第70話徳川家基4

 角太郎と呼ばれている近習がゆっくりと準備をしている。

 力太郎は最初から覚悟を決めていたのだろう、我の言葉を無言で飲み込み、軽く素振りをしているが、その風を切る音が鋭い。

 その音を聞いて、初めて力太郎が尋常でない剛力だと気がついたのだろう。

 角太郎という男の顔色が一気に青ざめる。


 角太郎の緊張と恐怖を、周りの者達も気がついたのだろう。

 試合相手が我から力太郎に変わり、近習側の張りつめた緊張が弛緩した感じになっていたのが、今度は切れる寸前まで糸を張ったような緊張感になった。

 我が力太郎が手加減できない腕前だと言ったのを、自分達を基準にした、未熟な弱者だと思っていたのだろう。

 取り返しがつかない馬鹿をやったことに、ようやく気がついたのだ。


 角太郎という者の動きが格段に遅くなった。

 戦わなくてすむ方法を必死で考えているのであろう。

 我が城勤めに慣れた口舌の徒なら、ここでもう一度試合を中止するように声をかけてやるのかもしれぬ。

 だが我は武芸者であって口舌の徒ではない。

 武士が一度口にした事は命を賭けてやり抜かねばならぬのだ。


 角太郎の時間稼ぎが続いている。

 何か考えている風、真剣に準備をしている風に見せかけて、なかなか立ち合いの場まで下りてこない。

 西ノ丸様と同じ部屋の中に居座り、庭先に下りようとしない。

 流石に西ノ丸様も不信に思われたようだ。


「どうしたのだ、角太郎。

 どこか具合でも悪いのか」


「左様でございますな。

 大言壮語の後で、ようやく実力の差に気がつき、臆病風に吹かれたのでしょう。

 臆病風は命にかかわる大病でございます。

 早々に御前を下がらねば、命にかかわるやもしれません」


「な、何を申すか、この不浄役人の小倅が。

 わたしが臆病風に吹かれたと言うのか。

 無礼千万、手討ちにしてくれるぞ」


「無礼討ちにされるというのなら、本気で御手向かい致しますぞ。

 返り討ちも武士の習いだという事くらい、憶病で卑怯なお手前でも知っていられるでしょうな。

 我と戦うか、力太郎と戦うか、大言壮語と我らに対する無礼な言葉を手を突いて詫びるか、好きになさるがよかろう。

 西ノ丸様の御前で刀を抜くような、卑怯不忠な事をする気がなければな」


 思わず追い詰める言葉を吐いてしまった。

 やはり我に御城勤めはできんな。


「角太郎殿、それはいけませんぞ」

「西ノ丸様の御前で刀を抜けば、改易でございますぞ」

「病なら仕方ございませんぞ、恥を恐れず正直に急病だと申されよ」

「腹痛でござろう、先ほど調子が悪いと言っておられたのを覚えておりますぞ」


 同僚の者達が、口々に助言をしたり助け船を出したりする。

 武士は相見互いというが、眼の前で見せられると反吐が出そうになる汚さだ。


「さよう、さよう。

 憶病で卑怯な同類の方々が、逃げるための助け舟を出してくださっている。

 ここは助け船に乗って逃げるが、命冥利というものですぞ。

 ただ二度と武辺者と名乗らぬことです。

 果し合いを申し込まれるたびに、腹を壊して厠に逃げ込まねばならぬ。

 ああ、違った違った。

 自分から果し合いを申し込みながら、直前に厠に逃げ出すのでしたな」


 これで逃げ出せれば、それも武士の心構えだ。

 韓信の股潜りという故事もある。

 力をつけて勝てるようになるまでは、恥を忍んで生きるのも武士だ。

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