繊細研究所

大江

繊細研究所

 驚いた。雑居ビルの奥に食堂があったなんて。中華食堂だろうか。油の良い匂いが鼻腔をくすぐる。ただ、私は食事をしに来たのではない。また別の機会に訪れるとしよう。

 食堂の入り口の隣に並ぶ金属製のフロア案内板とエレベータの鉄扉に目をやる。五階の「繊細研究所」。ここが私の目的地であった。早速エレベータのボタンを押す。ガコンという音とともに扉が開き、私はカゴへと乗り込んだ。


 薄暗い照明、クリーム色の内装のカゴがゆっくりと上昇していくのを、ウィーンというモーター音を聞きながら感じていた。本当にゆっくりゆっくりと昇っている。時間がかかった分だけ、初めての場所を訪れる緊張が増幅されていく気がした。

 浮遊感がなくなって、扉が開くと、私は大変驚いた。目の前にはデスクを複数くっつけてできた大きな島で、数人の男女がパソコンに向かって作業している光景が広がっていた。まるで職場に出社してしまったかのような錯覚に襲われた。フロアを間違えたのかとカゴの中の表示器を確認するが、間違いなく五階であるようだ。仕方がないのでおずおずとフロアへ出て居心地が悪そうにモジモジしていると、四十絡みの女性が声をかけてきた。

「ご予約されていた方?」

「はい、そうです」と答えた私の心は随分軽くなった。自分が間違っていなかったと証明されたのだから。

 女性は、私をフロアの奥にある応接スペースに案内した。テーブルと向かい合うように椅子が二脚置いてある簡素なものだ。

 椅子に座ると周囲の様子がまったく変わってしまったことに気づいた。今まで雑居ビルのワンフロアにいたはずなのに、いつの間にか公園にフロアの中身だけ移動してしまったようだ。公園に応接スペースとデスクの島。異様な光景のなか、デスクに座る面々は気にも留めずパソコンに向かい続ける。

 この公園には覚えがあった。直下に地下鉄が走る片側三車線の道路。その真ん中に、市の都市計画の一環で整備されたであろう公園だ。

「気持ちは? 今週はどんな感じでしたか?」

 女性は初めて会ったにもかかわらず、こちらの事情がわかっているかのようだった。

「落ち着いています。ただ、ふと気を抜くと裏の自分が引き込もうとしてくるんです」

「裏の自分というのは?」

 島に座っていた五十絡みの黒縁眼鏡の男が突然話しかけてきた。島の、うちの会社でいえば課長が座っている場所にいる男だ。急な質問に緊張を覚え、発する言葉を脳内で整理しながら話す。

「いまを生きている表の自分を不安や哀しみに陥れる裏の自分がいるのです。足をとられて引き込まれたら何も手がつかなくなる」

 仮に課長と呼ばせてもらうが、課長は、何も言わなかったけれども合点がいったという風にうなずいて、またパソコンに向き直った。納得してもらえたようで少し安心した。


 その後、女性が二、三質問をし、それに答えることが続いたが、私はまったく落ち着かなかった。公園の真ん中にテーブルを置いて話しているのだ。目立っているに違いない。周囲が気になってしまって、とても落ち着いて自分の内面を語れる状態ではなかった。

 女性は、私がソワソワしていることに気づいたのか、こんなことを聞いてきた。

「あなたは、いまどんな風景のなかにいますか?」

「H通り公園です。道路を挟んで百貨店が見えます」

 私は怪訝に思った。まるで女性には周囲の景色が見えていないかのような聞き方だったからだ。

「おそらく、あなたは初めてH通り公園を訪れたとき、何かを感じたのですね」

 私はその時のことを思い出そうと目を閉じた。瞼の裏のスクリーンには、仕事の都合でこの街にやってきたばかりの九月の頭に公園を訪れたときの景色とその一瞬一瞬の思いがじんわりと広がってきた。

 すごいな。大きな通りの真ん中に広い公園があるなんて。木がたくさん植えてあってなかなか良い。木陰のベンチだ。犬の散歩中なのだろう。ハスキー犬を連れたおじいさんが座って休んでいる。この公園は都会のオアシスとして機能しているのだろうな……


「あなたは」。女性の声で私の意識は現在へ引き戻された。

「ほかの人が軽く流してしまう出来事から様々な情報をキャッチし、おかしみを感じ、味わうことができる」

 そうなのか。これが普通ではないのか。

「いまは公園にいるかもしれない。でも、あなたはどこへでも飛んでいける。今までにおかしみを感じた瞬間へ飛んでいけるのですよ」


 高校生の時、卒業旅行で訪れた京都。三十三間堂に並ぶ仏像に圧倒されて涙を零した。

 中学生の時、ひとりで出かけた鈍行列車の旅。始発列車のボックス席から見た金色の日の出に目を細めた。

 小学生の時、父の生まれた田舎での墓参り。高台にある墓地から畑と点在する人家を眺めながら「ずっとここで昔から繋がってきたんだね。父さんがここで生まれて、大学進学と同時に東京へ出て、お前がいるいまがあるんだね」。隣で父がぽつりと言ったその言葉は難しかったけれども、心でじんわり受け止めた。


 気がつくと、私の目からは涙が溢れだしていた。理由はよくわからない。ただ、嫌な涙でないことだけはわかった。

「あなたは、裏の自分に引き込まれるとおっしゃいましたね」

 女性はしゃくりあげる私に優しく声をかけた。

「小さなことからおかしみを拾い上げられるあなたは、同時にちょっとした心配や不安の種も拾ってしまうのですね」


 私は、会社のデスクに座っていた。島の左奥に座る課長は「面倒臭ぇなあ」と独り言を漏らして苛立たしげにキーボードを強く叩き、隣に座る五年上の先輩は、冗談交じりに仕事仲間を鬼のような言葉で酷評し「君もそうならないようにね」と付け加えてくる。そんなことが続いて、自分が責められているような感覚に足元を掬われて、転んだあと歩き出すのにはとても時間がかかってしまう。


「周りの人たちは、あなたが感じているほど物事を繊細に感じ取って生きてはいないのです。だから、どうか、他人の些細な言動に惑わされないで。がさつだなあと思って流して。そして、自分の繊細さを恨まないで。良いものだけをキャッチして大切にし続けてください。そして、またあなたがつらくなって、過去のおかしみを味わいたくなったり、話をしたくなったりしたときは、いつでもここにいらしてください」

 優しいなあ。女性の声をじんわり受け止めながら、私は涙を流し続けた。


 ガコンとエレベータの扉が開くと同時に、私は一歩踏み出した。来た時と同じ、エレベータホールには油の良い匂いが漂っている。腕時計に目を落とすと一時半を少し回ったところだ。お昼の営業は何時までだろう。腹の虫がグウと鳴いたのを合図に、私は食堂の扉のノブに手をかけた。

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繊細研究所 大江 @ooe77

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