君の胸にだかれたい

朝川渉

ブレインの中で会う

 ラプラス星の高等学校二年生のエミリーは、授業が終わり、同級生とともに門を抜け、いくつかの交差点を過ぎ別れを告げたあとで待ち遠しかったかのように家へとつづく残りの道を走りながら帰ってくる。

 家に着くとするのはまず着替えと、それから消毒である。エミリーの家の洗面所はそのための色々な薬剤や見たこともないような器具が置いてある。エミリーはそのひとつの蓋をあけ、白い泡のようなものを手につけて、それから頭まで伸ばしていく。ここラプラス星でも宇宙汚染の空気は広まっていて、いまは色々なウイルス、それだけでなく異常花粉、鉱物のクズなども心配されているから、必ずうがいもする。それからいそいで、自分の部屋への階段を登る。エミリーの部屋には、ラプラス星の住人なら誰もが持っている「頭脳」と呼ばれるカプセルがある。


 これは、電話ボックスくらいの大きさで、中に人がすっぽり入れる形になっている。中にあるのはイス、それから上下左右真暗闇のようなスクリーン。インターネット、通話、記録、データ管理、さまざまなものを入力、出力することができる。この頭脳、俗称でいうブレインは、一億年前に開発されたもので、幾たびもアップデートを繰り返している。今ではいろいろな星や、時間も超えて通信することが可能になった。

 エミリーはブレインの中へ入る。真暗闇な胎内のような空間に、エミリーが電源を入れるとわずかに稼働をするようにオレンジ色の光がつき、朝日のようにその光が広がってゆく。そうして決まった番号を入力するために、パスワードを唱える。そうすると、いつもの通りジェフの顔が映し出される。


「ハーイ」


 エミリーがいうと、ジェフも笑って「ハーイ」と答える。


 ジェフと付き合い始めてからもうすぐ二ヶ月になる。ジェフはラプラス星の住人ではなく、ここから50億光年離れた星に住む、25歳の青年だった。

 ジェフとエミリーは、いつものようにその中で抱き合う。ブレインを通した感覚は、インターネットのものより、宇宙手話でしたものより、脳波を増幅しているものだから何倍もよく伝わってくる。

 ジェフは「愛してるよ」とつぶやき、エミリーは「わたしも」と答え、それから顔を赤らめる。エミリーはまだ愛という言葉を知らないほどにうぶだったからだ。


 このブレインが普及しはじめたのはかなり前だが、今や星の家庭のみならず個人や学生までもプライベートのものを所有しているのがほとんどである。個人番号さえ知っていれば、何のセキュリティも通さず、総理大臣でも、芸能人でも、収監されている死刑囚とでもいま、すぐに会うことが出来るのがすごいところだ。

 学生たちの間では、ブレインを持っている他の星と通信出来るソフトを入れ、あちこちに電波を流しては交流するのが流行っている。エミリーとジェフが知り合ったのもその十五人目のトライで繋がったのだった。


「ねえ、今度どこかへ行きたいな。もうすぐ夏休みだし。ジェフは夏休みある?」


「ううん…一応はあるけど。僕は不定休だから、皆が休みのときに逆に忙しかったりするんだ。」


 ジェフは、株のトレーダーと弁護士をかけもちして働いている。


「ふーん…せっかく、いろいろ考えてたのに。」


「でも良いの?」


「ん?」


「だって、ほら。僕の方は映像だろう。」


「…そうだけど。ほら。携帯用のブレインがあるでしょ。それを、あちこちに持っていくから。プールとか、キャンプとか、あとは海へ釣りにも行きたいし。」


 エミリーは顔を赤らめて笑う。予定を考えているだけで、興奮してくるからだ。


「いいよ。君がそれで良いなら。仕事中かもしれないけど、僕の方も携帯のブレインを持っていって、流しておくよ。映像を」


 それを聞き、エミリーはおかしそうに笑う。


「そうなると僕は、水槽の中で泳ぐ魚みたいだね。きみが、僕のことを携帯してくれればいい」


「そうね」


 それから、エミリーはジェフに告げる。部活動のこと、友人のこと、テストのこと、同じようにブレインで恋人ができた友人のことなど。


 午後五時になり、母親が声を荒げるのでエミリーは仕方なく「はあい」と言い、ジェフに別れを告げる。


「もう行くの?」


「うん。だって、もう三回も呼ばれてるから。」


「寂しいなぁ。

 エミリー、この間のこと考えておいてくれた?」


「なに?」


「だからそのお…

 まあいいや。ああ、君の顔と声を、携帯の方に保存して、自動で話すようにしておきたいな。出来ればいいのに。」


「…」


「じゃあね。また」


「うん。また明日」


 エミリーは電源を落とし、それから腕を組んで考え込む。

 じつはエミリーの住んでいるラプラス星ではもうとっくに、携帯用個人再生機は普及していて、しかもあらゆる時代の人間を呼び出すことが出来るようになっていた。例えばお盆やお正月の時なんかは、各家族の歴代の先祖をそれぞれの再生機に呼び出し、それぞれで話をさせるために、とても騒がしくなる。

 エミリーもはじめの頃はそれを見ておかしくなった。

 こういったことは例外もあるが、通常は前の時代に対しては流失不可の情報になっている。ジェフはエミリーよりも、一千年ほど前の生まれだった。


 エミリーは階下へ行くと夕食を食べ、シャワーを浴びる。

 ジェフの申し出はいつもの通りだった。裸を見せろだの、足の指を見せろだの、とにかく次の段階に行きたくて仕方がないのだ。


 よく考えてみれば、おかしな事だと思う。エミリーにとってジェフはひいひいひいおじいちゃんよりもずっと昔に生まれた青年なのだ。このラプラス星での通信も皆がごく当然のようにブレインを開発された当初に遡って行われている。科学の発展、文化の拡充にこのブレインははじめ大いに活躍し、それから一般家庭に普及すると学力も飛躍的に伸びたのである。

 例えば、この星においても一千億年も前に遡れば、この星にはエミリーたちのような人間などおらず、恐竜や、チンパンジーのような動物がごった返していた。その映像も、一秒とかからずに本物に近い再現度で通信することが出来る。

 エミリーはふと、考えてみる。もし、ジェフが恐竜だったとしたら…。

 もしジェフがことばも文化も持たない恐竜で、エミリーが恐竜とブレインで通信しなければならないとしたら自身はどう感じるのだろう、とエミリーは思った。エミリーは再びブレインに入りこみ、一千億年前にいた恐竜の映像を探し出す。目の前のパノラマに、いろいろなくすんだ色の恐竜が映し出され、エミリーはそれを見て頬を紅潮させながら笑いころげた。それがおさまればふと姿勢を戻し、じっと恐竜を見た後で、ペイントツールを起動させ、恐竜の一匹を写生し始める。


 翌日から、エミリーの部屋はテスト勉強の道具ではなくクレヨンや絵の具、スケッチブックの紙が散乱する、まるで即席の美術館かアトリエのような状態になっていた。エミリーが描くのははじめ肉食や草食の恐竜から始まり、いまは九百億年前にいたという動物の写生に夢中になっている。






 テストが終わり、今度はバスケットボールの授業と試験が続く日々である。エミリーはボールを追いかけながら、ふと同級生のラダンが目に入り、声を休憩中にかけてみる。


「ねえ、最近、どお?」


「ん…どおって?」


「ブレイン通信のなかま。あと、彼氏とはどう?」

 エミリーは汗を拭きながら、笑顔でラダンに問いかける。ショートカットのラダンは首をかしげ、

「んーんんー。そうね。まあまあ。けど…ハア。」

 とつぶやくように言う。エミリーは、同志を得たように感じてほくそ笑む。


 放課後、エミリーとラダンは一緒に下校しているところだった。


「ねえ。やっぱり、いくら好きって言っても、電源を落としたあとになればひいひいひいおじいちゃんと一緒にいるんだなあっていう、変な感慨みたいのはある。」


 ラダンは足元にある小石を蹴り飛ばしながら言う。ラダンの恋人は、ラプラス星の現代よりも五百年前の時代の人間だった。


「それよりも、絶対に会えないでしょう。」


「うん」


「携帯通話機は未だ、持たせてもらえないし」


「うん」


「ねえ」


「なに?」


「あったじゃない。転送機みたいの。あれってまだ、発明されないの?」


「…わたしもそれ、考えてたんだけど、あれってすごく難しいことみたいよ。人を別の場所に送るのって、通信して交流するのとはわけが違うって。」


「どう違うのよ」


「さあ。とにかくエジソンが二人くらいとアインシュタインが三人くらいはいないと時代はがらっと変わらないみたいね」


「ふーん。それって、誰かが言ってたの?」


「物理の先生。転送機はね、物質を送ることはできるけど、人間の場合は転送させてしまうと、その時にはもう本人じゃなくなってるのよ。H2OはH2Oの替えがきくのに…ほら。携帯個人再生機があるじゃない。」


「うん」


「あれみたいに、本人だけど別ものみたいになっちゃうって。物理の先生が言ってた。すべて原子的レベルで同一人物だとしても、記憶や、感覚の部分には入り込めない。いや、1+1=2.xxx…になるのが「その人」だって、人は人のことを認識してるのね。

 記憶っていうのは、人類の奇跡の部分だから」


「うーん。そうなのか。」エミリーは答え、自分の、ずり下がったバッグを背負い直す。


「うん。あれ、ちょっと面白いけど、ゾッともするじゃない。…その。個人再生機。エミリーは使ったことある?」


「もちろん」


「本人が皆本人だと思っていて、当たり前に存在させられてるみたいに互いにくっちゃべってて。」


 エミリーは個人再生機での今年のお正月を思い浮かべてみる。たしかに、あれがショーでないとすれば混沌ともいえる風景だったと思う。


「ラダン。わたしさあ、前個人再生機を教育したことがあるのよ」


「教育…?どうやって??」


「だからね、あなたはいまここにいて、こうやって対話できてるけど、本当は◯年の生まれで、◯をしてた人で、もう死んでしまってて…って説明してみたの。おばあちゃんに、道教えるみたいに、親切にね」


「で?どうなったの??」


「そうしたら、『へえ!そうなんですか!びっくりしました。そういうことだったんですね!』ですって。

 その後わたしが教えたこと込みで周りと話すようになったわ…」


 ラダンーは笑い声を上げる。エミリーも一瞬、会話がセーブが効かなくなりそうな不安を覚える。


「あの人たち、葛藤も躊躇もないのよね。そこが、やっぱりへん。私たちも転送機で転送してしまったら、ごく当然のようにそこに居座るようになるのかしら。ああやっぱりいやだ、そんなの…」


「そうよね。わたしもね、ブレインで調べればジェフがどういう生涯を送ったかわたしはわかるんだわって考えるんだけど、結局そのボタンは押せないのよね」


「分かるう…」

 ラダンがエミリーのことを懇願するような顔で見、それから二人で笑う。先ほどから、二人の家へと続く共通の道が終るところで、ラダンもエミリーも話し込みながら同じ場所に二人は突っ立っている。人が流れていくのを何度も見守る。二人の後ろ姿は制服を着て歩いているやせっぽちの高校生に見え、皆が皆同じようなおかしなことに胸を膨らませているのらしい。


「怖いことばっかり増えてくのね。へんよね。何もかも調べれば手の届くところにありそうなのに、一体どうしたいんだろうって考えてて、考え過ぎてわたし変なことばかりしてしまってるわ。」


 エミリーは、部屋の中にたくさん置いてある恐竜の絵のひとつを思い出し、あれをジェフに見せたとき、それはどんなふうに伝わるんだろうか、とふと考える。




 ☆




 夏休みに入り、エミリーは仲良くしている従姉妹のレナから携帯通信機を二日だけ貸してもらえることになった。もちろん簡単なことだったわけではない。ジェフと約束したその日から、レナの家へ定期的に通い、子どもの面倒を見たり、宿題を教えてやったり、色々なアルバイトを請け負った成果だった。

 エミリーはバスに乗り込み、レナから今朝借りたばかりの、真四角のガラス片にしか見えない携帯通信機を指でタッチする。


 そこに個人番号を入れるとしばらくして映像が映し出される。


「ハーイ」


 エミリーがいうと、ジェフも「ハーイ」と微笑む。実をいうと二人とも昨日会ったばかりである。昨日ははじめての旅行に興奮しどおしだったエミリーの話が止まらなかったのだ。ジェフはいつもよりも小さな画面の中で寝不足の目をこすりながら「いまから仕事だから、ここから空白の部屋が映しっぱなしになるよ。それでもいい?」と言う。


 エミリーは「うん、いいよ。言ったじゃない」といい、短パンからはみ出た足を椅子から投げ出し、ぶんぶんと振っている。


「よいしょ。これでいいかな?見える?」


「うん。見える」


「ちょっと緊張するなあ。ブレインの外でエミリーと会うのってはじめてだからかな」


「うふふふふ」


「じゃあね」


 ジェフは言い、本当に画面から居なくなる。画面にはジェフの事務所の中にある机と、それから窓が半分。壁と、そこに張り付けてあるコルクボードにたくさんのレシート状になったメモがあるのが見えている。

 エミリー達学生はこれから長期の休暇をもてあましているというのに、ジェフの方は依頼人との会議や本格的な詰めなどでしばらく忙しいらしい。

 エミリーは買ってきたばかりの飲み物の蓋を指で開けて、はやばやと動き出したバスの中でそれを飲み下した。

 これから向かう場所は昔一度行ったきりのビーチで、海のそばにホテルがいくつか建っているところだった。エミリーはバスで流れている音楽に耳を傾けて、携帯通話機の電源を付けたままでカバンのポケットへ入れた。




 ホテルにつき、部屋係の案内でエミリーはシングルの客室の中へ入る。ホテルは全室オーシャンビューと書いてあったけれど、安い部屋なので窓には隣のホテルのビルが三分の一ほどかかって見えている。


 ふう、とため息をついてエミリーは荷物をおろす。それからかついできたボストンバッグの中から洗面道具、着替えなどを取り出し、水着も一緒に取り出してベッドの上へ置く。

 海へ出るころには日が昇りきっていて、エミリーは砂浜に入る前にスニーカーからサンダルに履き替え、それから従姉妹のレナから借りている手のひらほどのサイズの携帯通信機を入れた小さなショルダーバッグを手で押さえて確認する。

 世間一般の夏休みがはじまるのはまだ一週間ほど先で、ビーチにいるのは私立の高校に通っているエミリーや、地元の人間、それからサーファーと思われる、髪の毛を長く垂らしているような男の人たちが数人、視界に入るくらいだった。

 エミリーは何も置かれていない、誰も足をふみいれていないビーチの波が打ちあがってくる場所から五メートルほど離れた場所に敷物を引き、そこにタオルなどの荷物が入ったトートバッグを置く。ショルダーバッグから携帯通信機を取り出して再生しっぱなしの画面を見てみるが、依然としてそこにはジェフの事務所の部屋が映しだされているだけだった。

 エミリーはすぐにそれをバッグの上へ置き、うずうずする気分を抑えきれずに立ち上がり、海の方へと走ってゆく。



 しばらくして戻ってくると、風が舞い上がらせたのか、敷物の上にビーチのクリーム色の砂がたくさん降り積もっている。エミリーは腰を下ろしてパンパンとそれを手で払いのけ、それから砂まみれになっている携帯通信機の画面に、ジェフの顔が映し出されているのを発見し、それを持ち上げて再び手で砂をはらう。


「ハーイ」


 ジェフが言い、それはちょうどエミリーが画面へこびりついた砂を息を吹きかけて飛ばそうとしているときだった。


「ハーイ」


「やっと仕事が落ち着いたよ。その様子だと、もうそっちは着いたみたいだね」


「二時間前についたのよ。もう30分は泳いで来た」


「そうか。こっちはやっと話がまとまってきたよ。」


「ふうん」

 エミリーは答え、それから敷物の上に腰をおろす。


「楽しくないの?」


「ううん。いつもの通りだよ。」


「ふーん。・・・君はそっちで楽しんでくれていていいよ。」


「うん」


「忙しいの?」


「そうだよ。言っただろ。」ジェフは画面越しに微笑む。


「ふーん…」


「まあ、気にしないで楽しんでいてよ。僕も楽しみにしているから。」


「うん」


「…いまは君から見たら僕も、虫かごに入っているカブトムシみたいに見えているかもしれないけど、僕から見たらエミリー、君も、アルバムの中にいる小さい女の子みたいに見えているよ。・・・さあ、書類をまとめなきゃ。このままにしていていい?」


「うん」エミリーは笑い、ジェフが仕事のデスクの上でコーヒーを飲むのを見て、いい考えを思いつく。


 エミリーは先ほどこの海岸へ来るまでに見かけた大手チェーンのコーヒーショップへとアイスコーヒーを買いに行き、それを片手に持ってふたたび敷物を敷いた場所へと帰ってくる。

 ジェフの顔が半分くらい見えている携帯通信機を持ちながら、エミリーは海が見えるような位置に座りなおす。それからわざと、ジェフに見えるようにアイスコーヒーのストローを口に入れた。

 数分後、それにやっと気づいたジェフが微笑み、自分の持っているコーヒーのカップを画面へと近づけて、それからそれを飲みくだす。エミリーは笑い声をあげる。


 夜になればエミリーはたった一人で疲れていて、シャワーを浴び終わり、ベッドの上に腰かけているだけで自然とまぶたの重みが感じられてくるくらいだった。部屋備え付けの棚の上に100円ショップで買ったスタンドで立てかけてある携帯通信機の方を見てみると、ジェフの部屋が映し出されたままだ。「また、不在なの?」エミリーが呟き、自分もシャワーへ入っていたというのに腹を立てながら通信機の場所へと近づいていく。

 覗き込んでみるが、やはりジェフの姿はない。(もしかしたらごはんを作っているのかもね。自炊してるって前に言っていたし)エミリーはそう思い、髪の毛を拭きながらテレビのスイッチを入れる。

 テレビにはいつもの通り、ウイルスや汚染の状況が、全国マップや旅行先なども含めて示されており、アナウンサーが危機感をおびた口調でそれを説明している。エミリーはリモコンを片手にチャンネルを変えてみるが、普段は見ていないドラマやバラエティばかりで、またニュースへ戻して天気予報に変わった画面を眺めている。

 時刻を見てみるとまだ7時を過ぎたばかりだ。エミリーも夕方にサンドイッチを食べたくらいで、けれどまだお腹は空いていない。エミリーは髪にドライヤーを掛けると服を着替えて、再び携帯通信機を覗き込みジェフが居ないのを確認してから、外へと出かけてゆく。

 こうしている間、いったいジェフは何をしているんだろう。エミリーはとぼとぼと歩きながらふと考えてみる。実際の年齢が数えきれないくらいに違うのは事実だけれど、接触したタイミングではかるとエミリーは16歳、ジェフは25歳だ。ジェフは仕事もたくさん抱えていて、きっとエミリーがこうしている間や普段学校へ行っている最中にも当たり前に同僚とも食事へ行ったりもするし、女性と会ったりもするのだろう。そう考えると自分がしていることが子供じみた行いに思えてきて、急に寂しく思えてきたのだった。


 ホテルの部屋へ戻り、エミリーはいつものようにできるだけ時間をかけて手を消毒する。この町は海が近く一年中あたたかいために明るい夜の街にはまだ子供がボールを蹴って遊んでいたりした。エミリーもつい、ラフな格好でサンダルを履いたままで行ったので、風呂場で念入りに足を洗う。

 それから携帯通信機を覗き込むと、先ほどまで無人だった画面の中にはジェフが居る。やはり食事をしているところらしい。


「ハーイ」エミリーが言うとジェフが「ハーイ。今日4回目だね」と応える。


「楽しかった?海は。途中で呼び出しが入っちゃったけど」


「うん。楽しかった。あのあと、ずうっと泳いでたの」


「それはよかった。」ジェフは微笑む。

 エミリーも口角を上げて笑い顔を作り、それから買ってきた食事の蓋を開けようとする。


「仕事が忙しくって」


「うん。別にいいの。」


「そう?」


「だって、言い出したのわたしだし。それに、ずうっと、画面の中に居たとしたら、それはそれで怖いじゃない」


「それはそうだ」

 ジェフは言い、小さく笑う。


 エミリーはそれを見たままであたたかいパスタを口に入れる。

「楽しい?ジェフは。はやく、ブレインの中で会いたいって思う?」


「え?」


「うーんと。その・・・だから。旅行なんてしたいと思ってるのかなあって。ふと思ったの。わたしはこうやっていろんなところに行ったり、泳いだりしているけど。」


「なんだよ今更」


「だって、そうでしょう。きっと、こんなふうに会話していても・・・わたしは高校生で、あなたは社会人じゃない。つい、携帯通信機を使えるってことが、妙案だと思っちゃったけれど、それって、あなたからしたら普通のことだったのよね。それに、男だし。ブレインの中でのほうが楽しいことがあるのかなあって、思ったの」


「まあ、そうだけど・・・いや、そうじゃないよ。エミリー、僕たち付き合ってるんだろう。」


「まあね」


「おいおい。」


 エミリーは黙り込む。


「もしかして機嫌悪くなった?あのさあ、・・・・君には言ってなかったけど、僕は一度結婚に失敗してるんだ」


「・・・・・・」


「で、思ったんだけど、必ずしも、そのお・・そういうことだけをしたいわけじゃないよ。ブレインの中で会うのは楽しいし、あれは多分、麻薬と同じような効果があるんだと思う。頭の中で感じる感覚を増幅したり、コミュニケーションの効果を高めたり。そうすることでいろいろな知識が活性化されて来たね。発明も増えたし。ブレインのすごいところはブレイン自体じゃなく、人が人の脳の使い方を完璧に理解したところだって知ってる?」


「知ってるわ」


「星同士の交流も、いろいろな前段階を排してしまって、個人で結びつくことができるようになった。批判も、問題も多いけれど、誰もがこんなにうまくいくとは思わなかったって、それが今のところの結論だね。麻薬よりも、原爆よりも、リスクが少ない。だって自分の能力を使っているだけだから。まあそれはいいとして・・・皆が使ってるよ。職場の同僚だってそうだし、仕事をした社長さんだって、地方に恋人がいて、ブレインなしじゃいられないみたいだよ。」



「けどそういう場合、時代も同じなのよね」


「それを言ったらおしまいだろ。きみ、言ったらいけないことってわかってる?」


「うーん」


「僕もいろんな人と話したり、交流してきたりしたけど、エミリー、やっぱりね、こういうのは相性だと思うんだ」


「そう?」


「うん。そうだよ。ブレインの中でもエミリーと会うのが一番僕は楽しい。君はまだ、そりゃあ子供っぽいけど・・・でも、皆とはちがう。」


「・・・・・・・」


「なんていえばいいのかな?なんていえばわかってくれるんだろう。うーん。君のイメージって、うーんそうだなあ。あの、お菓子の綿菓子みたいな感じがするな。」


「わ、た、が、し???」


「うん。知らない?」


「知らない・・・」


「そりゃあ驚きだ。」


「おいしいの?」


「おいしいっていうか、フォルムが・・・まあいいや。いや、そうじゃなくって、君と会ったときの感じね。ああ、そうだ。この間シーエムでやっていた物質転送機。あれがもし発売されたら、エミリーに送ってやるよ。僕がそういう目で君のことを見てるって」


「なにそれ!」

 エミリーは大きな声をあげる。それからつい、二人で笑ってしまう。


「・・・でも、ジェフのところでは物質転送機がもう個人向けに発売されるのね。すごい。」


「まだ、実験の段階だと思うよ。はじめに出たばかりの、あのバカでかいブレインのような感じだろう」


 ああ、と言いエミリーは笑う。旧式のブレインが出たころは主に国家間での交流と軍事用でしか使われておらず、ものものしい存在感があったという。エミリーは雑誌で見たまるで戦車のようなフォルムのブレインを思い出す。


「・・・僕も、どうしようもなくなったらそれに乗って、・・・エミリーのところまで行くよ。」


 ジェフは画面の中で微笑むので、エミリーも笑顔を返してみる。




 なんてことだ、とエミリーは眠るため、携帯通信機の電源を切るときに思った。

 ジェフとのさっきの会話でふと感じたものは、お互いの場所へと通じる糸口のようなものと同じかたちのようでいて、角度を変えてみればそれはまったく違う意味のように思えて来る。ジェフも、エミリーも、お互いのことを愛してはいるけれど、でもそれとははかりにかけられないほどに自分たちの生活や家族のこともまた大切に感じているのだった。

(どうしようもなくなったら・・・)エミリーは先ほどジェフが言った言葉を思い出してみる。それは本来ならば愛の告白でもある筈だったのに、エミリーはジェフがもう既に死んでしまっている戦闘員であることに気付いたような気持ちになってしまったのである。

 エミリーは目をつぶった。それから考えてみる。どうしようもなくなったジェフが、物質転送機の力でこちらにやってくる。そして毎日、毎日エミリーに向かって「ハーイ」と声をあげ、当然のように話しかけてくる姿を。いまはまだそれでも愛せるのだろうと思う。ジェフが言っていたことだって嘘じゃないだろう。けど自分の中にも、ジェフが言うようにジェフに恋焦がれていたいという欲望があり、ブレインの中でも、外でもそれを保ち続けていたいのだと気づいてしまった今、もしかするとそれが消えてしまえば、自分達こそが虫かごに入れられた虫のようにひからびてしまうのかもしれない。

 そして毎日エミリーに向かって微笑みかえてくるジェフの顔さえも、あの滑稽な個人再生機に映し出された親族と同じような感触に思えて来るのだろうか、そう考え、エミリーは自分の部屋のクローゼットに置かれたままになっている服やぬいぐるみとジェフの姿をあたまの中で一緒に並べてみる。


 常夜灯がうっすらと点くベッドの上でエミリーは目をつぶり、そうすると途端に睡魔が下りて来た。騒がしかった部屋の音源をすべて切ってしまうと、このホテルを囲んでいる海の波が定期的におしよせる音が聞こえてきて、ここへ来てからは自分のこころがいつもよりもずっと素直になっているように思えてくる。いつもならば考えてはおれないいろいろな感情が湧き、混ざりあい、ついエミリーは涙をこぼしてしまったのである。


 翌日起きてからすぐ、エミリーは頭の上に置いてある携帯通信機をみる。電源が入りっぱなしのそれにはジェフの部屋が映し出されている。

 しばらくベッドの上でうとうととしながらエミリーはそれを眺める。するとそこに、スーツを着たジェフの姿が映し出されるが、すぐに素通りしてまた画面から消えてしまう。

 エミリーはそれを眺めたままベッドの上でタオルケットを顔の下まで引きずり上げ、もう一度ジェフが出てくるのを眺める。ジェフは行ったりきたりを繰り返し、ようやく、画面の中にエミリーがいることに気がついたようでこちらを覗き込む。


「おはよう」


「おはよう」

 エミリーが答える。

「今日はどこかへ行くの?」ジェフが尋ねる。


「うん」


「どこ?」


「今日は晴れたから、遊覧船のとこまで歩いて行くつもり。乗れそうなら乗ってみようと思う」


「ふーん。なるほど。僕は、今日は午前は忙しいんだけど、昼前からは少し時間があるよ。お昼は一緒に食べられるかも。」


「やったあ。」


「うん。携帯通信機きちんと充電して行くんだよ」


「うん」


 ジェフはまた画面から消え、仕事の支度をしているようだ。

 エミリーは三十分ほどベッドの中で目を開けたまま横になっていたが、しばらくして起き上がり、洗面所の方へと歩いていく。

 朝食のみ付いているホテルの、パンと目玉焼きを食べ終わったエミリーは、ニュースで今日は気温が上がるので熱中症に注意、とアナウンサーが説明するのを聞きながら、歯ブラシをしている。

 もうジェフは一時間ほど前に出社したので、通信機はジェフの鞄の中身がブラウンがかった物置のように映し出されている。

 こちらからしたら糸電話のようだけれど、向こうからしたらこうなればエミリーはまさに今はアルバムの中の一枚の写真でしかないのだ。

 エミリーは持ってきた衣服の中からなるべく涼しげな格好へ着替え、それから携帯通信機の充電を確かめると、こまごまとした荷物をショルダーバックへと入れ、ブレインでチェックしてコピーしておいた遊覧船の出発時刻と場所を確認する。(ちょうどお昼前ね。)

 エミリーは確認し、その前にふたたび海で泳げそうか時間を計算してみる。



 遊覧船の営業が本格的に忙しくなるのはまだ二週間ほど先のようで、今は日に二度しか出航していなかった。エミリーが乗り込むときは一人きりで、あと乗車しているのは老夫婦が二組と、一人旅のような若者が数人、あとはエミリーくらいだった。

 エミリーは席の一つに腰掛け、荷物を椅子に置く。

 テーブルは使い古されてはいるけれど丁寧に掃除をされているのか、ぴかぴかに光りながらも、へりには年季の入ったプラスチックに出る黄色がかった色が染みついている。

 エミリーはテーブルの上へと携帯通信機を出す。

 海から上がってしばらくしても思ったが、今日はいつもよりも大分気温が高い。遊覧船でも、日が差し込んでくる方角の席はフライパンの上のように熱くなっていたから、エミリーが選んだのは一番端の、壁に挟まれて日陰になっている一角だった。

(あら。)

 気づけば、携帯通信機の充電は残り15%を切っている。

(大変。)それから、あれよあれよという間に電池が減り、エミリーの目の前で真っ暗になってしまう。

「やばい。充電はきちんとしてきたのに。」

 エミリーはあたりを見回し、充電コーナーがないか見回してみる。仕方なくショルダーバックを持って立ち上がり、遊覧船の中を散策しにゆく。


 充電コーナーはここの船には設置されておらず、充電キットが料理も買うことの出来るカウンターで無料で貸し出しされているようだった。エミリーはそれを受け取ると、ふたたび席に戻って、携帯通信機を取り出して充電キットを差し込む。


 時計を見るともう昼の一時を過ぎていて、エミリーはお腹が空いて来ていた。充電がゼロから立ち上がるのにはなかなか時間がかかるらしく、大分時間が経過してしまっていた。

 遊覧船の中にいる夫婦たちはとっくに食事を済ませててしまったようで、他の人たちも外へ出て写真を取ったり、リクライニングの椅子に座って外を眺めているみたいだ。エミリーのような学生は見当たらない。いったい自分は何をしに来ていると思われているだろうとふと考える。老夫婦たちは思い出づくり。それから、若い人たちは岐路の途中。

 やっと映し出されたころには、画面はジェフの事務所に切り替わっている。

 目の前にはジェフ。忙しそうに書類を整理しているのでなかなか話しかけにくい。


「ジェフ」


「あっ。エミリー。」


「ごめん、充電切れちゃって。」


「大丈夫だよ。いや、こっちは大丈夫なんだけど…ごめん。エミリー・・・今日は一緒に昼ごはん食べられないかもしれない」


「えっ。そうなの」


「うん。…ごめん。大丈夫?充電は」


「うん、いま、充電キット借りて充電中だよ。びっくりした。10を切った後の早さときたら…」


「まあ、そういうものだよ。僕も携帯用の充電器は二台持ってるし…

 あ、ごめん、今もう外出るわ。また後でね」


 えーっ、とエミリーが心の中で声を上げるも、ジェフは画面の中から消えてしまう。仕事場へ携帯通信機を持っていくのもままならないらしく、画面はジェフのいないその場所を映し出したままだ。会議だろうか。

 エミリーがため息をつき画面から目をあげると、外には海が眩しいくらいに光を反射させてうねっている。

 天気は良いけれど、スコールもあるので油断は出来ない。

 しかし、どうしたもんかとエミリーは思う。画面には同じ場所が永遠のように映し出されていて、タッチすれば何か動くのじゃないのかと思いエミリーは何度か画面をタッチする。そうすると水の中に石が飛び込んだときのような携帯通信機お決まりの待機中の波紋がうまれて、それが画面の中で大きく広がってゆく。最新版のではないひとつ前の携帯通信機にはこういったジョークのような機能がいくつかついているのだ。

(あーあ。結局お昼は一人で食べるのね)

 エミリーは、バタバタと忙しそうなジェフの生活を考えてみる。


(じゃあわたしはいったいいま何なの?)


 エミリーは、カウンターで購入したハンバーガーの包みを開けながら考える。何も映し出されていない携帯通信機の印象はエミリーの失望感もあってか遺影さながらだった。この中にいったい、何パーセントほどのジェフの意思があるのだろうか。

 エミリーはそれからジェフが戻るまで、自分が五十ほどは歳を取ったかのように考えてみる。そうなるとたぶんこれは弔いのための旅行だったのだ。エミリーは、わたしはもう結婚も出産も子育ても終えたあとのシングルのおばあさんなんだわ、と思う。

 とにかくエミリーにとって、それほどまでにジェフが帰ってくるまでの時間は長く感じられたのである。






 家へ戻ったエミリーは自分の部屋に居た。机の上には返却されたテストの答案と、それから何故か少し前まで夢中になっていた恐竜の落書きがたくさん散らばっている。エミリーはそれをひとつひとつ集めてクリップで止め、それから本棚の隙間へとしまい込んだ。

 今日はこんなことをしている場合ではなかった。テストで三つも赤点を取ってしまった今、再テストへ向けて猛勉強しなければ、部活も休まなければならなくなるし、それに、母親からブレインを使うことも当分の間禁止されてしまうだろう。

(はあ・・・)

 エミリーはため息をつく。数学や社会はすいすいあたまに入ってくるのに、語学だけが一年生の時から大の苦手だったエミリーは、教師の言っていることの半分くらいしか理解できず、自分のやりかたに捻じ曲げていろいろなことをやってしまう。そのために同級生の誰よりも理解が遅かった。一度苦手意識がついてしまうと、ばん回しようという気も起らない。エミリーは久しぶりに手を付ける五冊の語学の教科書をぱらぱらとめくり、十数分それを繰り返したあとで、とりあえず何度もこれを読み直せばよいのだと思う。


 夜もふかまり、教科書を閉じてからエミリーはふと思いつきで個人再生機のしまってある家族の共用のクローゼットのところへ行く。だいたいこれは発売当時は爆発的なブームになったのだけれど、一部のマニア向けの進化を遂げたものを覗けば、だいぶブームも下火になってしまい、エミリーの家庭でも行事のときにその騒がしさを借りてパーティーを盛り上げるくらいの使い道しかない。

 エミリーは自分の部屋へと持ち帰ってきたそれの電源を入れ、自分の祖父を呼び出す。10年前に亡くなった祖父の顔が映し出されて、エミリーの顔を見ている。


「こんばんわ。おじいちゃん」


「エミリーか。」


「うん」


「お盆以来じゃな。さびしかったぞ」


「うん。ごめんね。これからはもっと再生するようにするね」


「・・・」


「おじいちゃん」


「うん」


「どう。再生機に入れられてしまったあとの世界は」


「ううん。そうじゃな。まあとにかく一年に三回ほどしか考える機会がないからな・・・頭が、こりかたまってしまって、一体何を聞かれているのか、わからん」


「体がなくなってしまってからも、おばあちゃんや私たちのことを覚えているの」


「そりゃあ、当たり前に覚えている。家族はわしの半分を占めているからな。」


 再生機と、人間の違いについて書かれていた教科書をエミリーは思い出す。再生機はまるきり本人の記憶と人格を持っている。ただ、それは映像として映し出され、食べたり飲んだりもしない。更新はされるけれど、身体を排してしまったあとの人間を、なぜか本当の人間は手放しで受け入れなかった。それがブームが下火になってしまった理由のひとつでもあった。

 エミリーも、こうやって時々再生されている祖母や祖父の姿を見ては、たたずまいを理解しようとするよりも、ただ自分の引き出したい言葉を話させるために使っているように思えてきて、会話の途中でぞっとすることがあった。


「おじいちゃんは、どうして結婚したの」


「けっ、こん・・・?一体、なんじゃ、そんなむかしのことなど忘れてしまったぞ。」


「ええ。おじいちゃん、若くして死んだのに?」


「そりゃあお前たちがこうやって再生をあまりしないからだろう。・・・ああ、いや。思い出した。おばあちゃんとはお見合い結婚だったからなあ。」


「ふうん。そうなんだ」


「あのな。エミリー。むかしは、今の時代とはまったく違うんじゃ。あの頃は文明も飛躍的に発達したが、同時に戦争も活発になった時期だったからなあ。一度、隣の国もまっさらな焼け野原になって・・・・」


「うん」


「で、なんだったかな」


「結婚の話」


「ああ。わしは、お見合い結婚だったから。」


「つまらなかったってこと?」


「まさか。結婚につまるもつまらないもない。

 ・・・・・・エミリー。お前は子供じゃ」


「・・・・どういうこと」

 ムッとしてエミリーが答える。


「わしたちのような時代はエミリーは体感として理解できんじゃろう。体感をなくしてしまったわしが言うのもあれじゃが。」


「ふふ」


「いや・・・あのころは文化も勉強も恋愛もなかった。ただ、流されるだけで生きる、それも生きているだけ、っていうことの意味が多分、おまえにはわからん」


「そりゃあ、そうかもしれないけど。・・・でも、だから、こうやってわざわざ聞いているんじゃない。おじいちゃんはコミュニケーションの段階を排して、わたしのことを怒りたいの」


「うん?いや・・・そうじゃない。

 ・・・・・ああ、そうじゃった。

 そういうことを感じているひまなんてなかったんじゃ。わしたちは、あの時代に生まれさせられて、戦争を見させられて、時代や欲に溺れさせられているだけだったんじゃ。そこにおばあちゃんがいて、お母さんが生まれて、エミリーが生まれて・・・」


「・・・・・」


「ああ、そうじゃな。ひとつひとつが、勝ち目のない賭け事のようなもんじゃった。おばあちゃんと結婚したのは、数少ないわしにとっての偶然じゃった。」


「ふうーん。偶然?」


「そうじゃ。必然なんてものはな、数多のものから選べるからいうんじゃ。

 ・・・・ブレインなんて言ったってな。いまは個人再生機も出てとうとつにそれが家庭仕様になってもわしには、わけがわからん」


 エミリーはつい、笑ってしまう。画面の中の祖父も笑う。「ぜいたくじゃ、って言いたくはないんじゃが、けどぜいたくじゃ。おまえたちは。わしのことを再生もしないし」


 エミリーはふと、手に持ったままの再生機のメモリを確認したくなる。祖父がこんなに駄々をこねるのを見たことがない。


(設定年齢が違っているのかしら?)


「わしを疑っているんじゃな、エミリー」再生機の側面をいじっているエミリーに祖父が声をかける。


「まさか」


「いや。・・・エミリーの考えて居ることはわかる。エミリーと会ったのは、いやわしが、再生機に閉じ込められてしまってから会ったのは今日で1031回目じゃ。もう、新しいエミリーの記憶が蓄積されている。エミリーの考えていることはわかる。前のおじいちゃんとは違っているかもしれないけれど・・・・」


「うん」


「結婚か。なぜそんなことが聞きたくなったんじゃ」


「ううんと、課題で。ご先祖様の家系図を作らなくちゃならなくて。それで、そのー・・・いろいろな背景をこうやっておじいちゃんに教えてもらっているのよ」


「ふうん」


「うん」


「まあ、結婚はいいものじゃぞ。」


「そうなの?」


「そうなの?じゃないだろう。いや・・・結婚が良かったのか、その後の時代がわしにとってよかったのかは、わしにはもうわからんが。あれじゃな。卵が先か鶏が先なのか、わしにはわからん。わしにはもう、おまえたちがいる世界しか思い出せないんじゃ。」


「ふうん・・・」


「現にこうやって再生されているわしは、エミリーやおまえの母さん、おばあさんがいるというとこから始まってしまってるからじゃな。うん」


「ふうん、わかった。」


「なにが」


「ありがとう。おじいちゃん、またね」


「ああ。・・・・・」



 エミリーは再生機の電源を切る。

 そうするとあまりにあっさりと画面は暗くなり、祖父の顔は消え去ってしまう。

 再生機は再生機以上の欲求もなければ懇願もできない。交流はできるけれどまるで切り取られた花のように、それ以上のことができない。おじいちゃんはエミリーをしかりつけることはできるけれど、エミリーの電源を切ることはできないので、時々おじいちゃんのことを弟のように感じてしまうことがある。




 ☆




 一週間後、ジェフと久しぶりにブレインの中で会う。ふたりはもうそのなかで10分以上は抱き合っていていた。しばらくしてジェフがやっと口を開いて「ありがとう」とつぶやくように言う。


「え?」


 エミリーがジェフの顔を見るとジェフはびっくりしたようである。

「ああ、・・・ごめん。そのお、ずっとこうしたいと思っていたから、つい。いや、ありがとうじゃないよな。こういうとき、なんていうのかな。きれいだよ、とかかな。」


「・・・・」


 エミリーもそれを聞き、なんとなく口ごもる。ジェフがエミリーの声にこんなに驚くとは思わなかったから、まるで二人の間に腫れ物がよこたわっているように感じている。

 もしこれがブレインの外で行われていることだったとしたら、お互いに服を脱ぎ始める場面なのかもしれないと思い、エミリーは同級生の顔と、そういう雰囲気でどうしたのかという話を思い出そうとする。でもここはブレインの中だ。一人がひとりずつでストリップしていくのかと一瞬エミリーは考える。


「あのさ、こうやってしているときが僕にとっては一番気持ちがいいよ。エミリーにはまだ早いかもしれないけど、あの、セッ・・・・・じゃなかった。そういう、やらしいことをしているときよりもずっと、あれだよ。」

 一瞬、ブレインの中身がシーンとなる。


「・・・・つまり、」


「わたがし??」


「え?ああ。そうそう。そういうこと。ああ、そうだった。二人の印象。

 あっそうだ。エミリーに知らせたいことがあったんだ」


「なに?」


「物質転送機が発売されるって言ったろう。あれ、僕予約できたんだ。あと一年くらいはかかると思うけど・・・・それで。」


「すごい」エミリーは顔をほころばせる。


「送ってあげるよ。こっちにある、いろいろなもの。たとえばわたがしみたいなものとかも。」


「やったあ。楽しみだわ。」


「そうだろう。」


「・・・・・」


「・・・・・」


「ジェフ・・・言わなければならないことがあるの。」


「ん?なに?」


「・・・わたし、テストで赤点を三つも取ってしまって。」


「え。」


「本当はこんなことをしてる場合じゃないの。部活もいまはお休みしているし、勉強しなきゃならないのよ。なんていったって一番苦手な語学だからね。一応、ほかの教科はそこそこできるの。でも語学だけはわたし、劣等生なの。ずうっと。いまも、こんなふうにしているところが母親にばれたら、しばらくブレインにロックかけられちゃうわ」


「なあんだ、そういうことか。大丈夫だよ。学生はいっぱい勉強しなければならないんだから。いいよ。しばらく会えないっていうことだよね。」


「うん。」


「どれくらい?」


「一週間くらい。」


「ふうん。まあいいよ。僕のことは気にしないで・・・僕も受験生の時は一日20時間くらいは勉強したからね」


「へえっ。すごい。ああ・・でもそうね。たしかに、うちのお父さんとは違うよね」

 エミリーは市役所の職員をしていた。毎日午後6時きっかりに家へと帰ってきて、毎日同じ量のビールを飲む。


「すごくないよ。もっとしているやつもいるし。それくらいしなければ弁護士にはなれないよ」


「ふーん。そうよね。・・・ごめんね。」


「いや、いいんだ。とにかく沢山勉強をして、良い子になりなさいよ」


 ジェフが微笑み、エミリーもつられて笑う。



 一週間、テストが終わり、エミリーは返された答案を見て胸をなで下ろす。部活動も再開し、授業がすべて終わったエミリーはシューズを履き替えながらも、ふとラダンのことを思い出す。ラダンはバドミントン部に所属しているから、体育館のもう半分の方の集団の中にいる。最近あまり話をしていないけれど、一体どうしているだろうと思う。

 最近なら授業をしている時も、家へ帰ってからも、エミリーのあたまのなかはジェフのことでいっぱいだった。ブレインは薬のような常習性はないけれど、エミリーにとってははじめての恋愛だったから無理もない。

 エミリーは次はどうやって携帯通信機を借りようかと考えている。まるでゲームに夢中になってしまった、従姉妹の子どものようである。



 今日からお盆に入るため、エミリーの家の中は慌ただしくその準備をしている。エミリーの母は親戚を迎えるための料理の支度で忙しいし、父は祭壇の準備、それから花や個人再生機のチェックに忙しい。一足先に電源を入れられた祖母は「あら」と言って、見慣れた祭壇をとりかこむ棚の上に座らせられ周りを見渡している。エミリーは気を利かせて、祖父の個人再生機の電源を入れる。

「やあ。」祖父は祖母に挨拶をし、祖母が微笑んで「ああ、体が硬くなっちゃったわ…」とつぶやく。

 エミリーは母に呼ばれて、台所へと行く。

 しばらくし、親戚や兄弟がはるばると集まってきて、家の中が騒がしくなる。エミリーも久しぶりに会う年の離れた兄や叔母さんとつもる話に夢中だった。そこへ母がやってきて「エミリー」と呼ぶ。


「なあに?」

 エミリーは応える。


「なにか、おじいちゃんがさっきからエミリー、エミリーって呼んでいるわ。どうしたのかしら。」


「ふうん…」


 エミリーはそちらの方へいくと、祖父がエミリーの顔を見て待っているようだった。

 大人しくそこに腰を下ろすと、祖父は満足したようでそのまま、人々が会話するのを見ている。去年のお盆は騒がしく百年代ごとのご先祖同士で話していたのに、祖父は今日はこうしていたいみたいだ。


(変わるのかしら…?再生機の方も。)

 エミリーは考える。


 例えば、会話した分だけ。コンピューターのような知識を得るのではなく、少しづつ目で追うものにそれが似て来る・・・。再生機のおじいちゃんはエミリーのやり方をなぜか少しずつ真似てみたくなっているのかもしれない、と思い、少しおかしくなった。




 ☆




 それからさらに半年、一年と時が経つ。エミリーとジェフは毎日のようにブレインの中で意思を交換し合っている。エミリーはあと二年すれば携帯通信機を買う許可が降りるので、それまでにお金を貯めるためアルバイトを始めていた。

 アルバイトのガソリンスタンドは毎日、忙しく、部活動とアルバイトを終えてから帰宅する頃には文字通りくたくたになっているのが常だった。


 エミリーは今日も、アルバイトから帰って来るなり洗面所へ向かう。それから、簡易ソープとして新しく発売されたジェルを手や顔、あたまへとぬりたくる。

 もう頭の中ではジェフのことでいっぱいだった。アルバイトをしている最中もそうで、18歳のエミリーは頭の中にいる26歳のジェフにいろいろなことを問いかけてみるから、片時も離れている感じがしなかった。エミリーのアルバイトしているスタンドには色々な人がやってくる。若い人、それから中年のおじさん。つっけんどんな人もいるけれど、エミリーに優しい声をかけて来る人も居る。

 アルバイトの女の子同士で噂している「イケている」常連さんなんかもいる。エミリーもそれに合わせて会話に加わるけれど、でもなんとなくロングヘアーが気に入らなかったり、話し方が鼻についたりして、(やっぱり、ジェフほどの人はいないわ。)と胸の中でかんじていた。


 エミリーは夕食もさっさと済ませて階段を上り、自分の部屋へといそぐ。ブレインの電源を入れ、ジェフが映し出されるのを待つ。もうすぐクリスマスのイベントがあるので、二人でそれをどう過ごすのか、早く計画を立てたい、と思いつつ、エミリーはだるくなって来る体のことも無視できなかった。


「ハーイ」


 ジェフが映し出されて、エミリーも「ハーイ」と応える。


「エミリー。ひさしぶり」


「ひさしぶりじゃないわ。昨日会ったし」


「そうだったっけ。」


「も〜。ボケたの?」

 エミリーはそう言って笑う。


 二人はいつも通りにそこでハグする。けれど今日はなんとなく、頭のなかががんがんと痛んで、ブレインに集中できない。


「どうしたの?エミリー。何か今日は、古毛布みたいな…」


「うーん。ごめん。今日、アルバイトもあって、とても疲れてるの。」


「ふうん。そうか。そうだよな。

 学生はたいへんだ。」


「そう?」


「そうだよ。一日5、6時間も勉強しなきゃいけないなんて、ああ、思い出したくないな」


「ええっ。この間、いちにちじゅう勉強してたようなこと言ってたじゃない。」


「うんそうだよ。学生の頃は当たり前にしてたけど、いまはとても出来ないな。えらいよ本当。」


「え〜。でもジェフは仕事してるじゃない。」


「ああ。でも仕事は、全部自分のためのゲームみたいなものだからね。エミリーは勉強のことそう思ってないだろ」


「うん」


「だろ。


 …よいニュースがあるよ」


「なに?どうしたの?」


「あのね、転送機が明後日くらいに手に入るんだ」


「え?一週間後後じゃなかったの?」


「そうだったんだけど、特別に手に入ることになったんだよ。びっくりした?」

 ジェフは微笑む。子どもが、ゲームを手に入れた時のような顔。エミリーもわくわくした。


「すごい。じゃあ、いろんなものを送ってもらえるようになるんだ。クリスマスも。ジェフ、何する?わたし、色々考えてるんだ。クリスマスだったら家で出来るから、携帯通信機がなくっても大丈夫よね。それに、転送機があったら…

 どんな感じなんだろう。どらえもんみたいな感じなのかな」


「どら・・・なに???」


「ああ、ごめん。こっちの、時代劇のこと」


「ふうん。でも、たしかにそうだった。クリスマスに間に合うな。エミリー、なにがほしい?」


「えっ。うーん。」


「なんでもいいよ。例えば、動物とかも送れるかも知れない」


「でもそれ…なにか…残酷よ。」


「だよな。うーん。どうしようか。」


「うーん、うーん、うーーーーん、」


「じゃあ、考えておいてよ。お菓子百キログラムでもよいから。とりあえず、届くまで一週間もあるしね」

 ジェフはほほえみ、エミリーも笑ってうなずく。


 それからしばらく二人とも黙っている。エミリーも、どうしたもんかと思う。せっかく会えたけれど、疲れていて、ジェフの顔を見るよりも今はなるべく早くベッドの上で横になりたいと感じ始めている自分がいる。



「・・・・それで、さあ。聞いてほしいんだ。」


「ん。」


「あの、ずっと考えてはいたんだけど、言い出すタイミングがなくって。」


「え、なに?」


「僕たちもう出会って一年半以上になるだろう」


「うん」


「…僕はエミリーのこと好きだよ。きみは?」


「え?好きだけど・・・なに?」


「もう旅行へも二度行ったし、それに、僕がきみの勉強を見てあげたりしたよね。毎日こうして会ってるし、携帯通信機を貸してくれた従姉妹のレナさんとも会って。

 あとは、この間、きみのお母さんとも会ったし」


 たしかにこの一年半で映像の中のジェフとは色々なことを共有してきた。エミリーはそういったことにかけては人一倍時間を費やしても苦にはならないタイプだったから、夏と、冬に一回ずつはレナに携帯通信機を借りて外出したし、ブレインの中にいろんな本や映画を持ち込んで二人で見たりもした。エミリーも、ジェフの生活を見てみたいと言うまえから、ジェフは自分の領域をエミリーに教えることを積極的にしていた。エミリーは男性のことをよく知らなかったから、それが普通のことなのだと思っている。


「う、うん。なに?一体」


「エミリーはさ、結婚とか考えたことあるのかな」


「けっこん・・・」


「僕はじつをいうとこのところ毎日のように考えているんだ。」


「結婚のことを?」


「うんそう。」


「え?ジェフが?ジェフとわたしが?」


「そうだよ。エミリーはびっくりする?」


「・・・だってわたしまだ、18だし」


「ふうん。なるほど。で。物質転送機では…法律上も、道徳上も、それから、市民感覚のうえでも何が送れないのか知ってる?」


「うん。それは、人間でしょう。」


「そうなんだけど、さあ・・・


 落ち着いて聞いてほしいんだ。」


「え。なに、なに。一体何なの?」


「いや、まあ…事件とかじゃないから…

 僕はそっちには行けないけど」


「…うん」


「けど、この生活をこっちと同じくらい、愛してるってことに気づいてさ。

 色々と、考えてたんだよ。一年以上の間。もし、これが遊びだったとしたら、はっきりいって時間の無駄だと思うし。僕はそういうの、何が楽しいのかよく知らないし。・・・エミリーはきっと、そんな先のことまでは考えていないと思うけど」


「…」


「それで、この間同僚と話している最中に思いついたんだよ。転送機は人間を送れないんだ。それは使用前と、使用後みたいに、まるきりかたちは同じだけれど、別物みたいになってしまうっていう理由で。僕はこの事、悲しいことじゃなく、人間っていう生き物の凄さだと思っている。」


「うん」


「僕が、同じ姿かたちの母親、父親がもう一組いたとしても決して生まれなかったみたいに。それって当たり前のことだけど、数学を習ってしまうと多くの人が分からなくなるってことだって、エミリーはわかる?」


 エミリーはうなずく。


「そう?僕はこのこと、甥に説明するのにすごく骨が折れたからなあ…あいつ、数学マニアだから。」


 ふふ、とエミリーは笑う。なんとなく、その中では二人ともが似ているような気がしている。


「で、思ったんだけど、…そのルールの中で、アレだったら、そのお。送れるんじゃないかなと思ったんだ。」


「あれ、って?」


「いや、言いにくいなあ〜!」


「は?、、、」


「こういうのって、冗談ついでにいうものな気がしてきた。いや、ああ…科学の発展ってその都度、大変だったんだろうなあって思うよ。【コイツ、ばかなんじゃないか?!】って皆、きっと初めは思われていたんだろうな」


「だから、何なの…ジェフ、今日あなたへんよ。」


 そうすると、ブレインの中でジェフがエミリーに耳打ちをする。

 エミリーは真っ赤になって口を押えるが、ジェフはそれを見たまま確信のような笑みを浮かべている。


「エミリー、今はわかってくれなくてもいいけど、でも考えてみてほしいな。」


 エミリーはうなづき、ブレインの電源が落ちる音を聞く。




 エミリーは週末、母親とショッピングモールへと買い物をしに来ている。母が食糧品売り場へ行っている最中、エミリーはすこしだけぶらぶらしてくると言って、いろいろな店が立ち並ぶ場所を歩いてゆく。

 アクセサリーや本屋、それから服。ベビー衣料の店なんかもあり、エミリーはつい、そのウインドウの前で足を止める。

(こんな、ちっちゃいのお????)


 そこにあるのは、エミリーが小学生の頃に人形遊びをしていた時のもののようなサイズの手袋、それから靴下、シャツ、肌着なんかが並んでいる。「happy milk」という看板が店の上に掲げられていて、整然と並べられているレースや繊細な記事の子供服は裕福層を客層にしているのか、週末だというのにまばらな人の入りしかない。

 普段友達とここへ来るときや、母親と買い物に来るときなんかは、こんな店があることすら目に入らなかったとエミリーは思う。


 エミリーは、ジェフの耳打ちを思い出して、いま一度ぎょっとするような気持ちを思い出す。

 このラプラス星においても、男女の性教育についてはいまは9才になった時点で教育を受けることになっている。だからエミリーも、男女がどうやって愛し合い、それからそのあかしを残すのかもよく知っていた。

 けれどジェフの告白を聞くのはエミリーにとってはお互いの、まだふわふわしている状態の風船がはじけて消えてしまったときの衝撃のように耳の中に残った。


 何度考えてみても結婚についてはあまりぴんと来ない。けれど自分達がブレインの中で会い続けることの証がほしく、ジェフと生活を共有して行きたいというのはエミリーもずっと考え続けてきたことだったから、ジェフの考えをかろうじて理解できる気がした。

(現実的なのね…男の人って。ジェフも。)

 エミリーはしばらくhappy milkの店のまえでたたずみ、高そうなショウウインドウの中身とにらめっこしながら、腕を組んで考えている。


 ああ、そうだ、すべて現実なのだった。ブレインの外で行われていることも、ブレインの中で起きたことも。すべてが現実だから、そのたびに重くなり、エミリーの頭をこれほどまでに悩ませるのだろう。エミリーがして来たのはそれをもっと身になじませることで、それは楽しかった。けれどジェフのような現実的な考えはきっとこの先何十年やり取りしていたとしてもエミリーの方からは思い付かなかったのだろう。


 エミリーは、ジェフがエミリーよりもずっと早く、性急な結論を出していたことが急におかしくなり、その店の前に突っ立ったままでひとり、吹き出してしまう。




 ☆




 エミリーはいま、ラダンと会っている。学校から帰る途中の公園で、夕暮れ時にベンチで二人並んで座っている。

 話によるとラダンはもうすでに以前の恋人とブレインの中で交流していないみたいだった。


「ふーん」


 エミリーは相槌を打つ。


「やっぱり、見るものじゃないって思った。そうしてから、もう本当にまるっきり、それまで会ってた理由も、意味も、思い出せなくなっちゃったの。頭の中で、切り替わったのね。現実の威力ってすごいわ。」


 ラダンは、ブレインの中で会う五百年前の恋人の、十年先の未来を見てしまったのである。簡単なことだった。ブレインでそのことを口にすれば、あっという間にその結果が目の前に現れる。


「まさか、でも、よく分かったわね。わたしだったらわからないかもしれない。だって、画面の中でだけだったら、幾らでも嘘つけるじゃない。」


「まあ、ね。わたしも、嘘ついてないわけじゃないから。けどなんとなーく、やっぱり浮気ってわかるなぁって思った。それがまさか、三年後に家庭までできてるとは思いもしないけど…」


「ううううん。」


「はあ〜」


「こわい。」


「でも、別にもういいの。いまはもうブレインのフレンドのなかの一人だよ。きれいさっぱり。向こうはいまもまだ浮気していたいみたいだけど、何か、やっぱ今になると所帯を持ってるおじいちゃんにしか見えないのよね…」


「うううううん。」


「なによ」


「じつは…」





「えっ?」

 ラダンは口を抑えて一瞬、かたまる。それから、五秒ほど真顔でエミリーの顔をじろじろと眺めていたかと思うと、ハハハハハ!と大きな声を開けて笑い出す。

 エミリーは、あっけにとられてそれを見つめる。ラダンの爆笑は、それから一分ほど続いた。


「なんで、笑うのよ」


「ごめんごめん。いや、おかしかったわけじゃないの。何か、びっくりしちゃった。けどそれって、法律上は大丈夫なの?」


「うーん。ジェフが言うには、まだ法整備されてないから抜け穴だって言うのよね」


「あははははは!たしかに!」


「ちょっと…」


「いや、いや…ごめん。エミリーが真剣だから、ちょっと笑っちゃって…

 そうじゃないのよ…ふう。わたしもちょっと前だったら同じことで悩んでたのかなって、その、前の人のこととかも色んなこと思い出しちゃったからさ。」


「ふう〜ん」


「エミリーはどうなの?」


「…」


「はい、はい…分かりました。

 けど、リアルに考えて、ちょっとアレよね。去年ニュースでさんざん話題になった、不妊症のパンダを思いだすじゃない…」


「もう、やめてよ!」


「物理的に考えると、そういうことじゃない…すごいわね。ジェフっていう人。エミリーがそういうことするのも込みで、その」


「…」


「ふう。」


「…」


「大変なことなのね。たぶん…その。愛っていうのは。形にすると、なんて不格好なの。」

 ラダンはため息をつき、エミリーも待っていたかのように大きなため息をつく。








 エミリーは、ブレインの中で腕を組んで考えている。あれから、考えるためにジェフとは三日ほどあっていない。

 ラダンはいったいどういう気持ちで、自分の恋人の未来をたしかめる為のスイッチをとなえたのだろうとエミリーは思う。一瞬、見てしまおうかとも思うが、やはり口も手もさっぱり動かない。ブレインは待機モードになったまま、エミリーの思考を読み取り、海の景色や、恐竜、それからニュースの最中で見た新しい製品などを映し出している。

 自分は、いまのジェフが好きなのだ。エミリーは思う。いまエミリーのことを考え、エミリーに向かって話しかけているジェフにもう一度会いたいと思う。こういった気持ちや記憶は、他のものや、ラダンの恋人のと同じように変質するのだろうか。

 エミリーは首をふる。ジェフは、きっとそういうことさえ考えていない・・・きっと、考えないようにしている。ジェフは多分、ブレインの中で未来を見ていない。

(賭け、かあ)

 エミリーはつぶやき、その事を考えてみる。自分はトランプやゲームならしたことがあるけれど、ギャンブルや、人を使うゲームのようなことはしたことがなかった。だからかけが強いかどうかも分からない。けれどいま、ジェフを通して見てみれば、なぜか、はっきりと、世界のつくりが見渡せるような気がしていた。


 ジェフは、賭けようと思ったのかもしれない。エミリーという、ちっぽけな女なんかに。

 …未来は、いかようにも変えうると信じて。それからそれよりも、自分たちの愛の方が重いということを、…たとえばそれは、失敗したとしてもそれがもっとも自分にふさわしいと思えるゲームの終わりだとして、エミリーとともに乗ってしまおうと考えていた。


 そこまで考えて、エミリーはブレインの中から出てくる。それから、疲れた体をベッドに横たえ、目を閉じる。


 明日になれば、この間通信してから一週間が経つ。きっとジェフも、エミリーに手元に届いた転送機を見せたくてたまらないに違いない。そのことを考えるとエミリーは自然と微笑んでいた。







 ーーー十年後ーーー







 大きな市立の公園の中で、小さな男の子が水飲み場から子ども用のじょうろを持ったままで駆けていく。


「あーっ、もう。転ばないでよ!」


 まだ初夏だというのに今日は日差しが強く、男の子が帽子を脱いだまま放って行ったのを知り、母親の女性は声を荒げる。使っていたアルコールの消毒液をポケットへしまい、自身も手を拭こうとしてバッグの中のハンカチをさぐる。

 それからふと、ポケットに入っている携帯通信機の呼び出し音が鳴っているのに気がつく。画面を見ると着信が来ている。

 エミリーはそれを手に取り、発信者の名前を見て微笑む。


「ハーイ」


「ハーイ、エミリー」


「おはようジェフ」


 エミリーは携帯通信機の画面を顔の前で見つめたままで話しかける。これはエミリーにとっては二台目の通信機で、エミリーが昇進してからのボーナスで、最新式のを買ったとジェフに自慢していたものだった。

 通信機の声を聴きながらも公園を見渡せば、広い公園には自分のような母親たちが何人か、小さな子どもを見たり、抱っこしながらあちこちを歩き回っている。エミリーはそれを、いつも通りの休日の風景だと感じている。


 それからエミリーは、公園の端の方をまぶしそうに見ながら、


「いま、あなたの宝ものが、公園の砂場に水を撒きに行ったところよ」


 とジェフに告げる。







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君の胸にだかれたい 朝川渉 @watar_1210

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