第24話 敵を知り己を知ろうぜ

(殺してしまった)

 幼い波丸をいじめもしたが、甘い万頭まんとうを二つに割り、小さい方を分け与えてくれた。「そこはあぶねぇ」という偉そうな声が甦る。

 殺めてしまった男を押しのけ、倒れたままの末吉に這い寄る。

 蝉の死骸を運ぼうと、蟻の列が悪戦苦闘している。その列を邪魔して倒れる末吉の顔は、案外と穏やかで昼寝をしているようだ。あの崖崩れに埋もれた時に比べれば、何ほどのこともなく思えた。

「急げ、人か来る」

 生き残った男に促され、指示されるままに末吉を担ぎ上げた。

 殺してしまった男の死体は、もうない。仲間であるはずの男が、下草の中に蹴り隠してしまったようだ。


(殺してしまった)

 波丸は、外傷がある訳でもないのに、古びた農家の離れでゴロゴロしていた。

 木立の向こうに、神社か寺のような立派な屋根が垣間見える。ここは六浦港近くの金沢郷、見えるのは金沢流北条実時の屋敷であるらしい。後の名称寺である。実時は傍流であるが、鎌倉随一の教養人で、人柄も学ぶに足る人物であった。蒙古と戦う執権北条時宗の幼少期の教育係であり、間もなく襲来する蒙古と共に戦った。

(殺してしまった)

 波丸は、グズグズでグデグデだ。

 兄弟子を殺してしまった。万頭を分け与えてくれた人を殺してしまった。師匠の大切な弟子を殺してしまった。

 あの時、盆の窪にまで、刃物を突き立てる必要があったのか、あれは間違った判断だったのではないか。

 冬雨どんゆぃ兄さんが、刃物を投げたのは、あ奴を殺す為ではなく‥‥‥

 足音もなく、突然声が降った。

「おい、出航が決まったぞ」

「‥‥‥ 末吉は?」

「なんだ、連れて行くのか」

「いえ、その、末吉の怪我は治ったのでしょうか」

「もともと怪我などしていない。おれたちが船に乗ったら、富谷へ帰してやる」

「ほんとうに?」

「ぐずぐずいうな。お前は昔からそうだ。だから、あ奴に嫌われたんだ」

「おれが悪いと?」

「知らん、お頭はおれたちに命じたのだ。おまえを連れ帰れとな。おまえを殺せとはいわれていない。だからお前を助けた。それだけだ」

「おれは、兄貴を殺してしまった。お頭に何といえばいいか?」

「殺されそうになったから、殺したのだ。それの何が悪い。ぐずぐずいうな」

「船には乗る。その前に、末吉に会わせてくれ」

「何度もいわせるな。会えば、聞かれるだろう。あのおしゃべり野郎が、黙っている訳がない」

「末吉は、無事なのですよね」

「ああ、飯をバクバク食っている。医者の家にいるのだ、何も心配することはない。ないが、何時までも置いておく訳にもいかぬ。医者は、忙しい。あの大きな屋敷にも出向くのだ」

 冬雨どんゆぃは、目の前の大屋根に顎をしゃくった。

「もしや、我らの仲間なのですか」

「仲間ではない。お頭とは別の指令によって、長く倭国に住んで、医療を施している。誰からも好かれる良い医者だ。我らが邪魔をしてはならぬ。医者の生死に関わるからな」

 ため息しか出ない。己の過去など思い出さなければ良かったのだ。

 末吉のことだけ心配していた、あの崖崩れ事故。乾く喉に眩暈を覚えながら、夢中で蘇生術を施した後、疲れ果て歩くのも覚束ないおれを、あの勝次がそっと支えてくれた。

 出て行けと怒鳴った富子からおれをかばってくれた人々、あの留吉さえも笑顔で応援してくれた。何て、穏やかで優しい鎌倉生活。その生活に別れを告げなければならない。

 育ててくれた恩ある人の元に帰り、また息詰まる日々を過ごすのだ。間者としての偽りの生活。


「敵を知り己を知れば百戦危うからず」あまりに有名な孫子の兵法。まず初めに、敵の内情を知る。スパイ大作戦は、古代の中国でも展開されていた。

 第一に、敵国に入り込み、噂を収集する。或いは庶民をスパイに仕立てる。それは「郷間」と呼ばれた。「間」は、内と外の間を探るスパイのことだ。間諜とか間者というではないか。

 お頭と呼ばれる宋人の男が、海中に漂う倭人の子を助けたのは、郷間に仕立てられると踏んだからだ。

 波丸は、そこまで知らない。お頭の手下としてではなく、倅として大切に育てられた。

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