第13話 大怪我が嬉しゅうございます
誰かの腕に抱えられて坂を下っている。
「末吉、すえー」
声に応えて、裏戸が開き、人々が飛び出して来た。部屋に運ばれ、床に横になると皆に覗き込まれた。
もう、温かい腕は離れていた。
(ああ、もう終わりなの。つまらない)
小枝は、つまらない富谷の仕事の合間に、波丸のことを考えていた。いや、波丸のことを考える合間に、何とか仕事をこなす。以前は、何とか富谷から逃げ出せないものかと思案したが、今より上等な生活があるとは思えず、今より惨めな生活は、簡単に想像できた。
今では、波丸の後ろ姿を目で追うだけで、ため息は伴うものの小さな満足感が味わえる。こたびは、痛い思いをしたが、波丸に抱かれ坂道を運ばれた。小さな冒険は怖かったが楽しかった。左肩の肉が鋭い刃で削り取られ、痛みは続いていたが、つまらない表の仕事は休みになった。嬉しかった。度々、波丸がのぞきに来る。傷口に塗る薬草を探しに山に入り、熱心に塗り薬を作ってくれる。その薬を塗る仕事は、あたしがしますといねが、しゃしゃり出た。まったく意地悪な女だ。
小枝は、ここからそう遠くはない
東の端の小さな島国の日本は、国を閉じひっそりと孤独に生きていたようにも思えるが、何時の時代も密かに、大っぴらに貿易は行われていた。後の江戸鎖国時代も同じだ。
鎌倉時代とて、特別ではなく、日宋貿易は盛んだった。大陸は近く、欲しいものは沢山あった。九州を初めとする西国に比べれば、遠く離れた鎌倉ではあるが、海は目の前で、海はひたすら繋がっているのだ。
六浦の湊では、洟垂れ小僧も海の向こうを知っていた。今さらおこがましいが、物の売り買いは、遠い場所からの物ほど利益があがる。命をかけて危険を冒して荒波を渡る、なぜか、儲かるからだ。
このころ日本の通貨は宋銭だった。日本に限らず、アジア全域で中国銭が使われていた。手間暇かけて、貨幣を作るより、簡単に手に入り、皆が使ってくれる宋銭が便利だった。
日宋貿易の利益の大きさを南宋の役人が書き残している。
当時、日宋の物価差は十倍もあったとある。物価の差に加えて、
東シナ海や玄界灘に面した地域には及ばないものの、小さな山の向こうには鎌倉幕府が控えている。六浦湊が栄えるのは、自然の理だった。
湊近くには、異国の華が咲いていた。そんな中で、小枝は贅沢に育った。
何処のお嬢さまかと振り向かれる小袖を着れば、本人も辺りの者も惜しげなく笑顔をこぼした。
小枝の笑顔が消えたのは、年が明けたら十六歳の年の暮れだった。その年の初め、父親が多額の投資に打ってでていた。珍しいことではないが、その投資対象の船が沈んだのだ。そして、誰でも知っている遊女の物語が一つ増えた。
「怪我などしおって」と女主人は、怒った。
床から半身を起こし、畏まって「申し訳ございません」と呟けば、「起きなくてもよい。横になれ」と思いのほか優しい。嬉しさに、緩んでしまう頬を隠す為、小枝は頭を下げ続けた。痛みは消えたが、傷は癒えない。それは、病人が治りたくないと思っているせいかもしれない。
どこからか板子を調達してきた二人の波乗りは、地元の漁師やその子らの噂となった。末吉の水練もすっかり上達し、もういっぱしの波乗り野郎だ。
もちろん噂は富谷にも届き「何をしてるんだ」と勝次に怒られ、「そりゃ、おもしれえや。わしも見てみたい」「あたいも見たい」と台所では絶賛された。
富子は何もいわない。自前の船を持ち遠国貿易を密かに企む女主は苦笑いを浮かべる。荒波を征服すれば、宋国はいうに及ばず、その先の大陸へも飛び出して行けよう。
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