復讐に誓って

駿河 明喜吉

第1話 昏き森に眠る呪い 一

「はあ、はあ……!」


 レオノーラ・イグレシアスは、薄暗い森の中を走っていた。


 己の激しい呼吸音が耳にまとわりつく。

 荒々しく脈打つ心臓が張り裂けそうに痛み、思わず足を止めそうになるが、己が身に迫る危機がそれを許さない。


 履き潰したブーツが乾いた大地を蹴り上げる音が、彼女の焦燥感をより一層煽るが、そんな些細な恐怖に立ち竦んでいられるような状況ではなかった。


 何度脚をもつれさせても、転びかけて地に片手をついても、決して前進する脚だけは止めなかった。


 何故だ、何故こんなことになってしまったのだ。


 レオノーラは長い髪を捌き、肩越しに背後を振り返った。


 ぞっと背筋が粟立つ。細く、吊り上がり気味の眉が顰められ、彼女の視線の先にある存在のおぞましさが、ありありと伝わってくる。


 逃げ惑う獲物を地の底まで追いかける執念を感じさせるは、まさに、地獄の底で凄惨な人体実験の末に生まれたような、異様で、不気味で、奇怪な姿をしていた。


 翼の生えた人間。一言で言い表すとしたらこれが一番わかりやすいだろう。けれどその容姿は、ただの《鳥人間》の一言で表すには、余りにも醜く、この世のものとは思えない残酷な姿でそこにあった。


 頭髪はすべて抜け落ち、骨格を無視してグロテスクに湾曲わんきょくしたいびつな頭部に、僅かばかりの睫毛をしばたたかせる無数の目。


 焦げたような茶色い双翼が肩甲骨の辺りから生えていて、鳥類の象徴を思わせるそれが上下に大きく羽ばたくたび、がさがさと風を切る音が響いた。


 通常の人間ならば左右で一本ずつの腕も、かの化け物には対で二本ずつ、合計四本の腕が下がっている。肘関節から二股に裂け、二十本の指が、レオノーラの首根っこを掴もうと虚空を弄る様は、狂的な呪いが掛けられた生き人形を思わせた。


 口や鼻と言った器官はなく、顔面部に嵌め込まれた数々の瞳は、てんでバラバラに瞬きを繰り返しては、レオノーラのいない空間をきょろきょろと見渡す。何を考えているのかわからない不気味な目つきに、彼女は背中に氷水を浴びせられたような怖気を覚えた。


 その奇異な怪鳥の傍らで大地をけたたましく踏み鳴らすのは、広大な沼地に潜むわにのような生き物だった。


 何故、「ような」と曖昧に形容したか。本来の鰐には存在しない、不気味な《もの》を背中に持っていたからである。固い装甲を思わせるでこぼこした皮膚からいくつもの不気味なを伸ばし、およそ生き物の動きとは思えない独特の動きで空中を擽っている。鈍色にびいろの雲と、生い茂る樹木の葉に日光を遮られた薄暗い中でもわかる、ぬめったような光沢感が、気色の悪さをより一層強調する。


 薄く開いた口から覗く先鋭な牙。噛みつかれでもしたら、もう二度と、五体満足で大地を踏みしめることはできない。


 傍の獲物を仕留める俊敏さを持った鰐と同じように、禍々しき生き物も、それに劣らない優れた身体能力で、レオノーラを追いかける。


 固い脚が地面を踏み荒らす音のなんと大きなことか。奇妙な逃走劇を開始してだいぶ時間が経つが、後ろの化け物たちは一向に速度を落とす気配はなく、今のままではレオノーラの体力が尽きてしまう。そこから導き出される結末は、この上なく凄惨極まりない。

 生物だ。


 二体の追跡者の執念深さに、レオノーラは両手を上げて「降参」の意を示したい思いだった。けれど、それは許されない。己の目的のために。


 彼女の心を締め付ける、熱せられた鉄の鎖を解くために。



 ――二体の追跡者は、人に非ず。

 魔族と呼ばれる生き物だ。


 魔族。人間たちの住む《地上》の真下――地下深くにあるとされる《魔界》に住む住人で、その姿は、動物の形をしたもの、人と動物の体の一部が融合したもの、人間と遜色ない姿をしたもの、空想の世界の生き物として語り継がれてきたものや、宗教世界の悪者として登場する、所謂、悪魔的な見た目を有したもの、様々な種族に溢れる。


 彼らには階級が存在し、より人間に近い知性と、強大な魔力を持った者が《上級》と分類され、わずかな魔力、言葉を持たず、本能的で野性的な者を《下級》と位置付けられた。


 彼らは階級を問わず、好戦的で残酷だ。引き裂いた敵から迸る血潮を全身に浴び、耳を塞ぎたくなるような残酷な断末魔の悲鳴を楽しみながら、殺戮さつりくの快感に浸るのを至幸しこうする。


 人間誰しもが持つ理性というたがを失った姿は、まさしく悪魔と呼ぶに相応しい。


 レオノーラは嫌と言うほど知っている。魔族と言う種族がいかに狡猾で残忍で、滅するに値する存在かを。この身を持って理解しないではいられなかったのだ。


 捕まってしまえば、散々に弄ばれた後、四肢を引きちぎられた挙句に、人間の尊厳などお構いなしに、ごみを捨てるみたいに放り捨てられ、あっけないほど簡単に見向きもされなくなるのは火を見るよりも明らかだ。《低級魔族》とはそういう存在だ。気まぐれという言葉の権化。残酷で、無邪気。故に、情に訴えて命を助けてもらえるなんて甘い考えは持たない方がいい。

 逃げるしかない。捕まらないように、ひたすらに逃げるしかないのだ。


 やがて、脚に感覚がなくなってきた。走っているという感覚自体が薄弱になる。けれど走る。走る。走る……。道の限りに走ることもいとわない。


 だが、意に反して、体力は限界を迎えようとしていた。次転んでしまえば、立ち上がれる自信がない。


 いかん、いかん。気をしっかり持つのだ。レオノーラは、強く目を瞬き、ぶんぶんと頭を振った。その際に、視界の下の方に鈍く光る銀色が映った。


 右手に下げたシンプルなこしらえの剣。使い込んで傷みの目立つ柄の先には、赤い組紐が絡みつき、金の値付けで通された土台の真ん中に嵌め込まれた赤い石が、彼女が走るのに合わせて暴れるように大きく揺れる。


 細身の剣尖けんせんは、溝川の水を思わせる赤黒い液体に濡れていた。ぱたぱたと滴るねばついた朱が、大地にぽつぽつと小さな染みを作る。

 森の中に一人きりになった瞬間、湧くように現れた魔族共を切り伏せた時に付いたのだ。


 初めは一体ずつ現れたのを丁寧に迎え撃っていたが、魔族たちの襲撃が活発になってきたため、完全に捌ききれなくなる前に逃げた。それでも根気強く命がけの鬼ごっこを続けたがったのが怪鳥と鰐。

 鋭利な顎で噛み切られ、四本の手に四肢を捥ぎ取られる場面が何度も脳裏を過った。その度に、胸の奥が爪のない指で忙しなく引っ掻かれているような、妙な不快感を覚える。


 レオノーラは、限界が訪れつつある体力を振り絞り、胸に去来する不安を押し殺すように、剣の柄を握り直した。


 ――死なない。私は、こんなところで死ぬわけにはいかない!


 刹那、進行方向の先に左右二手に分かれる道が現れた。血路を見出した気分だった。彼女は一瞬の迷いを振り切り、直感的に左の道に飛び込んだ。


 急に道を曲がったことにより、追いかけてくる奴らからは、一瞬、彼女の姿が見えなくなったはずだ。道を外れて、乱立する樹木の影に滑り込む。丁度、すぐ傍に身を隠すのにおあつらえ向きな場所があった。服が汚れるのも構わず、べたっと地面に身を伏せる。


 両手で口を押さえながら、文字通り息を殺し、魔物たちが道を通りすぎてくれるのを待つ。

 頼む。行ってくれ。立ち止まって私を探すなんて、ことはしないでくれ。


 どくどくと心臓が脈打つたびに、こめかみ辺りを走る血管がズキズキと痛んだ。

 目の前が霞む。いよいよ立ち上がれない。頼む、すぐに立ち去ってくれ。今の彼女には、さっきまでのように惰性で走り続けるような体力はない。


 彼女の願いが通じたのか、先頭を駆ける(飛ぶ)怪鳥が、真っ直ぐに続く道だけを一心に見つめて通り過ぎて行った。後ろに続いた鰐も、木の陰に隠れたレオノーラには気付かず、目の前に生肉をぶら下げられた肉食獣のさまで、いもしない獲物を追いかけていった。


 安堵すると同時に、全身からどっと汗が噴き出てきた。肩を上下させて肺に空気を送り込んでいると、徐々に思考がクリアになっていく。


「行ったか……」


 奴らの姿が見えなくなってから、レオノーラは木陰から這い出して、来た道を足早に戻った。


 靴音が響かないよう、猫のように軽やかに走る。それでも静寂の只中では、完全に足音を殺すことはできなかった。


 額から滑り落ちてくる汗を、ジャケットの袖で拭う。上のボタンを二つばかり外せば、胸元から微かに風が入り込んできた。

 新品ではないが、丁寧に手入れされた丈の短い黒のジャケット。袖口や襟元は金色に縫い取られ、前を止めるボタンも早朝の町を照らす太陽の色にキラキラと光っている。


 素材はベロアで、見た目よりも柔らかい生地だ。伸びもよく防寒性にも優れていながら、肩が凝らない軽さが彼女はお気に入りだった。


 この森に迷い込んだのは、今朝のことだった。

 しまい込まれていた看板が商店街の軒先に整列する時刻、昨晩世話になった宿屋を早々に出た彼女は、すれ違う人すれ違う人に声をかけ、道を尋ねた。


 人々は彼女の口から出る奇異な目的地の名前に、あまりいい顔をしなかった。大体の者が、「さあ、知らないな。どうしてそこに行きたいんだい?」と逆に質問をしてくる始末。


 レオノーラは、「知らないなら、いい」と礼の欠ける態度で踵を返し、また別の人に同じように道を尋ねる。


 大きな町だった。傍に大きな川が流れ、一日に何度も船が行き来する港町。


 屈強な漁師たちが市場に大量の魚を卸す大海原と対になる形で、肥沃ひよくな大地を蓄えた山々を国境に敷き、田畑や果物農家など、国の中心地として、世界各地に様々な影響力を及ぼすのが、この町の姿だ。


 故に人口が多い。ここでなら、己が目指す目的地への道のりを知る者がいるはずだと期待した分、このような危機的状況に陥っているのが一生の不覚であった。


 道を尋ねて回り、数時間が経った頃、レオノーラは、一向に成果が実らない現状に苛立ちを覚えていた。


 休憩がてら、爽やかな水音に誘い込まれるように噴水広場に足を運ぶと、ふと、ある人物と目が合う。ベンチに腰を下ろして、何をするでもなくぼんやりと世界を見つめるばかりだった白髪の老人だ。レオノーラが傍を通りかかるや否や、虚ろばかりの双眸に生者の色を湛えて、やけにのんびりした動作で彼女を見上げた。


 老人の瞳に一瞬だけ、闇夜を引き裂く稲妻のような光が走ったのを、彼女は見逃さなかった。その光に制止を命じられたかのように立ち止まる。


 何故か視線を逸らす気にもならなかったので、朝から散々吐き続けてきた質問を、老人にもすることにした。


 妙な沈黙を追い払うように、咳払いをしてから口を開く。


「おじいさん、私はに用があるのです。魔界へ通じる洞窟があるとされているのは、どこの町か知りませんか」


 老人は、目の前の少女の突拍子のない言葉に、丸い背中をほんの少し伸ばした。視線の先にいた、やけに背の高い少女の姿を数秒見つめた後、皺だらけの口をもそもそと動かして、彼女が求めに求めていた反応を示す。


「知っておるよ」

「えっ」


 聞き間違いかと思った。今までどれほど、この言葉が返ってくるのを期待しただろう。けれど、彼女の希望とは裏腹に、返ってくる言葉と言えば、判で押したような「否」ばかり。まさか、偶然立ち寄った場所で、偶然目が合った老人に声をかけたことがきっかけで、探し求めた問いの答えにたどり着けるとは思わなんだ。


「本当ですか。それはどこです」


 レオノーラは、老人の視線と合わせるようにしゃがみ込むと、凛々しい切れ長の目に執念深い炎を灯しながら、弛んだ皮膚に埋もれそうな双眸を見つめた。

 老人はおもむろに立ち上がるなり、「こっちだ」と広場の外へ向かって歩き出した。


 レオノーラは、何の疑いもなく彼の後について行った。高揚感が胸の内を炎のようにあぶった。

 それと同時に、絶対的な安心感のようなものを覚える。

 不安や恐怖……様々な感情を腹の底に押し込めるほどの、盲目的な感情とでも言おうか。下り坂をゴムボールが転がり落ちるが如く、事がスムーズに運ぶと思った。

 ――そんなものは、錯覚に過ぎないというのに……。


 町外れにあるこの森の中に入って数歩、違和感に気が付く。


 魔界への入り口があるのは、森ではなく海だ。潮騒しおさいの鳴り響く洞窟の奥。海の香りが沈む曇天の下に、魔界への入り口が隠れている。

 けれど今ここにあるのは、噎せ返るほどの緑の匂い。日光を遮る深緑の葉。小鳥の囀りと、わずかばかりの静寂である。


 この老人はどこまで連れてゆくつもりなのだろう。場所を知っているのなら、町の名前を教えてくれれば、あとは自分で調べるつもりだったのだが。


 奇異に思っていると、その時、レオノーラの目の前で、人知を超えた不可思議な現象が起こった。


「おじいさん、この町に魔界への入り口があるのですか?」


 と怪訝そうに問うた彼女の視線の先から、さながら煙のように、幽霊のように、老人の実体そのものが消えてしまったのである。


「え?」


 いきなりのことに、レオノーラはしばしその場に立ち尽くした。


「おじいさん? どこですか、おじいさん」


 我に返り、心にもやもやした違和感を抱きながら一歩、二歩と森の奥へ進み、老人の姿を探した。


 ふと見上げた空が、昼下がりの空とは思えないほどに薄暗い。天に坐す神が、大きな掌をそっと伏せたような静寂と薄闇があった。

 吹く風もじめじめとしていて、生暖かい蛇のように肌に絡み付く。

 今にも土砂降りの雨が降り出してきそうな気配。


 つい今しがたまで聞こえていたはずの小鳥の声や、町の雑踏が一切聞こえない。不気味なほどの静寂しじま。自分の耳がおかしくなってしまったのかと勘違いするほどだ。


 嫌な予感がする。噴き出る冷や汗が、その予感をより一層、強固なものにする。


 これ以上森の奥へ入るのはまずい。言い知れぬ危機感に促されたレオノーラは、町へ引き返そうと踵を返した。戻って、町の自警団を呼んでこよう。もしかしたら老人は森の中で遭難してしまっているのかもしれない。


 来た道を戻ろうと歩を進めたレオノーラが、「あっ」と悲鳴を零した。


 今しがた足を踏み入れたばかりだというのに、振り返った先にはどこまでも続く深い森だけが、覆いかぶさるように広がっていたのだ。


 四方に目を向けてみても、周囲には同じ風景をツギハギして作ったような景色が広がるばかり。乱立する若い木々たちは入り組み、ただでさえ薄暗い天を覆うように伸びている。夜目の利かない人間ならば、足元に不安を覚えるかもしれない。


 出口など、どこにも存在しなかった。


 レオノーラは悟った。自分は騙されたのだと。そしておそらくあの老人は、人間ではなく魔族。言葉が通じ、人間と遜色ない知能を持っていたことから、中級魔族あたりだろう。


 この世界には、人間が住む世界地上界と、魔族が住む世界魔界があると説明したのを覚えているだろうか。


 互いの生活には《不可侵》という暗黙のルールが存在するが、魔族側がそれを犯すことが多々あるのが現実だ。


 レオノーラが魔界を目指すことになった理由も、その現実が起こした不条理な事件のせいである。

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