本を喰む子

凪司工房

1.本を読む人

 すれ違うには背中合わせにならないと無理だな、とあなた・・・は本棚に囲まれて感じる。

 何年も置かれたままの本たちだからか、紙とインクの匂いというよりやや黴臭かびくさいようなそれを感じつつ、あなたは思いの一冊に人差し指を当てた。その黒っぽい背表紙の一冊を、タイトルと番号を確かめてから引き抜く。分厚い文庫本だ。八十年ほど前に亡くなった米国の作家の全集だが、今でも多くの人により読み継がれている作品群がここに眠っている。あなたはそこに挟まれたスリップと呼ばれる書名等が記載された二つ折りの紙を抜き、ページを開く。

 文章は難解だ。翻訳ということを置いてもエッセイを読むようには進まない。それでも一つ一つの表現から浮かび上がる世界はあなたをとりこにしていた。

 ただ、ずっと没頭していられるかと言えばそうでもなく、あなたはそっと奥のカウンターに座る白髪を乱雑に後ろでまとめた店主の様子をのぞき見やる。眼鏡の位置を調整し、指の先が切られたグレィの手袋で、重そうなハードカバーを読んでいた。昨日とは違う色だから新しい本に取り掛かったようだ。

 立ち読みをしていて彼女に何か言われたことはない。

 歴史が染み付いたような黒ずんだ本棚は、上の方にほこりが見える。店内がやや暗くなっているのも節電というより蛍光灯を替えていない為だ。一つは完全に消えてしまっている。

 できればこの全集を読み終えるまでは、と、あなたは心の中で手を合わせる。

 それから十五分、いや三十分程度だろうか、再び本にスリップを挟むと、見つからないようにそっと棚に戻した。順番も並ぶ高さもぴたりと揃える。

 ――また明日。

 そう微笑し、あなたは店を出た。



 雲の多い天気に気を悪くしながらも、翌日も鳳書店おおとりしょてんの木戸を開ける。

 海外小説の翻訳版は向かって右手の真ん中の通路脇の一画に並べられていて、あなたは一応客の振りで一番左手の通路を奥まで歩いてから、きょろきょろと探している視線を使い、一瞬それで店主を確認する。

 今日も彼女は本を読んでいた。

 年齢は分からない。ただずっと同じ姿形、それにほとんど変わらない服装なので、妖怪なのかも知れない、と内心で笑う。

 所定の位置までやってきてから再度カウンターを見やると、店主は丁寧にページをめくっているところだった。時折溜息をつく。どんな本を読んでいるのか気になったが、それよりも自分が見ている物語の続きが気になり、本棚に視線を戻した。

 黒い背表紙の全集、その三巻目に手を伸ばす。しおり代わりに挟んでおいたスリップを抜いてから、気づいた。一巻目の左隣に空間ができている。本が売れたのだろう。同じ著者の別の作品だったが、それでも自分以外にこの本屋に立ち寄り、誰かが購入していった、ということに驚きを感じた。

 でも大丈夫だろう、と根拠のない安心を言い聞かせ、あなたは続きを読みふけった。



 しかし翌日、更にその次の日も、本は消えていた。同じ著者の別の作品だけでなく、遂に今日はあなたが読んでいる本の二つ前の文庫も、消えてしまった。

 まだ、半分も読んでいないのに。

 難解な報告書のような著作を、誰が好んで買っていくのだろう。もう一人の自分がいるのだろうか。読んでいる小説の影響か、そんなホラーを考えてしまう。



 その日は酷い雨だった。傘を畳み、軒下のび付いた金属の格子にそれを立て、店に入る。

 ちょうど入り口の真上の蛍光灯が何度かひらめいた。もう寿命だろう。それでも交換をしないというのは、あの老婆の目がそれほど明かりを気にしないということかも知れない。あなたはさっさと海外小説の棚に行き、自分の本を手に取る。全集の三巻目を探す。

 ない。

 三巻目だけでなく、七冊あるうちの最後の一巻を除いた全ての本が棚から消えていた。

 ――嘘だ。

 心の中で何度も言い、あなたはもう一度確かめる。誰かが別の場所に間違って仕舞ったのではないか。それとも棚そのものを間違えたのだろうか。何度も確かめた。だが自分の本が消えてしまっているという事実を確認するだけだった。

 早鐘が打つ。

 あなたは落ち着こうと第七巻に手を伸ばして、はたと思う。

 カウンターを見た。老いた店主はじっと本を読み耽っている。

 ――大丈夫。

 何が? 

 ――いいから。そう。何も問題はない。

 まるで手にした本と対話しているようだった。表紙の白抜きされた著者のイラストが、あなたに微笑みかけているのだと思った。

 鞄を開ける。

 気づくとそこに、あなたの手から本が落ちていった。

 ふたを閉め、一度周囲を見回してから、足を入り口へと向ける。

 心音なのか、靴音なのか、その聞き分けがつかない。

 木枠のガラス戸の前まで来ると、ゆっくりと力を入れる。少し開き始めたところで、ガタン、とつまずいた。木戸が開かない。あなたは何度も揺らしてそれを開けようとする。しかし動かない。開くことも閉じることもできず、どうしようかと振り返ったところで、ぬっとグレィの手袋から出た指先が、あなたの戸をつかんだ。


「これ、滑りが悪くてね」


 老婆は何度か戸を叩き、それから今一度力を入れて押しやる。木戸は全て開いてしまった。

 あなたは小さく頭を下げ、店を出る。足を外へと踏み出す。


「店を出た、ということの意味を、あんたは理解しているよね?」


 振り返ろうとしたあなたの手を、彼女の手が思いのほか強い力で握り締めていた。

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