き合いも長いけど、エマが走ってるのとか初めて見るね」

「たしかに」


 チッチッと二人の体内時計が秒を刻む。


「┄┄じゃあ、僕も行こうかな」

「精々遠くまで逃げてください」

「わーすごい自信だ」

「そりゃね、負ける気はないっす」

「負けず嫌いの集まりだね、僕ら」


 じゃ、と軽く手を上げてから今度はユーリが駆けだした。

 エマとは違い、あっという間に消えていく背中を見送って、リュカは大人しく時間を数える。


 ──……三十秒、きっかし。


 リュカはぐっと伸びをしてから、場内へと足を向けた。

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