アグノディス医師 裁判(後)
「アグノディス医師に罪は無い!」
外から聞こえた声にピリッポスは我に返った。
「アグノディス医師に罪は無い! 彼女は私たちや子供の命を救った!」
ピリッポスは様子を見るべく、アレオパゴス会議場から外へと走った。
「アグノディス医師に罪は無い! 彼女は私たちや子供の命を救った! アグノディス医師に罪は無い! 彼女は私たちや子供の命を救った! アグノディス医師に罪は無い! 彼女は私たちや子供の命を救った!……」
アレオパゴス場外の陽の下、広場に多くの女が集まっていた。乳飲み子を背負っている者、乙女、盛りを過ぎた女、腰の曲がった老女。その女たち全てが片方の拳を振り上げ、同じ言葉を繰り返すため声を張り上げていた。
アテナイでは女子たる者、家族以外に姿を見せるのは好ましくなく、外出は控えて自宅に籠るのが理想とされている。これは稀なる事だった。
ピリッポスは直ちにアレオパゴス場へと戻り、医師たちに報告した。
「大変です! おそらくアテナイ中の婦女子が外に居ます! アグノディス医師の無罪を求めております!」
「そんなことは分かっておる。声がここまで聴こえておるのだから」
クセナキス家の老齢の侍医が眉をひそめて言い返した。
「アグノディス医師、君はとりあえずそのはだけた胸をしまいたまえ、見苦しい」
クセナキス家の侍医は咳払いし、アグノディスの前へと出て腰まで垂れたキトンを持ち上げ、乳房を隠した。
「アグノディス、君が婦女子を誑かしたという誤解を謝罪する。しかし、君は女性であり、アテナイでは女性が医学を学ぶことは認められてはおらぬ」
キトンに両腕を通したアグノディスはその言葉に項垂れた。
「だが女性医師の存在は必要不可欠であると私は思う。しいては、アテナイの法の改正を急ぐよう、私は進言する。女が医術を学ぶことを早急に認めなくてはならぬ」
アグノディスが驚いたように顔を上げた。
「君の処遇はその後になるだろう」
クセナキス家の侍医はアグノディスの肩に手を置き、その場を見回して朗々とした声で言い渡した。
「私の意見に異論のある者はおるかね! ならば前に出てくるが良い。しかしその者は確実にアテナイ中の女たちから恨まれ、呪いをかけられるだろう!」
その場にいた医師の一人が外の女たちに告げに行ったのだろう。間を置いて、わっとした歓声が沸き起こり、アレオパゴス会議場を包んだ。
ピリッポスは友であるアグノディスのもとへ、駆け寄った。安堵と感動のあまり、涙を浮かべピリッポスは興奮した声で言った。
「ああ、アグノディス、良かった。君が勝ったんだよ。あの素晴らしい声を聞きたまえ。アテナイ中の女たちがあげる君の勝利を祝う声だ」
「貴方にはそう聞こえるのですね、ピリッポス」
ピリッポスはアグノディスの様子に面食らって黙り込んだ。
端正なアグノディスの表情は無感情で暗くさえあった。
「あれは愚かな女たちの声です」
冷たくアグノディスは言い放った。
「愚かな女たち。私の母と姉と同じように。アテナイには私と同等、それ以上に優れた医師が大勢居る。それなのに、女たちは恥という情けない感情で自身の命と赤子を危険に晒しているのです。なんと愚かな女たち。変えるべきなのは法よりも女たちであるのに」
ピリッポスは口をつぐみ、隣にいたクセナキス家の侍医と目を合わせた。
「そうではありませんか」
外からの歓声は鳴り止まず響いていたが、ピリッポスとクセナキス家の侍医に問いかけるアグノディス医師の瞳は濁ったように暗かった。
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