37. 胃袋をつかまれました

 文官の使いを終えた帰り道、見覚えのある男が柱にもたれて立っていた。

 近衛隊の白い制服に映えるのは記憶に新しい翡翠の髪ではなく、赤銅色の髪。

 彼はセラフィーナの視線に気づくと、片手を挙げて無邪気に笑みを浮かべる。夜空のような紺碧の瞳を見ながら、セラフィーナは首を傾げた。


「アルト様。お仕事はどうされたのですか?」

「昨日は夜勤だったから、もう就業時間は終了。ねえ、これから付き合ってくれない?」

「……わたくしはラウラ先輩ではありませんよ」

「うん。知ってる」


 気さくな雰囲気についのまれそうになるが、あとで余計な争いに巻き込まれるのはごめんだ。自然と声が刺々しくなるのは仕方ない。


「二人でですか?」

「もちろん」

「……誤解されるのでは?」

「大丈夫。もう了承は取ってあるから。あとは君次第」


 まさか、先回りしてラウラに話を通しているとは。正直、恐れ入った。


(それにしても一体、何の話かしら……?)


 訝しんだ雰囲気が伝わったのだろう。アルトが警戒心を解くように片目をつぶってみせた。途端に脱力感が一気にこみ上げてきた。


(深く考えこむほうが負けな気がしてきたわ)


 お互い私服に着替えて通用門を通り、二人は夜の城下町に繰り出した。


   ◇◆◇


「一度、君とはゆっくり話してみたかったんだよね」

「はあ」

「幸い明日は非番だし……お酒は飲む?」

「いえ、遠慮しておきます」


 アルトの行きつけという酒場は客の入りは上々だった。隣のテーブルとの間隔も狭い。店の奥は一段高くなっており、そこには漆黒のドレスに身を包んだ妖艶な美女が歌を披露していた。

 心の底に深く染み渡るような美声は甘く響き、彼女の歌声が目当てという客もちらほらと見受けられた。伴奏はないが、人を魅了する力強さがあった。

 そして、良心的な価格なのに、料理がとにかく美味しい。鶏肉の唐揚げはカラッと油で揚げてあり、チーズが中に挟まれたハンバーグはフォークを入れると肉汁がじゅわっとあふれ出す。水を弾いたレタスはシャキシャキとしてミニトマトも甘く感じた。

 アルトのおすすめには外れがない。すっかりセラフィーナの胃袋はつかまれていた。


「……美味しそうに食べるね」

「だって、美味しいですから」


 当たり前のことを言うと、アルトが頬杖を外して笑った。


「喜んでもらえてよかったよ。ラウラから、君にうんと美味しいものを食べさせるように言われていたからね」

「ラウラ先輩が?」

「嫌がらせをされても逃げ出すことなく、いつも通りに働くことは誰にでもできることじゃない。君の頑張りはしっかり評価されているということだよ」


 改めて他人から言われると、照れくさくもある。

 気恥ずかしい思いを咳払いで隠し、セラフィーナは本題に入った。


「ところで、アルト様。そろそろ教えてくれませんか? 宮殿では話せない話があるのでしょう?」

「うん。まぁね。だけど、その前に僕からお願いがあるんだけど」

「何ですか?」


 問いかけると、野菜炒めを食べていた手を止めてアルトが言う。


「僕のことはどうか呼び捨てで」

「え……ですが、わたくしのほうが年下ですし。ラウラ先輩の知り合いを呼び捨てにはできません」

「僕もラウラもそういうのは気にしないから。様づけで呼ばれると落ち着かないんだ」

「……わかりました」


 しぶしぶ頷くと、満足したような顔に見つめられた。

 エディのときと違って、心臓が騒ぐこともない。狭い店内で腕が触れあうような距離にいるにもかかわらず。


(って、何を考えているの。今は関係ないでしょ……!)


 自分を叱咤し、勢いのまま麦茶を呷るように飲む。

 アルトは、何かの合図のようにトントンとテーブルを人差し指で叩いた。不思議に思っていると、両手をテーブルの上で組んでセラフィーナを見やる。


「ラウラから聞いたけど……セラフィーナって殿下が第二妃に望んでいる女の子らしいね。しかも、他国の身分の高い令嬢なんだって?」

「実家とは縁が切れましたので、元ですが」

「もともとは皇太子妃になる予定だったんだよね? 下級女官になろうと思ったのは、魔女裁判にかけられる未来を知っていたから?」

「……そうです」


 以前、アルトには嘘を暴く魔法を使われている。言葉を偽ってもすぐにバレるだろう。

 けれど、正直に言ったのに、なぜか不可解な顔をされた。 


「第二妃になっちゃえばいいのに。そうしたら暮らしもだいぶ楽になるよ? こんなに手を赤くする必要もなくなるし。殿下の第二妃になれば、魔女だと指を差されることもない。……だって殿下が守ってくださるから」


 言われて初めて、その可能性に気づく。

 しかし、自分の直感が彼とは添い遂げられないと言っている。どちらかというと、レクアルのことは好ましい。だけど、それは結婚相手としてではない。

 うまく言葉にできないが、自分の中の何かが彼は違う、と訴えている。


「いいんです。私が決めた道ですので」

「ふーん。なんかいいね。自ら茨の道を進もうとするの、嫌いじゃないよ」


 アルトは組んでいた手を離し、中断していた食事に戻る。

 その様子を見ながら、セラフィーナは首を傾げた。


「今のがアルトの聞きたかったこと……ですか?」


 尋ねると、豚肉の甘酢和えを咀嚼していた口を一瞬止め、ごくんと飲み干してから口を開ける。


「いや――君の名前を知りたいなと思って」

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