36. 決別の言葉

「こちらにお進みください」


 エディに促され、天井から垂れ下がった布の重なり目を横にずらし、一歩先に進む。

 そこは深紅の緞帳が下りた控えの間だった。

 艶のある天鵞絨の長椅子に腰かけたレクアルが片手を挙げる。その後ろには正装姿のアルトが後ろに腕を組んで控えている。

 そして、レクアルの正面で肘掛けつきの椅子に座っていたのは、ユールスール帝国の皇太子だった。奇しくも、婚約破棄した夜と同じ黒の燕尾服だ。ただし、あの夜と違い、胸元に白い百合を差している。


(どうして、殿下が――)


 面食らうセラフィーナの肩にレクアルがぽんと手を置き、止まっていた時間がゆるりと動き出す。鳶色の瞳と目が合うと、安心させるように片目をつぶる。

 レクアルはディックに向き直ると、にこやかな笑みを浮かべた。


「彼女は下級女官ですが、私が特別に目をかけている者でもあります。発言にはくれぐれもご注意いただければ幸いです」


 いつもより棘のある言葉に、セラフィーナはこの場は自分を傷つけるために設けられたものではないことに気づく。

 ディックはまっすぐにレクアルを見上げ、深く頷いた。


「……承知しました。寛大なご配慮、痛み入ります」

「では、私はこれで」


 アルトを伴い、レクアルが緞帳の向こう側へと消えていく。一瞬、夜会の喧噪が控えの間にも届いたが、すぐに遠くなる。

 ちらりと後ろを見るが、エディの姿はない。騎士宿舎に戻ったのかもしれない。


(そんな……)


 二人きりになり、奇妙な沈黙が続く。相手の様子を窺うような間を経て、先に口を開いたのはディックだった。


「様子がおかしかったマリアンヌからあなたのことを聞きました。彼女からあなたは元気そうだと聞いたものの、どうしても自分の目で確かめたくて……」


 セラフィーナは向かい側の椅子に座り、太ももの上で両手を重ね合わせる。


「……発言をお許しいただけますか?」

「ええ、もちろん」

「これは……元婚約者として言わせていただきますが。……昔の女のことなど、すぐにお忘れなさいませ。あなたが気にかけるべき女性はマリアンヌ様です」


 毅然とした態度で伝えると、ディックが視線を下に落とす。

 きっと、頭ではわかっているのだろう。本当は自分たちは今ここで会うべきではなかったと。

 彼は――マリアンヌを愛している。

 初めは同情だったかもしれない。だが回数を重ねるたび、二人の関係は徐々に変わっていったはずだ。セラフィーナが寄り添う二人の姿を見たのは数えるくらいだが、傍目から見ても恋人と呼ぶにふさわしい雰囲気だった。


(マリアンヌ様を幸せにできるのは殿下だけ……彼女が帰国しても幸せになる道はない)


 せいぜい政略結婚の駒にされるのが関の山だ。それならば、真実の愛を手に入れた相手と添い遂げるほうがいいに決まっている。

 ディックは無言で胸ポケットから銀の鎖がついた時計を取り出し、小さな丸テーブルの上に置いた。


「殿下、それは……」

「ええ、そうです。以前、セラフィーナからいただいたものです」

「まだ……お持ちだったのですね」


 特注で作らせた懐中時計は、裏に彼のイニシャルが刻まれていたはずだ。ディックはそれを愛おしげに優しく撫で、セラフィーナに視線を合わす。

 灰色の瞳は困惑したように揺れていた。


「あれから、僕は自分が間違いをしたのではないか、と考えていました。あなたを助ける道は他にあったのではないかと」

「――すべて終わったことです。いずれ国の頂点に立つ皇太子殿下は、過去ばかりを見るのではなく、未来を考えねば。過去にとらわれてはなりません」

「ですが、あなたも被害者だった……」


 そうだった。昔から、彼は優しすぎる・・・・・のだ。


(おそらく、マリアンヌ様からあの話を聞いたのでしょうね。でももう、過去は変えられない。わたくしは悪役令嬢のままでいい。それがきっと、最良だった)


 断罪のために整った舞台に、役者が揃えば、劇は進む。あそこで無実だと騒ぎ立てれば、余計な混乱を招いただろう。脚本と違った展開は誰も望まない。

 嫌疑をかけられた時点で、実家は娘を切り捨てたはずだ。今と状況は何も変わりようもない。領地追放以外に選べる選択肢など、最初からなかった。


「今は充実した生活を送っております。ですから、侯爵家に戻りたいとも思っていません。本当に殿下が気に病むことなど、なにひとつございません」


 淡々と言葉を返すと、ディックが何かを言いかけるように口を開きかけたが、何かをこらえるように唇を閉ざした。

 元侯爵令嬢が女官生活に馴染んでいるなんて、皇太子には想像もできないだろう。

 けれど、これだけは言わせてもらう。


「今のわたくしはただの下級女官です。もう殿下と関わることのない庶民でございます。――どうかマリアンヌ様を悲しませないでください」

「…………」

「さあ、マリアンヌ様がお待ちでしょう? 一人で寂しい思いをされておられるのではありませんか?」


 ディックが重い腰を上げ、ゆっくりと立ち上がる。


「確かに、セラフィーナの言う通りですね。僕が大事にすべきはマリアンヌだ。気づかせてくれてありがとう。……これは君が持っていてくれ」

「え?」

「僕では処分できそうにないから、君に返す。申し訳ないが、捨ててくれないか?」

「……わかりました」


 腕を伸ばして懐中時計を受け取り、今も時を刻む針をじっと見つめる。八年も前に渡したものなのに、きれいな状態を保っている。大事に扱われてきたのだと思うと、胸が締めつけられるような心地になった。


「ディック殿下」

「……なんだい?」

「どうか幸せになってください」

「ああ――約束する」


 それは何度もループしてきた中で、初めて交わすやり取りだった。

 ディックが会場に戻るのを見届けて、セラフィーナも踵を返す。だが布をめくった先にいた人物に気づき、足が止まる。


「……聞いていらっしゃったのですか?」


 静かに尋ねると、申し訳なさそうに視線がそらされる。


「すみません。何かあれば助けられるように、ここで待つようにレクアル殿下から指示されておりましたので」

「そうですか」


 いないと思っていたが、すぐそばで見守っていてくれたのだ。

 気恥ずかしいと思う一方で、じっと待っていてくれたことに胸がじんわり熱くなる。

 ディックの顔を見たときに張り詰めていた緊張の糸がほどかれ、肩から力が抜けるのを感じた。すると、エディがポケットからハンカチを取り出し、すっと差し出した。


「これを使ってください」

「え、でも……」

「失礼します」


 青いハンカチで涙を優しく拭かれて、自分が泣いていたことに初めて気づく。

 失恋したショックが今ごろ来るなんて、どれだけ自分は鈍いのだろう。思い返せば、追放後に元婚約者とこんなに和やかに話すなんてこと、今まで一度もなかった。魔女であると弾劾されたときは元婚約者とも思えない扱いで、ここまで人は変わるのかと感心したほどだった。

 けれど、今日のディックは紳士だった。おかげで冷静に話すことができた。

 

(とっくに気持ちは冷めていたと思っていたのに……)


 追放後の人生はいつも生きぬくため働くことに必死で、自分の感情との折り合いをつける暇なんてなかった。それを今さらながら実感する。

 手の内にある懐中時計を見下ろし、セラフィーナはなんとも言えない気持ちになる。


(まさか、これを今も大事に持っていたなんてね……)


 とっくに処分されたと思っていた。けれど、違った。

 これが今、自分の手元にあることが何よりの証しだ。初めは裏切られたのだと思っていた。だが、自分はただ切り捨てられたのではなかった。婚約破棄は彼なりに苦しんだ結果だったのだろう。


「セラフィーナ? 大丈夫ですか?」

「……はい。もう平気です」

「ここには他に誰もいません。泣きたいなら泣いていいんですよ?」


 優しく諭す声に、こらえていた涙がじわりとあふれ出る。けれど、ぐいっと手の甲で拭い去り、セラフィーナは薄く笑う。


「ここにいたのがエディ様でよかった。……本当にわたくしは大丈夫です。涙は女の武器ですもの。時と場所を選ばなければ。今日のことは、どうかご内密にお願いいたします」

「わかりました。寮までお送りしましょう」

「いえ。エディ様も殿下の護衛任務があるのでしょう? ちゃんと一人で帰れますので、ご心配は不要です」


 これでも元貴族だ。表情を取り繕うことなど、造作もない。

 金色の瞳は心配そうな色を宿していたが、頑なな態度に折れたのか、短く息を吐く。


「今はその言葉を信じることにします。……本当に大丈夫なんですね?」

「ええ、問題ありません」


 何か言いたげな視線を向けられたが、じっと見つめ返すと、やがて諦めたようにエディが背を向けた。緞帳の向こうに消えていく背中を見送り、セラフィーナは一人、回廊に出た。向かい側から吹き込んできた風に、アッシュベージュの髪がぱたぱたとなびく。

 その上空を飛び交うバサバサッという羽ばたきの音を聞きながら、寮に戻るべく一歩を踏み出した。

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