ごめん。まだ成仏できてないみたい。

佐藤令都

プロローグ

 やっとこれで楽になれる。

 茜色と群青色の混じり合う狭間の空気が眼下に広がっていた。

 吹き晒されて錆びた鉄柵に手をかける。熱を失った手のひらにザラザラとした感覚だけが残った。

 心の準備なんて必要無かった。

「一息にもう、いってしまおう」

 足をかける前に1度深呼吸。吸った空気の冷たさに気管が縮まる思いをした。口の中が血の味が広がった。

「まだ生きてるんだなぁ」

 なんて無駄な気付きだろうか。知ったところで未練なんて今更無いのに。あったところでどうでもいい。

 俺の感情はとっくに無に等しいし、生きているだけ無駄。この「生」の概念から逃れたい一心なのだから。

 思い止めろ、早まるな。そんな言葉をかけてくれるような人間関係を俺は築いていない。

 足をかける。ひんやりとした金属の冷たさがズボン越しに伝わった。

 50センチ程のコンクリの縁。

 1歩進めばここからさよなら。

 大丈夫。今なら誰も見ていない。

「まぁー、見てた所でには関係ないんだけど?」

 ふっ、とため息とも受け取れる笑顔を浮かべる。

 黒の学ランのポケットからぐしゃぐしゃになった封筒を取り出し握る。男子高校生にしては達筆すぎる「遺書」の2字。書き終わっても、握りしめても思うことはただ1つ。

「人間なんて辞めたい」

 カラカラに乾いた声が夕闇に消える。

 進む1歩は日常の一部の様に軽やかに。小学生が学校に向かう足取りで。行ってきますの直後のように。

 片足が冷たい空を踏んだ。

「さよなら」

 そのまま身体を投げ出そう。一時の浮遊感に身を任せよう。ただ楽になりた──

「ちょっとまってよ」

 学ランの肩口を掴まれた。

 凛とした鈴の音のような声。オンナノコ特有のやたら耳に残る、真っ直ぐな声。

 イライラする。

 3秒後だったら会わなかっだろう?

 神様のいたずらか何だか知らないが、とんだ迷惑だ。

「離せよ」

 ぞんざいに手を払う。寒さのせいか、彼女の手は冷たかった。

「ねぇ、死にたいんでしょ」

「だから何さ」

 視線を虚空に落としたまま答える。

「見知らずの人間を貴女が止める必要性を、俺は感じられない」

「君が死にたがりなのはわかった」

「人の前で看取られる願望は無いんだが」

「私にここから退いて欲しいの?」

「いや、俺が場所を変えるよ。飛び降りやめる」

 鉄柵のうちに入ろうと振り向く。

「あ、やっとこっち向いてくれた」

 点滅した蛍光灯に彼女の髪が照らされて艶やかに光っていた。逆光で顔は分からない。制服の様子を見ると……

「高校生?」

「多分ね」

 歯切れの悪い回答だ。まぁ、どうでもいい事なんだが。

「ひとつ君に教えてほしいんだ」

 人の自殺止めておいて何言ってるんだコイツ?





 3月1日。午後6時38分。

 廃ビルの屋上、鉄柵越しの出会いであった。

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