近所のスーパーが別のスーパーになるだけで泣く
年齢が一桁しかなかった頃、僕は何かにつけて泣いていた。先生に怒られたら泣くし、トランプで負けたら泣くし、ドッジボールで女子にボールをぶつけたらその子が泣いてしまって、それを見て僕の方がその子よりも泣くし、それはひどいものだった。
あとから聞いた話では、保護者面談で「息子さんはすぐ泣くので困ります」と母は担任の先生に言われたことがあるらしい。母は「泣いちゃダメなんですか?」と蓮舫さんばりに強気だったそうだけれど。
担任の先生の言い分には無理もない。なんでそんなことが悲しいのか、理解に苦しむ理由で泣くことが、僕にはよくあったからだ。
ある夜、アイロンがけをしていた母の横で、布団を敷いて眠ろうとしていた僕は跳ね起きるようにして毛布から出ると、母に言った。
「いやだよ……。おかあさん、いやだよ……」
この子はよほど怖ろしい夢でも見たのだろうか。母は怪訝な顔をして「どうしたの?」と僕に聞く。
眠っていたわけではなく、むしろ悲しみに暮れて眠れずにいた僕は、わんわん泣きながら涙のわけを母に話した。
「おれ、やっぱり……。ちゅうじつやが、ダイエーになるの、いやだよぉおお! いやだよぉおおお!」
忠実屋というのは、昔、僕が住んでいた団地の近所にあったスーパーで、よく母と一緒におつかいに行っていた。人の好さだけが取り柄の個人経営の店のような名前だが、首都圏を中心に長くチェーン展開していた歴史あるスーパーだった。
ちょっと調べてみたら、「忠実」は聖書に由来を持つ言葉らしい。人の好さだけが取り柄などと無礼を申した私をどうかお許しください。
そんな忠実屋は人の好さにつけこまれたのか1990年頃から業績不振にあえぎ、とうとう、プロ野球チームを買ってドーム球場を作ってしまうほどの強大な力を持つ大手チェーン・ダイエーに、吸収合併される末路をたどる。もちろん、うちの近所にある忠実屋も例外ではなく、名前もダイエーに変わるのだと僕は母から聞かされていた。
創業者の一族や経営陣の幹部の人間であったならば、合併の悲しみもひとしおだろう。慣れ親しんだ名前が消滅し、明るく可愛らしい花のマークも、アルファベットの「D」をモチーフとした無機質な図形に塗り替えられてしまうのだ。見上げるたびに「我々は力に屈したのだ。時代の荒波を越えられなかったのだ……」と無力を痛感したかもしれない。
しかし、うちは別に忠実屋と何の関係もない。
父は事務用品の卸売業の会社に勤めているが、忠実屋が取引先だったかどうかは定かではないし、そうだったところで別に僕が泣く理由にはならない。にもかかわらず、僕はわざわざ布団から起き上がり、母にすがりつかんばかりに泣いたのだ。
「ちゅうじつやが、よかったよぉおお……。ぐすっ……。ダイエーなんて……。いやだよぉおおお……ぐすっ」
たぶん忠実屋の社員だって、こんなには嘆かなかったんじゃないだろうか。もしもその時の僕の音声素材が手に入るのなら、創業者の一族に聴かせてあげたい。
近所のスーパーの名前が変わるというニュースを聞いて、まるで自分の城が落とされた武士かのごとく涙を落とす僕。母は「大丈夫だよ。何も心配ないよ」と言いながら優しく頭を撫でてくれたが、内心では「何を泣いてんだこのスポーツ刈りは???」と不思議が止まらなかったに違いない。
恐らく僕は「吸収合併」という言葉の響きに、邪悪なニュアンスを感じていたのじゃないだろうか。ドラマや漫画でなんとなく聞いたことのある言葉、吸収合併。それは大抵、主人公側の正義の企業が立ち向かう、敵の悪徳大企業が繰り出す技の名前だ。
あの優しかった忠実屋さんが、ダイエーの策略で潰されてしまった。悪の組織ダイエーは何もかも容赦なく奪う。お母さんが買い物の帰りによく連れていってくれた、一階の喫茶店もきっと無くなってしまう。あの美味しいツナのホットサンドはもう二度と食べられないんだ。
そういう勝手な想像が、僕を布団から起こし、号泣させ、そして母の頭の上に疑問符を抱かせる結果につながったのではないか。
その数日後、リニューアルオープンした旧忠実屋のダイエーに、僕は母と出かけた。
入ってみれば何のことはない。名前と花のマークが変わった以外は、元の忠実屋とほとんど変わらない店内だ。僕はあの日、馬鹿のように泣きじゃくったことが途端に恥ずかしく思えてきて、あっさりとダイエーを受け入れてしまった。ホークスがんばれ、優勝したらセールになるぞ、と。現金なものだ。
数年後、その店舗からダイエーは早々と撤退し、東急ストアが入り、さらに数年後には、ベルクスというスーパーに取って代わった。
どのタイミングでも、僕が泣くようなことはもうなかった。泣かなきゃいけない場面はもっと他にいくらでもある。近所のスーパーの名前が何に変わろうと知ったことか。どうでもよろしい。
ただ、ホットサンドの美味しい喫茶店は今も変わらず同じ場所にあり、いつまでもあってほしいなとは思っている。
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