33話「薔薇の海」
33話「薔薇の海」
花の香りがする。
花の香りを真似た香水ではない。少し草のような青っぽくも甘く神秘的な香り。
朝からそんな香りを感じられるなんて幸せだな。そんな風に思いながら、菊菜は二度寝をしようと寝返りをうとうとした。
けれど、体が動かない。体に重みを感じ菊菜はゆっくりと目を開けた。
すると、そこには大好きな人の寝顔があった。白い肌が布団から見え隠れしている。樹は昨日のまま寝てしまったのか裸のようだった。
彼の長い睫毛が艶めいて、うっすらと入り込む朝日を浴びてキラキラと光って見える。口元からは熟睡しているのか、微かな寝息が聞こえてくる。
「…………樹さんだ………」
そんな呟きが自然と口元からこぼれている。
彼の無防備な姿を見ながら、菊菜はある事を思った。
同じ朝を迎えた事は何度となくあった。
けれど、今回はちょっと違う。…………いや、全く違うのだ。
恋人からもっと近い関係になった。素肌を合わせ、いつもより深い深いキスをして、お互いを求めた。
樹は途中から時々敬語を使わなくなる事もあった。本人は気づいていないようだったが、菊菜はそれが嬉しく、そして愛おしくて、心の中で幸せだと感じていた。
「ん………菊菜………起きていましたか」
「おはよう」
「おはようございます」
そう言うと、樹は腕を持ち上げまた菊菜にキスを落とした。
寝たことで昨夜の熱は完璧に冷めたはずなのに、たった1つの事でまた熱が上がってきてしまう。
「……体は大丈夫ですか?」
「え、あ………うん。大丈夫………。その1つだけ恥ずかしいこと聞いてもいい?」
「恥ずかしいこと?」
「その………昨日の夜は、大丈夫だったかな?」
「大丈夫とは?」
菊菜は顔を真っ赤にしながら、彼の胸に顔を隠した。
昨日お互いに裸を見せたというのに、やはりまだ照れてしまうのだ。きっとこれには慣れるはずもないだろうな、と菊菜は思った。
けれど、どうしても気になるので菊菜は小さな声で彼に問い掛けた。
「…………その、私、久しぶりだったし……そんなに経験もないから……その樹さんは……ちゃんと気持ちよかったのかなって………」
最後の言葉はどんどん小さくなり、聞こえていなかったかもしれない。けれど、それでもいいかと思うほど、菊菜は恥ずかしく顔から火が出そうになる、という経験をした。樹といると、照れてしまう事が多い気がする。
それぐらいに、彼が愛おしいという事だが。
「本当に………あなたは、可愛らしいですね。私の恋人にあなたがなってくれたのが、信じられないです」
「そんな!それは私の台詞………」
そこまで言い終わらないうちに、彼の顔が近づいてきたのを察知して、菊菜はおそるおそる彼の方を見上げる。
すると、彼は菊菜の耳元に口を寄せた。
「ちゃんと気持ちよかった。ありがとう」
「…………っっ!!」
にっこりと笑った笑顔はいつも通りなのに、言葉は昨夜のように甘く官能的なもので、菊菜は口をポカンと開いたまま彼を涙目で見つめてしまう。恥ずかしさが極限まできてしまったようだ。
「………ずるい。敬語じゃないのも、またドキドキしちゃう」
「そうですか?では、時々またそういう風に話すことにします。もちろん、あなたと2人きりの時に」
「……………そうしてください」
2人きりで迎える朝。
いつもより距離も雰囲気も、そして気持ちも近くなった菊菜と樹は、離れがたくなってしまい、しばらくの間ベットで戯れて過ごしたのだった。
2人で遅めの朝食を食べた後。
樹の部屋に案内された。
「散らかっているのですが、どうぞ」
そう言って、2階の真ん中の部屋のドアを開けて樹は菊菜を案内した。
ドアを開けた瞬間から、鼻がツンッする独特の香りが迎えてくれる。学生の頃、美術室や造形室で嗅いだことのあるような香りだった。
室内に入ると、そこには理科の実験室のような雰囲気のある場所だった。けれど、そこには現代的な雰囲気はなく、物語に出てくるような魔女の部屋のような雰囲気だった。木の棚には、様々な材料や花が置いてあり、その横にある大きな机には図鑑や書類、そして絵の具のような画材や筆が散乱している。
そして、もう1つの棚にはたくさんの花が置かれていた。花瓶などに入れられないまま放置された花。菊菜はそれが樹が作った造花だとわかった。
部屋の壁には、いくつもの向日葵の絵が飾られてる。実験室のような部屋なのに華やかに感じられるのは、造花やその絵のおかげだろう。その絵はきっと日葵のものだと菊菜は思った。
「見ておわかりだと思いますが、ここで造花を作っています」
「ここで樹さんが庭の花たちを作った………」
「はい。始めは色もまばらだったり庭に植えても曲がってしまったりしました。失敗ばかりでしたが、ようやく庭が完成したというわけです。庭が出来てから、菊菜に出会えてよかったです」
そう言うと、樹は机に近づき引き出しから何かを取り出した。それを菊菜に渡す。
それを受け取った瞬間、菊菜は激しい驚きから、そのものを落としそうになってしまった。
「樹さん………これは………」
「やはり………あなたのものですね」
「うん。私が数年前に売ったもの………」
菊菜の手の中にある物。
それは、菊菜が昔に作ったポーチだった。少し古いが、刺繍などが痛んでおらず、持ち主が大切につかってくれたのがわかる。
しかし、どうして彼がこのポーチを持っているのかがわからない。向日葵が描かれたそのポーチを菊菜は見つめながら、その頃の記憶を思い返してみる。確か、これを作った頃にハンドメイド展に呼ばれて、初めて手売りをした事があった。
「………これは碧海さんの家族が亡くなった後に私に送ってきたものです。彼女が生前にこれを私に送ってほしいと伝えていたようで、中に私宛の手紙が入っていました。………これを作った人も花枯病になってしまって苦しんでいるはずだから、助けてあげて欲しい、と。あなたの瞳を見て、碧海は気づいたのでしょうね。まだ彼女は花枯病になっていることを知らないはずだ、と。一人ずつ助けてあげて」
「じゃあ、碧海さんは私に会っていた……」
「えぇ。作家の名前もわからずに探してくれなんて……無理難題を私に突きつけたまま彼女はいなくなってしまったのですから。けれど、ポーチにあった菊のマーク。それがあなたが作ったと言ってみせてくれたものにも、碧海のものにもありました。だから、きっとあなたが作ったのだとわかったのです」
菊菜が作ったものには、自分のマークとして、菊の刺繍を残していた。それが樹を導いてくれたのだ。
樹は苦笑しながら、菊菜が手にしていたポーチに触れる。
彼女が愛したという向日葵の刺繍に。
「私はあなたを探していました。まさか、あなたから会いに来てくれるとは思っていませんでしたが………それも何かの縁なのでしょう。守りたいと思った人が愛しい人だった。これが運命以外に何というのでしょうね」
「……………そんな事って………」
菊菜は会ったはずの碧海の事を思い出せずに悔しい思いをする。けれど、思い出す事など出来るはずもなかった。
「花枯病の方が何故、種には触れるか……わかりますか?」
「え………」
突然の質問は、きょとんとして彼を見つめた。すると、樹は菊菜の頭を撫でながら優しく語りかけてくれた。
「最近、新たな仮説が発表されました。花枯病の方は何故か種には触れられる。それは何故なのか。それは花に力を送っているからではないかと考えられるのです」
「力を送る?……奪っているんじゃないの?」
「えぇ。確かに植物に触れるとその草花は枯れてしまう。けれど、その枯れたものの中から種や球根を調べてみると、その種には何の異常も見られないのです。いや、変化は見られました。……花枯病な方が触れた花たちから次に生まれた花は、とても綺麗で美しく、強いものが咲き、育つという事がわかりました。ですから、種には触れられるのです」
「………私たちは生気を吸いとっているのではなく、あげている……」
「だから、若くして亡くなってしまう。そう考えられるのです」
「………花達から嫌われる存在でも、呪いの病気でもない」
「えぇ……むしろ、好かれているのでしょうね」
その研究結果は菊菜にとって、気持ちにとても大きな変化をもたらすものだった。
自分は花に嫌われたていない。そうわかっただけでも、心がフッと軽くなる。
自然と笑みが浮かぶのだ。
そして、菊菜はある考えを口にした。
いや、これは女の勘だが、絶対にそうだと確信していた。
「………もしかして、それは樹さんが発表したんですか?」
そう樹に伝えるの、彼はとても驚いた顔を見せた後、とても嬉しそうに笑った。
「………そうです。私が発表したものです。まだまだ仮説ばかりで、研究者達からはかなりバカにされていますが。……私はこれが正解だと思っています」
「…………ありがとうございます。樹さん………触れられる花が出来ただけでも嬉しいのに、こうやって花枯病の人たちを勇気づけてくれるなんて………私を守ってくれて、ありがとう」
菊菜はそう言うと、彼に向かって手を伸ばした。彼の頬に触れて、菊菜は1度目を瞑り、そしてゆっくりと目を開けた。
「じゃあ、あなたに触れても力をあげられるのね」
「………え」
「史陀はシダ植物、樹は木………。あなたに花はないけれど、植物だわ。だから、私から貴方に力をあげられるはず。……だから、他の花枯病の人をまた守ってあげよう?もし、あなたが疲れたら私が力をあげる………。2人で頑張りたいって思うの」
樹の名前には花がない。
けれど、しっかりと植物の名前がある。彼は花の名前に惹かれていたようだが、菊菜はその名前こそが彼に相応しいなと思った。
樹の瞳が揺れ、何かが光ったと思った瞬間に菊菜は彼にポーチごと抱きしめられていた。
「私の蛍はもう捕まえました。もう決して離しはしません」
「うん。離さないでね………ずっと捕まえていて」
菊菜はそう言うと彼の方を見上げ、つま先立ちをして、彼の頬にキスをしようとした。すると、彼はそれがわかったのか顔を落とし、軌道を変えて唇にキスを合わせた。
クスクスと笑いながら、2人は外を眺める。そこからは庭のガラスの屋根が見えた。
今日もまた庭でゆっくりと過ごそう。
そう菊菜は思い、彼の胸の中で目を閉じた。
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