人魚はインクに溺れて。

由季

第1話

 時は明治、東洋と西洋の文化が入り混じるこの時代。祭りが行われている神社前に、正一は立っていた。白シャツの上から羽織るトンビコートが微風に靡いた。


 ガス灯は立ち並び、勢いよく回る風車を持って走る子供がワイワイと騒ぎながらちんどん屋に着いていっていた。そよ風に乗ったシャボン玉が正一の学生帽にあたり、パチリと割れた。


「だから、俺は行かないよ」

「なあ、お願いだよ、一生のお願い」

「まったく、お前の一生の願いをいくつ聞いたと思ってるんだ」


 シャボン玉のことなど気づきもしない正一は、トンビコートの中で腕を組んでいた。頭をペコペコ下げる学友、いや、悪友ともいうべき清にこれまでにないほど粘られている。願いは、“見世物小屋について行くこと”だった。


「第一、俺がああいうところ嫌いだって知ってるだろ」


 紛い物ばかりで金ばかり取る。ベナという怪物がいるとはいればナベをひっくり返したものだったり、あんなのただの子供騙しじゃないかと清に捲し立てた。


「いま話題になってるところは違うんだよ……本物の“人魚”がいるっていうんだ」

「猿と魚の干物を繋げただけのものだろ」

「違うんだよ、生きてるんだってよ」

「そんな馬鹿な」


正一は清の戯言に、フンと鼻で笑いカカトを返した。


「ちょっと正一、待てよ」


スマートな正一は、雑踏の中をするりするりと抜けて行く。清が引き留めようと、声をかけるも聞こえていない振りだった。

 こうなったときの、正一の扱いを、清はたんと心得ている。


「……ああ、未来の学者サマの正一クンは、化け物が怖いってんなら、仕方ないかぁ」


 大袈裟な大きいその声が耳に入れば、歩みを進めていた正一がピタリと止まった。


「……怖い?」 


さあ、食いついた、と清は見えないところでニヤリと笑う。


「ああ、怖いんだろう? 生きてる人魚なんて、普通の人は怖いからなあ、未来の学者の正一クンだって怖くて仕方ないか」

「怖くなんか」

「大丈夫、怖がるやつに無理強いなんてしないよ、1人で行く。じゃあな……」

「おい」


トンビコートから伸びた腕が清の肩をガシリと掴む。黒いトンビコートに、白いシャツがよく映えていた。


「どこだ、その見世物小屋っていうのは」


清は、糸のように細い目でにっこりと笑った。



ーー


「さあさあ、よってらっしゃいみてらっしゃい」


 布でできた掘建て小屋は、至るところに隙間があり、日が差し込んでいた。古く狭い室内は人で溢れかえっている。清のいう“本物の人魚”のおかげだろうか。


「なんだ正一、座んないのか」

「俺はここでいいよ」

「ふうん、座りゃあいいのに」


 正一は、はあと大きいため息をつき、入り口付近に腕組みして立っていた。どうせ、期待外れのものを見せられて大批判、出て行く人で混むだろうから、最初から入り口に立ってたらいいのだ。


 簡易的に作ったような舞台に、わざとらしい大きな布が被さってる。ここにいる人々の期待の大きさと同じくらいの布は、なんて大袈裟なんだと尚のことげんなりした。大振りであの布をとったりするのだろう、まあ良くて女の足に布でできた尾びれをつけるくらいか、と正一は踏んでいた。


「そこのガキ、覗くんじゃねえ! ……へへ、さあ、気を取り直して」


 人魚のご登場だ、初老の男が声を張り上げる。布を端をもって、体を使って思い切り布をひっぺがした。空に古い布が舞う。ほら、ここまで予想通りじゃないか、と正一はため息を吐いた。


 その瞬間、掘建て小屋に集まった民衆が、息を呑んだ。

清、もちろん正一も例外ではなかった。


 大きな硝子の水槽に、ゆらりと揺らめく尾。

布でできた掘立小屋の隙間から日が差し込むたび、水中に泳ぐ銀色の鱗が煌いた。絹のような髪が水中に無造作に漂っていた。陶器のような肌は、滑らかで水の抵抗すら感じさせない。

 水面の揺らぎは光を乱反射させ、髪の隙間から見えた大きな瞳は、ばちり、と正一と目があった、ような気がした。小さな口から、ちいさな泡が上に立ち昇る。


 その水槽で微笑むのは、紛れもなく、本当の生きた人魚であった。

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