不在の英雄

 英雄の旅立ちは村をざわめかせた。

 一時的とはいえ英雄を失った喪失感と、肩の荷が下りたような気持ち。相反するようで反しない二つの感情は複雑に絡み合い彼らを苛んだ。しかし一日、一週間、一か月と月日が流れるにつれ、徐々に薄まっていった。


 理由の一つは長老の活躍である。英雄なき人々の最大の懸念は暴れ猪エージャのような凶暴な獣が村を襲うことであったが、英雄は抜かりなかった。これまでに対峙した猛獣たちの習性や生態を事細かに記した記録を長老に預けていたのだ。

「こうすりゃ俺がいなくても村の安全は守られるし、長老オヤジの威厳は増すだろう。この記録が溜まってきたのもいいタイミングだったんだ」

 長老は息子の言葉を胸に刻み、記録をもとに各所に罠を仕掛け、森や川に立ち入る際のルールを新たに定めた。英雄であった我が子を“必要のないもの”へと変えてゆくようで気が咎める部分もあったが、その息子の意向を、何より村の未来を考えたとき立ち止まる選択肢は無かった。英雄に守られる村から自分たちで守る村へと変わる。長老の信念は村の人々を感化した。

 猛獣除けの罠を整備したことで村に至る道の整備も進み、以前は稀だった外部との交流も少しずつ増えてきた。なんとそこに村があった事すら認識されていないかったようで、研究者と名乗る者達が突然調査に訪れたりもした。彼らの教えてくれた知識は村の者達の好奇心を刺激した。とりわけ何かのきっかけで彼らが漏らした「花火」という単語について尋ねた子供たちは、夜空に咲く光の花に想いを馳せて目を輝かせた。

 村全体が活気に満ち、きたる豊かな時代へと期待を寄せていた。長老も、いずれ帰ってくる息子が英雄としてではなく一人の村人として平凡でも幸せな人生を送る未来を胸に描いた。


 そして、悲劇は突如として襲い来る。


 村に迫る脅威に気付いたのは遠くの街に買い出しに行っていた若者であった。彼は町からの帰り道、整備された新しい道よりも歩き慣れた近道を通ることにした。その途中で、村を訪れていた研究者たちを見つけることとなった。彼らは村にいたときの穏やかな表情とは打って変わって厳しい顔をしていた。ただならぬ気配を感じた若者は身を潜めて彼らの様子を窺うことにした。

「…明日の正午で決定だな」

「ああ、しかしこんな…村には小さい子供だっているのに。まさか新型ミサイルの爆撃実験範囲に村があるだなんて」

「上層部が決めたことだ。余程のことが無ければ覆らん…今回の調査で実験を中断に持ち込める理由を探す気でいたが…やはりそうそうあるものではないな」

「クソッタレめ」

 若者は走り出した。村に危機を伝えなくては。しかし彼自身、それを知ったところでどうするかなど思いつきもしなかった。

 それは長老を含め村の誰もが同様であった。残酷な運命を嘆き泣き叫ぶ者もいれば、ニセ研究者たちに怒りを露にする者もいた。皮肉なことに外界との交流により知識を得た村の者は「ミサイル」がどのようなものかよく知っている。知識は恐怖を取り払うが、逆に強めることもある。彼らの脳裏には焦土と化した村がありありと描き出されていた。

「とにかく」

 長老が口を開く。

「何を置いても逃げることだ。明日の正午と奴らは言ったのだな? 各自、最低限必要なものだけを持ち、村を出るぞ。すぐに準備に取り掛かろう」

 村を捨てるという決断。それは滅びを緩やかに先延ばしにするだけの決断かもしれない。次の住処がある保証も無ければ、あったとして辿り着けるかもわからない。財産の大部分を捨て、命からがら逃げだしたところで、不都合な事実を知る我々は消されてしまうのではないかという懸念もある。それでも長老は、一縷の望みを託して逃げると宣言するしかなかった。

 長老の言葉に村の者達も村を捨てる覚悟を決め、それぞれの自宅へと戻ろうとした。その時。


「待ちな。村を捨てる必要はないぜ」


 景色の一点がグニャリと歪み、そこから滲み出るように、全裸の男が姿を現した。

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