第9話 三人目
「──……マ………エマ………エマ!」
「ふぁい!?」
「はあ…集中するのもいいけど、僕らと一緒にいること忘れてるよね」
高く積み上げられた本の束を降ろしていく。
そうしてやっと、ユーリはエマと顔を合わせることができた。
自分を包むように本の壁を生成し、その中心で書物を読み漁っていたエマは、辺りの一切合切を忘れて、ひたすらに没頭していた。
気になる本をあれやこれやと集めて、これを読むならこれとこれも、これならあれも読み返したい、そんなことをしている内に本の山に埋もれていたのだ。
「ごめん」
困り顔を浮かべながら隙間から顔を出せば、呆れたような顔をしたユーリとリュカがいた。
二人と友人(仮)関係を結んでから、城に来る機会は増えた。
チェリーパイをご馳走になったのを最後に、城にはできるだけ寄り付かないようにしようと誓っていたエマは、あの日から自宅の図書室で魔法勉強に勤しんでいた。
貴族らしい英才教育により基礎は身についていた為、導入は困難でなく、思っていた以上に魔法について学ぶのは楽しかった。
本の虫と化したエマは図書室に引き篭もり、寝る間も惜しんで様々な文献に目を通した。
そうしている内に、屋敷にある興味をそそる文書は全て読み切ってしまった。
そんなところにユーリから『次はいつ来るんだ。来ないならこちらから行く』といった内容の(厳密に言えばもっと貴族的な堅苦しい言い回しの)手紙が届き、保留にしまくっていた王宮訪問に行かざるを得なくなった。
いつも通り庭園で会い、少し変わったのは普通に会話を楽しめるようになったこと。王宮内の小話だとか、庭園に咲く花の中には夜に光るものがあるのだとか、エマが一番面白く思ったのは、王宮からこっそり脱走して城下で屋台のお菓子を食べてきた、という話だった。
リュカにはバレて叱られたそうだが、今度は彼も引っ張っていってやろうと思っているんだ、なんて話を、普通に笑い合いながらしていた。
そんな話の傍らエマが気になったのは、ユーリがエマの到着を待つ間読んでいる本だった。
魔法についての書物が彼の脇で閉じられていて、どうしようもなくうずうずした。
そして「読ませてほしい」と頼んだエマに、ユーリは快くそれを貸した┄┄のだが、我慢のできないエマがその場で真剣に読み始めてしまうので、そのたびにユーリは暇になるのだ。
完全に以前と立場が逆転していた。
つまらなかったのでユーリは次から本を持たずにエマを待った。
しかし「今日は無いのか……」としょんぼりするエマに心苦しくなり、仕方なく王宮の書庫へと連れて行った┄┄のが件の原因である。
『ここにある本、好きに読んでいいの?』
『うん』
『ほわぁ……』
莫大な蔵書数を誇る王宮の書庫はその広さ故、北西の棟ひとつを丸々使った立派な建物。
エマが連れてこられたのはコアな専門書が並ぶ奥まったフロアで、時たま研究員を一人二人見かけるくらいの、静かな書庫の中でも更にシンとした場所だった。
キラキラと瞳を輝かせるエマ。
見たこともないような顔に、聞いたこともないような感嘆の声を上げる彼女に、当然悪い気はしなかった。
『ありがとう、ユーリ』
氷の中にはこんな笑顔が隠れていたのか、とユーリは思った。
現金な人だな、と言いたかったが、不思議とまた「うん」とだけ答えていた。
◆
そんなこんなで、知識欲を満たす新たな場所を手に入れたエマは、喜んで王宮に通うようになった。こればっかりは遠慮の欠片もない。
婚約者そっちのけで本の海を泳いでいくエマに、今更ながらユーリは、失敗した……と思う。
真面目に勉強に励まれてしまうと、おちょくりたくてもおちょくれないではないか、といった気持ちである。
結局ユーリも大人しく読書に耽り、活字アレルギーのリュカは「うげー」と舌を出し彼の後ろに仕えるだけ、という状況が出来上がったのだ。
「アンタ……この量の本、戻すのも大変ですよ……」
本の山から出てきたエマにリュカが言う。
「大丈夫。心配しなくても、ちゃんと自分で元あったところに返すよ」
「つってもですね」
「《
エマは本に触れ、唱え、そして山の一つをひょいと持ち上げた。
顔が見えなくなるほど詰まれた本の裏から、首を傾け顔を出し、
「これ何回かしたらすぐ終わるよ。だから気にしないで」
二人は本読んでて、と言い残し書庫の奥へと消えていったエマの背を見つめ、残された二人はしばらく立ち尽くしていた。
◆
手際よく本の返却を済ませていったエマだが、一冊だけまだ胸に抱えたまま書庫をうろついていた。
奥へ奥へ、時には上がったり下がったりしながら進む、迷宮のような場所である。
迷うのが恐ろしく、最初はユーリやリュカから絶対離れないようにしていた。
最近ではそれなりに把握でき、もう迷うこともないだろうからと一人歩き回るようになったのだが、
「………………迷ってしまった…」
如何せん同じ景色ばかり続くのだから迷うのは簡単だ。進むにつれて人がいない理由がよくわかる。
それに基本的には手前で揃うように並べられており、大抵の人間はこんなところにまで用は無い。
エマも、ただこの一冊の、ひとつの項目が気になっただけで、その他はチンプンカンプンな内容だった。
「この辺りから取ってきたと思うんだけどなあ……」
古い本で、棚番号の印字が擦れているのだ。
取り出す時にもっと注意深く見ておけばよかった。
背の高い本棚を見上げながら歩いていると、自然と口が開いてしまう。そんなことにも気付かないまま、エマは歩いた。
そして、本がぎっしりと詰まっている中、一つだけ、抜かれた形跡のある場所を見つけた。近くにあるものも近しい内容のもので固められていて「ここだ!」と思った、その時、
┄┄ぐに。
何かを踏んだ。
上ばかり見ていたせいで足元が疎かだったエマは、声にならない悲鳴を上げて尻餅をついた。
踏みつけてしまったソレは、物ではなく、人だった。
「ん゛~~~……」
唸りを上げながらむくりと起き上がった男は、お互いに座り込んでいる今でも上背があるのがわかった。
といっても十歳女児の平均身長であるエマと比べると差があるのは当然で、エマの正面でガシガシと纏まりのない黒髪を乱暴に掻いている男は、彼女から見ればオトナであった。
青年はぐーっとじっくり伸びをしてから、正面に尻餅を付いているエマに気付き、
「あれ、どなた?」
尋常じゃない隈をこさえた瞳を長い前髪の裏で瞬かせた。
「ていうか、なんで書庫……?」
言いながら辺りを見回した青年は突如「あ!」と大きな声を上げた。エマは驚きでビクリと体を揺らした。
「寝落ちてた……」
一人勝手に落胆する青年を前に、どうしていいかわからない。
踏んでしまったことを謝るべきなのか、しかし、こんなところで寝ている方もどうかと思う。
しばらく項垂れていた青年は目が覚めてきたのか、パッと顔を上げ切り替えたように「失礼しました」とエマに向けて言った。
「君が起こしてくれたんですね? ありがとう」
「い、いえ……」
感謝されるような起こし方ではなかったが、本人が心底有難そうにほわほわと笑うので、エマは気が抜けた。随分と緩い表情をする人だな、と思った。
しかしどうにも見覚えがある。
ボサボサの黒髪に、長い前髪から除く灰色の瞳。とんでもない隈と顔色の悪さが目立つが、整えれば随分な色男だろう。
白衣に身を包み、柔らかな笑みを浮かべている青年。
「君が起こしてくれなかったら明日の朝まで眠ってしまっていたかもしれません。おかげさまで助かりました」
「は、はあ……」
「フェリクス・サースティンです。小さなお姫様、君の名前を聞いてもいいでしょうか」
エマは後方にひっくり返りそうになった。
子ども扱いされているのはよくよくわかるが、
(それでも普通そんな聞き方するか!?)
心の中でツッコミが止まらないエマである。
ともあれ問題なのはそこではなく、目の前の青年が攻略対象の一人だということだ。
「エ……エマ・ルソーネ、です……」
だからといって有無を言わさずこの場から逃げ出す、なんてこともできるはずなく、一先ず大人しく名乗っておく。
ルソーネ、と小さく復唱したフェリクスに、エマは「うっ」と怯みそうになる。
この青年、ウィレニア王国第二王子付き家庭教師である。
エマの名前を知らないわけがない。
「君が殿下の……」
違う、違うんです。あと六年ほど待っていただければ正式なお相手が出てくるんです。
そう思うが今は黙り込むしかなかった。
何も言えないでいるエマを他所に、フェリクスはみるみると青ざめ、元々悪かった顔色が最悪になった。
どういうこと、とエマが目を丸くしているうちに、
「す、すみませんでした……」
フェリクスは体を折りたたみ深々と頭を下げた。
「え、ちょ、止めてください……!」
事態を把握できずにいるエマが戸惑いながらも彼の頭を上げさせれば、フェリクスは青い顔のまま「実はですね……」と気まずそうに切り出した。
「あなたに危害を加えた魔獣の飼い主は僕なんです」
「あ、ああ…なるほど……」
ですが危害というほどでは、と言うエマをフェリクスは真剣な眼差しで見つめ、
「ルソーネ嬢、あなたのその寛大さに、キュウは救われました。殺処分でもおかしくはなかった」
「お、大袈裟すぎますよ……やめてください……!」
絶対にやめてほしい。自分の浅はかな行動のせいで命がひとつ消えるなんて胃痛がぶっぱする。
「本来直ぐにでも謝罪に向かうべきだったのですが、長らく出張に出ておりまして、久々に戻ったと思えば激務が続き」
顔色の悪さはそれか、と思う。
「あの……その件はもう大丈夫です。怪我もありませんでしたし、こちらにも非があって┄┄なんて話、殿下やその従者の方とも随分前に話しました。なのでもうお気になさらないでください」
「──ありがとうございます」
本当に、と言って表情を柔らげたフェリクスに、エマは言葉遣いも崩してもらって構わないと伝えた。名前も、どうか気楽に呼んでほしい。
ユーリが敬称などを嫌う理由がなんとなくわかった気がした。
たしか登場時フェリクスは三十歳という設定だったことを思い出す。つまり今は二十四、エマより遥かに年上である。
末恐ろしいのは実年齢には程遠い容姿。今、若かりし頃の彼を見て思うのは、ここでストップしたんだな……ということである。
この青年、六年後も何ら変わりないのである。
「では、エマさん」
「あ、は、はい」
「キミも、どうか僕のことは適当に呼んでくださいね」
「いや、それは…そういうわけには……」
「? 何故ですか?」
エマはもごもごと口籠ってから、
「
魔法士には、
片手で数えられるほどしかおらず、すべての魔法士の憧れの存在。
エマからすれば、雲の上の存在だった。
「あはは、そんなのただの職名ですよ。それを知ってるってことは、僕が平民上がりだってことも知ってますよね?」
「生まれは、関係ないと思うので……」
エマの言葉に、フェリクスは「へえ」とほんのり垂れ気味の目をを丸めた。
『上等級魔法士』その肩書きが憧れられているのは間違いないが、各個人が熱狂的に敬われているかといえば、そうでもない。
変人の集まり。そう称されることも少なくはない。
特にフェリクスは、珍しい魔力持ちの平民で、魔法薬学に特化した様々な功績が認められ今の地位についている。
成り上がりだと、貴族の間では嫌うものもいるというのはよく聞く噂だ。
そんな境遇の似通いから、ヒロインと惹かれ合っていくのが本編である。
ちなみに彼のルートでの悪役令嬢エマは悪事が早々にバレてサクッと殺されるエンドである。
しかしエマは、諸々の事情なんて関係なくフェリクスと話してみたかった。だからこそ逃げ出さずに、こうしてしっかりと話を聞いて、居座っているのだ。
魔法のスペシャリスト、そんなの惹かれないわけがない。
「私も、魔法士を目指しているので…今日はお会いできて光栄です。サースティン様」
「ルソーネ公爵令嬢様にこうも畏まられると、困ってしまいますね」
「えっと、ではどうしたら……」
「僕のことはフェリクスで構いません。あと、もしかしたら僕はキミを落胆させてしまうかもしれないから、先に謝っておきます」
「どういうことですか?」
「見ての通り、僕ってダメダメなんですよ」
困ったように笑うフェリクスは、人差し指で頬を掻いた。
「立派な人間は、書庫で行き倒れたりしません」
そういう抜けているところは、しっかり者のヒロインがカバーしてくれるんですよ、とエマは心の中だけで返した。
「じゃあ、フェリクスさんって、呼びます」
「はい。その方がいいですね」
ぽん、と頭を撫でられた。
「あ」
また何か思い出したように声を発したフェリクスに、エマは疑問符を浮かべる。
「彼にも謝るチャンスをいただけますか?」
「彼?」
フェリクスは白衣の中から、真ん丸生物を取り出した。
どうやってしまっていたんだとツッコみたくなるようなサイズ感のそれは、あの時のカーバンクルである。
エマは無意識的に後退った。
そんな姿を見やり、「大丈夫ですよ」とフェリクスは呟く。
「起きなさい、キュウ」
「キュ…」
「ほら、エマさんだよ。覚えてるだろ?」
「キュキュ」
「謝りなさい」
そう言ってフェリクスは抱えていたキュウを床へと下した。
紅く輝く丸い瞳と視線が交わり、エマはギクリとする。
エマが逃げ腰のまま固まっていると、
「キュッ、キュッ」
キュウは短い前足で、顔の辺りを掻いた。
「キュッ、キュッ」
その後もずっと、顔を掻いている。
┄┄どういう状況……?
エマが助け舟を求めるようにフェリクスを見れば、
「謝ってます」
「あ、謝って……」
「はい、凄く、謝ってますね」
「キュッ、キュッ、キュッ、キュッ」
えー……と、エマは衝撃を受ける。
必死に顔を掻き続けるキュウに、あたたかくて、彼の体のようなふわふわもちもちの感情が芽生えた。
「──私も、驚かせちゃってごめんね」
言いながら、エマは自身の顔を掻いた。
これにはフェリクスも唖然であった。
「キュッ、キュッ」
「きゅ、きゅ」
「ちょ、エマさん、それはやらなくても大丈夫ですよ!」
「え……そうなんですか……?」
ガビン!という顔を上げれば、フェリクスの奥にプルプルと震えている友人二人の姿が見えた。
(さ、最悪だ……)
「先生」
「あ、殿下、リュカくん」
「どもっす」
当たり前だが親しそうな三人に、エマは所在なさげに赤い顔を俯けた。
「ねえエマ、きゅっきゅ、もう一回やってよ」「あれはなかなか見モノでしたね」「可愛らしかったですよね」そんな笑い話にされて、耐えられなくなったエマはキュウを抱き締めて丸くなった。
その後しばらく、このエマのキュッキュはネタとして扱われた。
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