2.本を喰む子

 あなたは店主について、店のカウンターの奥に入る。

 段ボール箱が積み上がり、事務机にはパソコンが載っていた。

 パイプ椅子によろよろと座り、お茶を出す老婆とひざを突き合わせるようになる。彼女の椅子は手すりがある回転式のものだ。その眼鏡を掛け直すと、マウスを操作してパソコンをスクリーンセーバに切り替えた。


「自分が何をしたのか、ということをあれこれ言うつもりはないよ。もう大人なんだ。そういう話はしなくてもいいだろう。そうだね」


 あなたの湯呑みからは黙って湯気が立ち昇っている。

 店主はコーヒーカップを両手で支え、その中の黒い液体を口に含んだ。


「ここは私の祖父の頃にはね、貸本屋だったんだよ。知ってるかね。今でもまだやってるとこがあるかも知れないけど、昔は本や雑誌をビデオのように貸し出すところがあったんだよ」


 自分の湯呑みにそっと手を当てると、冷たくなっていた手がわずかに熱を持つ。


「その頃は米穀通帳べいこくてちょうってのがあって。まあ身分証の代わりみたいなものだね。米軍から配給を受ける時に必要だったものさ。漫画本中心だったから、近所の子もよく通っててね」


 もう店主はあなたを見ていなかった。

 それは今から四十年ほど前のことだ、と彼女は前置きしてから、昔話を始めた。


    ※


 あの当時は本当に色々な子がいて、中でも朋久ともひさ君っていう、それこそ今で言う発達障害かね、何を考えているのか分からない男の子がいて、その子は毎日のように貸本屋に来ていた。他の子供たちは漫画を読んだり、借りていったりしたけれど、朋久君だけは難しい漢字が並ぶ小説本を何時間もじっと眺めていたんだ。

 あれは読んでるっていうより、ただ見てたって方が合ってるね。

 変わった子の話は、よく祖父じいさんから聞かされたよ。もともと道楽で貸本なんてやってる人だったから、人がくてね。いつだったかは知らない子を勝手に家に上げて晩御飯を食べさせてやったりするような、そんな祖父さんだった。

 まあ当時から万引きってのもあってね。それを見つけたら「こら」って一応ゲンコツしてから、


「もう二度と他人のものを盗んじゃいけない」


 と言い聞かせて、その本を子供らに与えてた。

 何にしてもみんなが貧しい時代だったからね。ちょっとくらいのことは大目に見てやってたんだろう。

 ところが、その朋久君がね、ある日だよ、自分が読んでいた本のページを破いて口に入れちまったんだ。祖父さんは慌てて出すように言ったんだが、頑として聞かなくて。結局そのまま呑み込んじまった。


「お腹が空いてるんなら、これを食え」


 祖父さんはチョコレートをやろうとしたんだって。けど、朋久君は首を振り、また一ページ破いて食ったんだ。

 それからは毎日一冊、彼は本を食べるようになって。

 流石に心配になって、祖父さんは朋久君の両親に話した方がいいだろうかどうだろうかと悩んだらしいけど、何でも親が気難しい人で、一度話に行くと金を渡されてピシャっと玄関を閉められてしまったそうだよ。

 そんなことがあってからも朋久君は変わらずに店にやってきては本を食べていくから、そのうちに棚一つ分が空いちゃってね。こりゃ敵わんってことで、うちの裏手に蔵が建ってるんだけど、そこに和綴じの古い本が大量に余ってて、どうせならそれを食べてもらおうってことで、彼に一日一冊、渡すようにしたんだ。

 虫食いしてたり、ページが抜けてたり、売っても二束三文にしかならないからと置いてた本が、見る間に消えていったそうだよ。

 それでもいつか止めるんじゃないだろうかって、思ってたんだろうね。

 ところでその蔵の本の中には、一冊だけ見ることすら禁じられていた本があったんだ。その話は祖父さんからもきつく言われてたから、よく覚えてるよ。名前も分からない、そもそも表紙に書いてある文字が読めないんだって。日本語でも英語でもないみたいで、もうそんな話だから、誰も確認しようとしなかったけれど、実は私はね、一度だけ蔵に入って、それらしい黒い紙で挟んだ薄い綴じ本を見つけたことがあるんだけど、見ただけで何だか寒気がして。もう触るなんてとんでもなくて、さっさと蔵から出ちゃったのさ。

 その本の存在を忘れていた訳じゃないんだろうけど、その時はたまたまお客さんが多くて、つい朋久君に自分で蔵に入って好きな本を持ってってくれって、言ってしまったんだ。

 祖父さんが何とか客を捌いた後で蔵に入ってみると、朋久君が手に持っててね。

 小さな手が、黒い背表紙の薄い綴じ本を、持ってて。

 最初はそれが何なのか、祖父さんも分からなかったんだって。

 その時の朋久君の目が、初めて笑ってたそうなんだ。そっちの方がずっと印象的で、その本はよっぽど美味しかったんだろうなって思っただけだったんだってさ。

 ただいつもならその場で全部のページを食べてしまうのに、何故かその日だけは本を持って帰ったそうなんだ。表紙だけ残ってたのか、それとも食べなかったのか、今もそれは分からないんだけど、私なんかは食べちゃったんじゃないかなって思ってる。

 その次の日にね、彼は店に来なかった。

 次の日も、もっと先の日も、ずっと彼は店に来なくなった。

 引っ越したりした訳じゃないんだ。周りに聞いても誰も朋久なんて子のことを知らなくてね。

 祖父さんは遂に朋久が家に閉じ込められてしまったんだ、って言ってた。当時は外に出さない、見せないようにしている、そういう類の子も結構いたらしいから。話を聞かされた時には、ああそうなんだ、って思ったよ。

 ただね、朋久君が消えた日から、ちょくちょく蔵の本が消えるようになったんだ。殆ど見に行かないものだから、最初に気づいたのは一月くらいしてかららしいけど、本がね、あの子が消えた日の半分程度まで減ってたそうなんだよ。

 祖父さんは誰かが盗んでいるんだって思ったそうなんだが、蔵には鍵も掛けてあったし、誰も入れないはずなんだよ。それなのに、本はどんどん減っていって、一年ほどで全て消えてしまったんだ。


    ※



「その話を聞いてから、一度蔵に入ったことがあってね。見上げるほど積んであった本が、一冊も無くなってた。ただ、何だろうね。床に一枚だけ、紙の切れ端が落ちてたんだ。千切ったというより、誰かんだような、そんな形でね」


 あなたの湯呑みはすっかり冷めてしまっていたが、まだ一滴として中の液体は飲まれていなかった。


「昔はね、間引きって言って、色々と問題がある子なんかは、その、間引かれていなくなったんだよ」


 老婆はやっとその眼鏡の目をあなたに向ける。右の方は白濁して、よく見えていないのだろうと感じた。ただ、思ったほどにはしわがなく、見た目よりずっと若いのかも知れない。


「万引きの語源が、間引きだっていう話は、知ってるかい?」


 そう言うと、店主はあなたの盗った本を持ち上げ、ゆっくりと首を横に振った。

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