水面下のランナーたち

坂本治

水面下のランナーたち




 高校生で最後のクラス替えの、少し後のことである。

 季節は傘の手放せないその頃で、今も小雨が降っている。コートの張り出た肩に、霧吹きで吹き付けたように水がつく。

 湿った空気と空模様が自分の五感にうったえて、日本らしいそれを感じさせるけれど、日本と外国の差などわからないのがほんとうの所である。

 だがそこは、日本であって、ある意味日本ではないのであった。



 襟のついたワンピースに、同じ色の上着と靴が合わせてある。きちんとした格好を、と磨かれた革靴は雨の日でもテラッと艶々して見えるのに、背中の高校生らしい学生鞄がちぐはぐな感じだった。

 雑踏の中に樋口はいた。やや短いショートカットの頭が、群れをなす人々の湖に浮かぶ。隣を行く女はボディコンの名残ともいわないが、曲線美を意識したジャケット姿で人込みを行く。それに負けじと、先ほどから流れに乗って進みはするものの、時折現れる対向に情けないほどいちいち戸惑う。またしても老紳士の肩が頬骨を派手に突き飛ばしていく。

 樋口は受験生である。大学共通試験もまだまだ走りの世代。志望する大学の説明会に来て、それを終えた後に帰路へ着こうとしているのだ。それなのに人の多さに足元の地面も見えず、傘も差せず、あげく駅までの道もわからずにいた。

 地方では見慣れない服装で行き交う人々と、洒落た服をきた子犬に、ガラガラのついた大きなカバンが狭い道路をぎゅうぎゅうになって進んでいた。高く密集した建物が立ち並び、それに馴染みのない樋口には進んでも進んでも景色が同じに見える。まるで要塞の中に集められた兵隊のようではないか、と思えてくる。

 目の前も、右左も、上空も、どこもかしこも視界が狭くて樋口はほとほと疲れていた。そして心底困っていたのだ。


 やっと人込みを抜けて歩道の脇へ出た。

 面する暗いビルディングのコンクリート壁に駆け寄って、背負っていた鞄を降ろした。地図を取り出す為である。

 東京の学校の説明会に出かけていくのだからと、母親が新調してくれたコートや靴はまだ新品と同様であった。それらは無難な装いを意識してそろえられていた。ラクダ色に近い茶色が、周りに浮いているように思えるのは緊張のせいであったのだろう。

 通学で使っている鞄の表面が、細かな粒をつけているのを気にせずに中身を開く。着替え財布が確認できる。両親が調べ持たせてくれた、新幹線の乗り方や改札口のメモが入っている内ポケット。配布されたパンフレットや書類を入れた広い所、キャンパスノートの間、学校でやる小テストに出るものをまとめて暗記する用の紙、を漁る内に地図の切り抜きを探し出す。

 ドンッと、

「邪魔だよ」肩をぶつけてすり抜けた人に「すみません!」

 パッと樋口が反射で口にし、そちらを見る頃にはもう誰がぶつかったのだかわからないのであった。大学を見つけ出して説明会は無事に済んだのに、何だか来た時よりも気が重かった。

 雑誌から切り抜いた地図は湿気を含んでやわららかくなっていたが、十分機能は果たせるものだった。だがそれを見る樋口が現在地もわからない状況なので、それは悔しくも地図として働けないのだ。

「このまま帰れないのかな」雑踏の中の独り言は掻き消えた。

 ぼうっとしてしまう性格を悪い所だと思い直して、立て膝に抱えていた鞄を急いで閉めた。誰かに駅までの道を、勇気を出して聞かなくてはならぬ。元来社交的ではない上に、知らない土地の人に話しかけるのはもはや苦手でなく苦痛であった。ここまで誰にも聞かず来れたのは、事前の入念な準備の甲斐があったのだ。まだ大丈夫なはずだが、と腕時計を確認する。乗る新幹線が決まっている故に不安が胃を痛ませる。

「誰か、聞かなきゃ」何度目かの独り言である。目まぐるしく行き交う人々を見定めながら、必死の思いで目の前を通る人に声をかけた。

「すみません、駅を」

「えっ」

 早口で告げたが、向こうは動く歩道のような速度で過ぎ去っていく。辛うじて反応してくれたことには感謝しなければならないだろう。何しろ道路は次から次へと列をなしたようになっているのだ。

 その後も何度か挑戦するが、行き交う人の中で応じてくれる人はいなかった。

 周りを見回すと、近くの壁際に寄って来て手帳を開く女があった。華奢な傘を片手で持ち、化粧のきれいな人だった。思い切って寄って行ったら、目が合った途端にアイラインを歪ませる。

「あっ……」と思わず呼びかけようとした言葉を失うほどの、凄みのある睨みをきかされた。樋口を見たくもないもの、のように顔をそむけるとすぐに歩き出した。テレビドラマの女優を思わせる立ち去り方だ。

 樋口はまたしても腕時計を気にした。

 交番のようなところまで行けないだろうか。すると一瞬、突飛な考えが頭をかすめる。「それとも、ここで二、三日過ごしてしまおうか」と思った。自分で思ってみて、あまりにも楽観的であったと自覚できた。高価な新幹線の席をとってくれた両親を思い出し反省する。

 けれども、今しばらく休みたい思いも強かった。

 ふと壁際に気づかなかった簡単な腰掛を見つけ、吸い寄せられるまま行く。三人ほど座れるそこには雨降り天気でもあるせいか誰もいない。きれいとはいえないプラスチックの上に疲れゆえ、躊躇いは少なく腰を下ろした。

 ついたため息とともに頭の上のほうから力が一気に抜けた。体がぐったり重くなるのを感じてそのまま、身を任す。ベンチがきしんで音を立てるように聞こえた。

 ぼうっとしかけたその時に、

「そこへおすわり」と声がした。ふと左側を見ると幼稚園に行くか、行かないかくらいの子どもがベンチに登った。不機嫌そうな、何かをこらえたような顔だった。

 しかし声の主はその子ではない。幼児の顔を見た後に視線を上げると、まだ若い顔がその子へ微笑みながら、促している。

 樋口は気を遣って無言で少しベンチの端に寄った。

「いいよ。この子が小さいから座れるだろう」その大人が微笑んだままの顔で樋口を見た。

「……ハイ」膝の上の鞄を抱え直す。

「手、見して」

「え?」

 と樋口が聞き返すと、向こうも驚いたようになって、すぐあの顔で弁解を聞かす。

「この子の手の平、擦りむけているんだ」その子はやはりぶすっとしたままである。「あ、ごめんなさい」と顔を下げる。いや、と返すその人は再度こちらを見ることはなかったようだ。幼児が「ねェおにいちゃん、ねエ」と自分の方を見ていないその人をぐずって呼んだからだ。

 樋口は悩んだ。大人というには若く見えた。ここらの大学生かもしれない人ならば、道を尋ねるのにも少しは気負わなくて済みそうだ。だが、今はあの子の手当てでもするのではと、邪魔をしてしまうかもしれないことを考え及んで戸惑った。

 そうする間に何か手当てを終えたようだ。あまり見てはいけないかと、そちらを向かないでいたのでグズグズとした子どもの声以外に情報はなかった。

「お兄ちゃん!」と甲高く言う声に咄嗟に目を向けると、幼児が肩を小刻みに揺すってやはりぐずっていた。

「待ってね。うん、待ってね」と急ぐ様子でショルダーバッグの中へ、物を出し入れする彼はすぐ傍にいる。ハンカチかチリ紙のようなものをしまって子どもの方へ向き直り、

「お巡りさんのところ行こう。お母さん見つかるよ」と呼びかけた。

 この子は迷子なのである。

 この機会を逃してはいけないと樋口は申し出た。

「私も道に迷っていまして、交番まで連れて行ってください」

「ああ、いいとも。行きましょう」ひっくり返ったような声の樋口の頼みを、彼は快く承諾した。

 やっとのことで声をかけたが、どれほど時間がかかったのか正確にはわからなかった。だが途端に二人に増えた迷子へ、動揺することもなく穏やかな年上のその人に、両者ともそろって安心できたことは確かである。樋口もこの時、初めての都会の緊張に加え、その中で頼れる大人に出会えた為に感情の起伏が落ち着かなかった。ただホッとできたことは確実で、あまり頭もさえないままに幼児と一緒になって、都会の青年について行ったのだ。

 交番まではそう遠くなかった。だが若い彼は幼い女の子を気にかけつつ、高校生の樋口の話も聞いてくれた。「地元に帰らなければならないのだ」と話すと、すぐに大学の説明会だと察した。ここらには学校が多く、例年受験生が怖々やって来る、そんな時期だと語った。

 樋口は東京駅までの行き方もこの人に聞いてしまおうかとも考えたが、これ以上世話をかけることを申し訳なく思い黙った。そうこう交わす内に交番も見えてきたのだ。


 まず幼児を預ける。あいにく一人しかいない警察官に、青年が説明をしている。樋口はその後に道を尋ねればよい。

 そう思って駅前の街を行き交う人の群れを眺める。

 土産らしい荷物を抱える親子が目に入る。つれられた子どもは少し前に話題になった、カラフルなページから外国の男を探し出す絵本に夢中だった。親はその傍らで疲れたようにしながらも、タクシーに手を挙げる。観光に来たような彼らは、この物珍しい大都会を満喫できたのだろうか。

 人気女優の写真集も、珍しいテレフォンカードも、どれか一つでも持って帰れば、クラスや会社で一時の注目を集められるだろう。

 先ほどの迷子はこの土地の子だろうか。こんなに人が多い所で育つならば、自分とは違う生き方になるだろうと感じる。


 薄暗い雲の下だからか、行き交う人々の表情は皆険しく見えた。何か大変なことに追われているようでもある。それはやはりこの人だかりを遅れず進んで行かねばならぬ緊張からだろうか。

 それには一抹の怖さもあったが、樋口にとって嫌悪するものではなかった。同時に彼らから屈しない強いものを感じたのだ。軟弱な自分よりも強固な鎧をまとった都会の人々。この群衆の中に入ってしまえば、奥に潜ってしまえば自分がわからなくなるような希望をも感じたのだ。

 だがその中で揉まれ、自分自身も強くなろうとは頭の片隅で思うだけで、嬉々として心に決めることはできなかった。

 どうして自分は東京の大学へなど目指しているのか。思い返すと、学校から推薦されて聞きに行くよう促されたことが思い出されるばかりであった。先生から指名されて喜んだ両親を「推薦でも落ちるかもわからないから」と、なだめつついる内にあっという間にここへ至ったのであった。

 春先に担任から言われたそれを伝えた時に、ちゃぶ台の向こうで喜び合う家族を見た。祖母も「エライ、エライ」と頷いていた。自分でも嬉しいと思ったはずだが、妙にすっきりしないのは受験生特有の気分病に罹ってしまっているのかもしれない。

 また青年に会ってそれまで張りつめていた緊張が緩んだのかもしれない。心なしか腹の底の方に、何だか重く痛い感覚がしていた。



「お嬢さんも迷われたのですか?」

 振り向くと年配の警察官が、手をメガホンのようにして声を大きくし尋ねていた。先ほどの青年が、「おいで」と手で招く。

 そちらへ急ぎ寄って行くと、交番の狭い部屋の中で腰掛ける幼児がいた。相変わらずこちらをジトっと見ているのであった。

「はい。東京駅までの道がわからないです」

「東京駅ですか。歩きですか」

 そうだと言うと「ここからはかなりかかりますよ」と話す。勿論、樋口は往路も徒歩で来たから知っていた。バスなどを使うにはあまりに自信がなかったのだ。

「バスを使えば随分早い」そう口を挟んだのはおなじみの青年だ。小さなあの子から樋口へと、順に世話を焼く彼は本田と言った。

「東京駅まで送ろう。一緒にバスへ乗ってやる」

 親切な申し出に迷いつつ、返答には躊躇いが降り切れない。「いいえ、でも……」と繰り返す内、

「君はここらの学生かね」と警官が彼に尋ねる。

「はい。○○大学です」

「それなら詳しいだろう。お嬢さん、一人で行って迷うこともない。この人に連れて行ってもらいなさい」と助言したのだ。彼の大学は、樋口が今日行った大学ではなかった。しかし大学生であり、憧れの都会の先輩であったことに信頼の情が膨らんだ。

 それよりもここでこれ以上ごねることが良いことにも思えず

「恐縮です。お願いします」と頭を下げた。

 二人は交番を出てバス停まで歩き出したが、樋口は踏み出す靴を眺めて、自分は東京に憧れていたのかどうだったのかぼんやり自問した。




 バスは混んでいた。時刻表は地元のものよりはるかに多い。一時間に出る本数は十倍で、それを傍らの青年に言うと「おれも初めて出てきた時に驚いた」と言った。彼も県外からの上京者であった。

 バス停の列の中でもそう会話はしなかった。バスに乗ってからは客も多くなおさらだ。

 地元でも自転車で学校に通っている為バスにほとんど乗ったことのない彼女を、本田は乗車券を抜く所から、小銭を払うまで誘導してやった。

 普段持ちもしない厚い財布をたどたどしく開く間、樋口はちらとその人の様子を窺った。樋口よりも少し背の高い彼があらゆる方向からの圧力に耐えている。それにしては随分と顔がすずしかった。周りの乗客の苦渋の顔とは言わないまでも気難しそうな表情とは、一風異なる温度というのか、世界をもっていると言ったら正しいのかもしれない。

 呑気なことを言っている自分を咄嗟に戒める。二人はバスの中央で手すりも持てなかった状況の中、彼は樋口がぐらつかぬよう気を遣い、財布を安全に仕舞うまで注意を払っていたのだ。「都会はスリが怖いよ」と、祖母が心配して言ってきたのを思い出した。

 バスは走り続ける。

 まるでそこだけ風が吹いているみたい。気遣い屋の本田を見上げた時、ふと生じた不思議な感覚を心に仕舞った。遠い窓の外を見る顔は穏やかな微笑みであったが、それは彼の常に染みついた顔なのだろう。

 その貌は樋口にあらゆる考察をさせた。もしかしたら彼にだけは、窓の外が晴れた白い空にでも見えているのだろうか。車内中が無言になる間、先ほどまで幼児を安心させ樋口も頼ったその人について、本来は無口なのかもしれないと考え始めた。

 何が樋口の脳裏にそう思わせたのかは、よくわからない。


 ことの事態が変わったのはこの後である。

 バスは東京駅の前まで二人を運んだ。実際は裏側だったのかもわからないが。人々が車中から流れ降り、車体の上下する運動を感じながら、樋口は東京駅近くの地面へ降り立った。すると余計に安心が勝って来た。正直に、無事帰れることが叶うことに安堵した。

「本当に歩くよりも早かったです。どうもありがとう」

「いいえ。ここからはどの線に降りればよいのかわかるか?」

「はい、メモに書いてあります。……と言って地図も読めなかったのだけれど」

「東京は入り組んでいるから仕方ない。切符も持っていますね」

 年上のはずの彼も物言いが穏やかゆえに、時たま樋口の言葉がうつったように丁寧な敬語を混じえる。切符の印字でどこの線に降りるのか説明したいが、そこまで覚えていなかったので、背の鞄を降ろして切符を探す。「これです」の言葉を樋口はすぐにでも言うつもりだったのだが、

「少し……待ってください」

 と言って、依然として中身を探る。

 青年も見つめてくる。何も言わないのは気を遣ってくれているからだろうけど、その横から覗く彼の影に焦りは募りつつあった。鞄のあらゆるポケットを確認し、上着も調べた。「あれ」、「あれ」とそれだけを繰り返し言わせるだけの脳みそはいよいよ役に立たなかった。

 その隣で「大丈夫だから」と唱える声は続いた。

「財布の中かもしれない。ご覧よ」彼は言った。

 それは鶴の一声とばかり樋口を閃めかせた。確かに家を出る時、財布に入れた気がしたのだ。心臓がハクハクするのを抑える。今日一日のせいで心臓は明日以降筋肉痛を訴えるのではないか。

 だが切符は見つからなかったのだ。


「失くしてしまった……ようなんです」樋口は青い顔をしたものの、幾分か冷静だった。もし彼と会わずに一人でこの状況を迎えていたら、事の非常事態にどうなっていたかわからない。

「もう一度、見てみようか。まだ出発まで時間はあるだろう」

 彼は期待を裏切らなかった。やはり樋口の手助けをしてくれたのだ。再確認をしていく樋口に「実家はどこか」「家の人は迎えにこれそうか」「切符を買い直すお金は持っているか」尋ねた。都会であっても海の外でナシに、帰る方法はいくらでもあるからと諭した。感謝をしてもしきれない状況である。

 高校生が知らない土地でパニックになるのは何ら不思議ではないが、冷静に手段を挙げられる人間に救われたことは、この上ない幸運であっただろう。

「所持金はこれだけなんです」確認を終えた樋口が財布を開く。

 彼が経験から予測した帰り道の切符代は、それでは足りていなかった。樋口も両親と窓口で購入した時の記憶からそう思った。

「おれの手持ちでも足りないな」と彼が呟くのを聞いて樋口は眩暈を覚えた。見ず知らずの人間にどれだけ迷惑をかけているか考えると、頭痛も胃痛もひどくなる。高価な切符を失くした不注意に、両親への申し訳なさも溢れてきて押しつぶされる。親に連絡するのにも子供らしい怖さがあった。


「切符を新しく買おう。金は貸してあげる。おれが家に戻って取って来るから、ここで待っていられるね」

 ここまでしてくれる人に出会えるなんてますます自分が恥ずかしくなる。しかしこうなってしまったからにはと、厚意に感謝しきれないほどの気持ちを込めて受け取るしかないのであった。「本当にごめんなさい。本田さん……」弱くそう繰り返した。

 時刻は夕方の中頃であったが、本田が住まいに戻ってまた折り返して来ても、日が沈んでしまう頃には樋口に手渡せるだろうと踏んだ。

 もっとも雨は上がっていたが依然曇り空で、太陽の位置などわからなかった。


 彼が「それじゃあ」と駅構内へ駆けて行こうとした時、俯いていた樋口も立ち上がった。

 青年を通り越して脇に抜け、駅を囲う草木の茂る花壇の辺りへ跳んでいく。僅かな距離ではあったのだが、決死の行動だったのだろう。樋口はひどく気持ちが悪くなり嘔吐したのだ。こちらへ来てほとんど物も食べていないだろうが、極度の緊張が連続し、また張りつめては緩みと、均衡を保てなくなったのだ。

 こんな稀なことに心はひどく動揺していた。周りの客はそれほど気に留める者もなかったが、当の樋口の胸の内は複雑だったろう。青年は樋口の薄い背中をさすっていた。

「大丈夫。大丈夫だ」やはりそう唱えていた。間に少しの長音を混ぜて発音されると、小さい子どもか、犬猫をなだめているようだ。どうしてもみじめな気持ちがしてならなかったのだ。

 樋口はいつかの部活動か、体育の授業で嘔吐した時のことを思い出した。それも小学生くらいの頃に一度きりであったと記憶しているが、その時もかなり深く傷ついた。「もう嫌だ」そう思ったことは一度ではなかった。


「樋口」と呼ばれた名前に我に返る。

 思い出していた最中の記憶の中から、当時の呼びかけが耳へと呼び起こされたのかと冷や汗をふいたが、気づくと彼の心配そうな顔があった。

 彼はこちらを覗き込むようなことをしていなかったから、隣から突き出された顔も虚ろな横顔であった。

 そんなことを思っている内に自分が泣いていることに気づいた。溢れるほどではないが、睫毛に粒が僅かに溜まっているのだ。

 彼は穏やかな顔を僅かに心配の顔に変えて、

「今日の便で帰れそうか?」「立てるか?」と尋ねてきた。

 もはや樋口は間髪入れず「帰れます」と首を動かし、切り揃えてある顔周りの髪を振った。

「では大変だろうけど一緒においで。家までそんなに遠くないから、ここに一人で待たせておくのでは心もとないんだ」続けられた彼の言葉は樋口の予想していたものとは、的の位置がずれていた。

「……はい」

「こっちだ」

 彼の気迫で樋口は立ち上がり、後ろへ続くように駅構内へと入った。


 電車の切符を買って有人改札を抜けると、東京を走り回る私鉄の一本に飛び乗る。

 聞いたことだけある路線の名前を記憶に刻みながら、教えてもらった降りる駅を数えて待つ。車内はバス同様込んでいたが、おしくら饅頭にはならない程度だ。

 何駅か通り過ぎる内、乗り物のせいか樋口の体調は再び悪くなった。本田はその様子を感じ取ったのかもしれない。それとも東京駅を立った時から決めていたのかもしれない。


 教えられていた駅で降り、青年に連れられて地上に上がるとまた人の波であった。その頃また雨が強く降り出していた。その様子を車内から眺めていたが、段々と雨足が強くなっている気がした。思えば地下鉄電車に乗るのだって初めてだった。

「病院に寄ろう」という言葉に耳を疑ったのはその感動の直後だ。

 彼は「本当に駅近くだ。駅前クリニックというのがあるから、診てもらった方が安心じゃないか」

「いいんです! さっきのは緊張のせいですから、本当に稀なケースですから。診てもらっても診断はわかっていることです」

「薬を出してもらえるかもしれないじゃないか」

「保険証がないんです。お金が足りなくなってしまう。切符も買えなくなってしまいます!」

「所持金を併せれば何とか足りるよ。早くしないともう病院が閉まってしまうんだ」頑なであった。

「これ以上迷惑をかけたくない!」

 樋口は自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。

 雨も降る中、狭い地下鉄の入り口の僅かな屋根の下で押し問答する二人を、邪魔そうに避けたり、好機の目で見ていく人々の群れに次第にはね飛ばされる。大きな魚のかいた波にのまれるように、ゆっくりと群衆が寄っては彼らをさらっていく。

 本田の親切心も今の樋口には、非常に勝手だとは思うが心に重くのしかかったのだ。人に飲まれ離れて彼が一瞬にして見えなくなった時、驚いて「本田さん!」と言いかけたものの、最後までしっかり言う前に言葉を切った。

 樋口はそのまま、彼から敢えて目を逸らし群れに紛れた。

 このまま無理に帰らなくてもいいように思った。恵まれた環境で育てられ、両親、家族からの愛情にも不自由しなかった自分が今ここでどれだけ失敗しているかと思うと、長年の間に蓄積してきた悩みやあらゆるしがらみが湧き出してくるのだ。

 そんなことでと思われたとしても道半ばの中高生の気持ちである。案外綱渡りのようなものなのかもしれない。



 駅からメイン通りに動いていく群れの中で、傘を差さねばと思ったが手元にないことに気づく。昼間の大学の説明会場に忘れてきたのだ。つくづく自分が嫌になる。

 人の流れの速度がつかめない。流れの方向にも反してしまう。

 至る所で「ドン」「ドッ」「パシッ」と、肩や背や、荷物、傘にぶつかってしまう。

 大きな大人や同世代くらいの部活のユニフォームを着た学生たちがいる。仕事帰りらしいの中年の女の人、若い大学生風、サラリーマンにアーティスト、ミュージシャン。目の前は人と情報の洪水だ。

 避けようとしても、申し訳ないと思っても次から次へとやって来る。

 いつの間にか「すみません」の言葉も出なくなっていた。

 どうせぶつかってしまうなら、ひどくぶつかりに行ってしまおうか。悪意をこめて、誰でもいい。私という人間など、ここにいる人たちみんな私のこと知らないでしょ。

 樋口は体勢を変えていた。ぶつかられるのを避けるでもなく、そして肩に力を込めた。高校生三年生にしては小柄な体でも、意思をもって人込みの中で暴れたら、力の弱い人などそうでなくても不意なことに転倒する者が出るかもしれない。頭のどこかで理解しつつ、樋口の中に「何かやってやろう」というものがカッと芽生えた。まるでマッチを擦ったみたいに。


 腕を振ろうとした時に前方の人が避けた。


 周りをスクラムのように囲われている中で、ある一か所だけでも人が抜けるとバランスを失う。樋口のように変な力を込めていたなら殊更だ。

「ひっ」

 言葉でない空気だけがこぼれた。

 いや正しくは吸ったのである。進行方向、つまり前の人が避けた所でネズミか何かが潰れていた。車道に近かい所であったから、しばらく前に轢かれてしまったのだろう。

 それを目撃して皆そのラインを通る者は避けた。少し驚いて、でもほとんど無表情で。しかし樋口は、自分が踏みつぶしたように思えたのだ。

 よろっとおぼつかない足取りでそれを避けると、後ろの年配だが体幹の強そうな女にぶつかる。ちらりと睨まれる瞳から逃れて脇に避けたいが、今度は左側の中高年の男にぶつかる。

 群衆の渦中に埋もれるまま、どこだか分らぬ方向へ強制的に進んで行く。幼い頃に上がりたくても上がれなくなった流れるプールだと、想像したその瞬間に、斜め後方から二の腕を引き掴まれた。薄手のコートに越しに相手の手の感触がした。

 痛いじゃないか、そう思ったけれどそれ以上は何も覚えていない。


 熱気で生温かい群れの中からぽいと外に出されると涼しい空気が感じられた。

 顔には大粒の雨があたる。一瞬の内に掴み上げられたごとくの樋口の体はよろめいて、脇の立ち並ぶ店へと飛ばされる。

 ガシャン、とドラッグストアの半開きのシャッターにぶつかった。

 樋口は自分をかばって、自身とシャッターの間に挟まれた本田を窺った。

「本田さん……」誰も喋ってもいないのに喋るオウムのように呟いた。引き抜かれた反動でふらふらしている自分を支えた彼は、打ちつけた右腕の肘のくるぶしみたいなところを掌でさすった。群衆の中見捨てず自分を探しに来た彼の言葉を待つ他なかった。

 怒っただろう。流石にもう、穏やかではいられないのではないか。彼の長い前髪の先に水が溜まる。

「病院は……」「あのっ」

 そちらの言葉を遮るように樋口は声を発したが、直に気持ちがスンとして言葉が続かなかった。その様子に本田の方が口を開く。

「無理言って悪かった。だがこれでも心配しているんだよ」

「……いいえ。こちらこそ迷惑ばかり」ぼそぼそと返す樋口。

「肘、痛くないですか」とそちらを視線で示すとやはり、

「うん。大丈夫、だいじょーぶ」とさすりさすりしながら言った。


 夜に入ったのと雨雲とで、余計に暗い雰囲気の駅前の商店街。樋口の地元の商店街とは違う立派なアーケードが目に入る。

 辛うじて屋根のかかるドラッグストアの軒下で、駄々をこねた子どものように俯く樋口はまるで怒られているような気持だった。本田がせっかく来てくれたのに、勝手にそんな気持ちを抱いて良くないことだと心底思う。けれど自暴自棄になりかけた、後ろめたい気持ちがぬぐえなかった。顔を上げられないのは自分がいたく恥ずかしいからであった。

「帰るのは今日じゃなくてもいいでしょう? 後で電話ボックスに寄ってあげるから家の人に連絡なさい。今夜は屋根を貸してあげます」

「本田さん、けれど……」

「明日の昼の新幹線でもとりましょう。何なら朝一番の電車が動き始めたら、鈍行で帰ることもできる。いや、朝はラッシュがあるからよした方がいいかな。ともかく安心なさい」

 まるで小説のように親切で稀なこの協力を、樋口は迷いながらようやく受け取った。


「行こう。歩いて二十分くらいの所だから」本田は肩越しに振り向いて言った。軒から見上げるようにして雨の降る空から地面を見渡す。

「あの、傘が。私、傘がないんです」

 遠慮っぽく言う背中の声を聞いて、本田はショルダーバッグからコウモリ傘を取り出して笑って見せた。

 本田も樋口も双方すでに雨をかぶっていたが、小さい傘を使ってテクテクと歩き出した。二人はほとんど同じくらいの背丈だったが、少しだけ目線の高い本田青年が傘を差した。樋口が持とうとも申し出たが敢え無く断られてしまったのだ。


 都会らしい中でもふるさと感の溢れる商店街を抜けていく。相変わらず家路を急ぐ人が多かったが、晴れて夕焼けの赤い日の商店街ならもっと賑わいが増すのだろう。東京にもこんな所があるのだ。

「それは、東京で生まれた人にはそこが故郷だからね」物珍しそうな彼女に本田がかけた言葉だ。雨が屋根や道路を叩く音に声が消されてしまう。だからそこでも会話は少ないものだった。

 樋口にとっては今日偶然会った人のお宅に上がり込むことが最大に申し訳なく、それだけでなくここに至るまで散々世話をかけてきたのだから、ここでお喋りになる気持ちには到底なれなかった。



 駅前のストリートを北上していくと更に住宅街という色が濃くなってきた。八百屋を越え、小さな動物病院、コインランドリーを横目に過ぎて行く。「田んぼに囲まれた野球のできる広場に、その横によくボールを投げ込みがちな大きな家」といったものはなかったが、のどかで都会の真ん中から置いてきぼりにされたような、哀愁漂う街並みが広がった。


 辺りが紫陽花の葉と同じ濃い闇に包まれ始める。細い雨の柱にぼやける外灯の下を指さして告げる。聞き落とさないように耳を澄ます。

「ご覧。そこの酒屋の前にある電話ボックスをお使い」決して騒がしくない声で指示をした。彼は無口で、それでいて大きな声を出すのも苦手なのかもしれない。

「はい」と言ってそこへ駆け寄りたかったが、傘から出ようとした樋口を柄を握っていた彼が思わず追いかけたので、互いにそれへ恐縮しながらまだ十数メートル距離のあったボックスまで歩み寄っていった。

 先にボックスの中へ入ったのは樋口だった。

「お家の人に用を伝えらえたらおれにかわって。きちんと名乗って安心してもらいたいから」電話ボックス内のオレンジ色の灯りに照らされた際、本田の顔を初めてしっかりと見た。

 出会った時から何かどことなく感じていた違和感がまたしても引っかかって、樋口はその表情からしばし目を離せなかった。彼の面に当たる明かりは背後の暗さに作用して、地味な顔立ちにシャドーがかかっていた。それは決して奇妙でも、恐ろしいものでもなくて、昼間のすずしい顔よりも素に近いものを読み取らせた。

 なんだろうか。

 昼間のバスの窓を通した、ぼんやりした白い光が当たる横顔が頭に過る。

「小銭ある?」と聞かれてハッとする。テレフォンカードがあるのだと鞄から取り出して、重たそうな公衆電話に指をかける。

 受話器越しに聞こえたのは祖母の声だった。簡単に東京からかけていると答えて、母親に替わってもらう。

 母は「えっ!」「何やってるの!」「まあ!」と声をひっくり返してきれぎれの単語を叫んだ。本当に申し訳ない、と電話に向かって頭を垂れながら、うんうんと用件を伝える。本田さんの名を出すと、

「え、本田さんってなに……。どなたなの?」と当然聞き返す。出会った経緯と、それまで世話になった数々を説明する。

「世話にって、あなた……。もう……」ため息がこだましている。コンコンとガラスのボックスを背後で叩く本田を振り返る。「お母さん、本田さんが替わってくれます」と残して彼に受話器を渡す。

 厚みのない錨肩の背中が中に入ってきて場所を交代する。

 移動しながら、鼻先が彼の木綿シャツをかすめそうになったのをすまないと思って反りながら隙間をくぐって外に出る。後ろ手に渡された傘を開いて彼の話を待つ。時間はさほどかからなかった。雨はいまだ降っていてバラバラと傘を打ち騒がしかった。

 だがこの本田という不思議な人に出会ったことが、母への電話でしかと実感できた。彼が親切にしてくれる度、この人は自分の作り出したたぐいではないかと疑えてきていたのだ。どうやら本当に存在しているようだとわかると、それまでとはまた違う緊張感が湧いて来た。騒がしいのは外界の雨だけでなく、自分自身の心臓も大きく脈を打っていた。


 電話ボックスを後にした二人は二、三言葉を交わした。

「具合が悪いこともお母さんに話しておいたからね」

「そこまで悪いわけじゃないんですよ」

「いいや。そのことを話さないとこちらも堂々と家へ上げられませんから。夜中にまた具合が悪くなったら、何と言おうと救急の夜間診療に連れて行くからね」と念を押され、

「大丈夫ですから気にしないでください」とかぶりを振っておく。きっとこの人は、本当にタクシーでも呼んで連れて行こうとするだろう。ヒヤリとするほどの真面目さが垣間見える。

 そう歩かない内に彼の一人住まいのアパートに着いた。

 彼の案内する辺りに小さい門が構えてあり、石畳のような模様が足元を敷き詰めている。小さな二階建ての建物だったが落ち着いた本田を思わせる風景だった。木々と茂みの簡単な庭を抜けて扉のたくさん並ぶ内側へ入る。

 頭をぶつけそうな階段裏に気を付けながら彼に続く。雨水が吹き込んだ痕、先に帰宅した他の住民が傘から払った雫で、あちこちまだら模様の水たまりが作られていた。


 カタンと鍵を開けた。暗い靴脱ぎ場で室内の電気のスイッチを探す。明るくなったそこは玄関から部屋の奥まで構造が窺えた。マッチ箱のような造りをした小さな部屋だった。左手に見える水道の前辺りに本田は立って樋口を呼び寄せる。

「お邪魔します」と入って行きシンクと居間との途中にある暖簾をくぐる。白熱灯が透ける布から視界が開けたそこは、想像したような簡素さと趣味が読み取れない部屋だった。しかしそれは本田の感じをより体現していたと思える。若者らしい音楽の趣味や、集めているコレクションなども見受けられない。

「面白いものないでしょ」という声に、部屋の中を気にしていることを察せられてしまい気恥ずかしくなる。思えば自分は勝手に、頼れる本田の人間性を描いていたのかもしれない。それならば、この片付いた部屋は樋口の本田へのイメージを裏切らないものであり、本当の所安心できた思いが一抹あった。

 時刻は十八時を丁度回った頃だったろう。低くて四角い机の隅に乗ったデジタル時計が目に入った。

 促されて荷物を降ろし自分も座ったのも束の間、タオルを貸してくれたり、雨に濡れたものを入れるビニール袋を差し出してくれる彼の厚意に立ったり座ったりを繰り返す。

 彼は元より世話好きなのか、一人暮らしもあって気が回るのかほどよく事務的な仕草でこちらの支度を手伝った。普段は本田が一人で暮らしているだけの部屋ならば、案外利便性のある部屋なのかもしれないが、流石に高校生の樋口がもう一人上がると狭い。加えて高い湿度に、カーテンの裏の窓ガラスは灰色く曇っていた。


 何とか身支度が整ったので改めてお礼を述べた。そして先の母との電話で聞いてくるよう言われたことを告げる。

「両親もお礼を言いたいと言っていました。それから立て替えて頂くお金を返す為にもこちらの住所を教えてください」

 母もまさか、見知らぬ学生に助けてもらうことになるなど想像していなかっただろう。その点では心配よりも、本田さんへの感謝を募らせている。

 本田はなるほどと納得して、番地を思い出そうとしていたが「できることをしただけ」などと何となく恥ずかしそうに首筋をかいた。

 住所をメモしようと自分の通学鞄からメモ用紙を取り出す。

 寄せてくれた四角い机へ居直ると、濡れて脱いだゆえ靴下のない裸足が床の冷たさを感じた。雨や風の冷えとも違う特殊な温度だった。部屋の主である彼が自分にだけ見える幽霊のようではないかという心配は徐々に減っていたのだが、どこかいまだ飲み込めなかった。

「トーキョー都、セタガヤ……」と本田は唱えつつ樋口が書いている手元を眺めていた。受験生なのに地名の漢字がおぼつかない様子に、自身の財布から身分証明書を取り出した。

 ホンダヒロミ。

 本田宏美という名の大学生であった。学校名のある表側ははほとんど見えないまま、裏返してそこに記載された現住所を示した。本当にいる人なのだと、半ば自分でも何を言っているのだろうと思いながらペンを走らせる。

 ふと目を紙面から上げると、簡易タンスの上の写真立てにはどこかの街並みがはまる。もしかしたら外国の写真かもしれないが、それを話題にする勇気もない。

 室内のほとんどは生活に必要なモノだけで、片隅の本棚には大学のものらしい本が多数と、束になった紙類。隣のダンボール箱の中から、その他ノートや大判の模造紙を丸めたものが覗く。

 机に向かったまま見渡せる範囲で眼球をひたひた動かした。本田はというと積み重なったノートを崩しそうになりながら、収納スペースの扉を開いて中からかけ布団を見繕っている。蝶番の調子がいまいちらしく、耳には鈍い金属の音。


 樋口はこの人物に対する好奇心もさながら、超すか超さまいかという確認したい事柄を胸中に抱いていた。

 自然と瞬きが増える。悩んでいるのだ。本田にそのことを聞こうかどうかを。

 彼が扉を閉め、持ち出した布団の裾がノートの塔を崩す。

「本田さん」

 樋口の呼びかけに応じ視線がぶつかる。

 これを確かめることは、樋口が本田に対して思う形而上の不可解な印象を解くことに近しいものだ。樋口は東京への旅路で予期せずこの状況に遭遇した。これに対峙して人一倍怯えていた。自分の挙動におかしさを感じていないわけじゃないのだ。

 切符を失くしても本田を素直に頼ればよかったのだ。病院へ行くのもただ断ればよかったのだ。中々落ち着いて対応できなかった理由は、始めから今この時まで、樋口について離れない事情があったからだ。

「私が女のなりをした男子であると、気づいていますか」呼吸とともに流暢に告げる。

 本田は純日本人らしい二重の目を丸くしていた。真面目そうで、ひと昔前の文庫本と学生帽を小脇に抱えていそうな顔。おそらく驚きを携えているのだろう黒目が揺れている。

「わからなかったなア」彼は時間をかけてようやくそれだけ呟いて、こちらに向き合うように正座の姿勢をとった。

 樋口は咄嗟に嘘だと思った。だが言葉を続けた。

「男とわかっていたから、本田さんは家に上げてくれたんじゃないんですか」樋口が生まれつきの女であったら、テレビドラマのロマンス的なシチュエーションに思えたはずだ。だが樋口は姿を偽っていた為に、彼の行動が上手く読めなかったのだ。

 出会ったばかりの女を連れて帰る判断を、男子学生がそう飄々とするのであろうか。それゆえに彼に不可思議なものを感じていたのだ。無論、樋口の気にし過ぎによるものだったかもわからない。


「いつもそのなりを?」彼が尋ねる。

「……普段は学ランに決まっています。誰も知りません。私が悶々として解決できないままでいる事情です」

 そう言って通学鞄のメインポケットに畳んで入れてあったシャツとズボンを取り出した。これらは私服であったが、男物の用品の中から買ったものだ。「説明会が終わった後、隠して持ってきた今の服に着替えました」知らぬ土地で、知らぬ人の中で試みた、ひと時の挑戦であった。

 彼は「似合っていたよ」と呟く声も穏やかだった。少し躊躇うようにしてから、

「どうだった? 疲れてしまわなかったかい」と聞いてくる。

 樋口は本田には包み隠さず話してしまおうと思っていた。

「妙な思いでした。馬鹿なことをしていると吹っ切れるかと思いきや、その自分に満足しているように思えました。しかし本当に正しいことかともわかりませんでした」

「樋口は男であるなりはきらいかい?」

 樋口はかぶりを振る。

「私は名前を和也かずなりと言います。そのように名づけられ、そのように育てられました。家族だってそう思い、それを望んでいます」

 彼は、これは本田のことだが、聞く態勢に入っていた。

「いつしか、ふとわからなくなったんです。自分がどうありたいか。女になりたいとは思いませんでしたが、男でもありたくない、不思議な葛藤を知ってしまったのです」顎をさするように本田は聞いていた。

「同じように思う者がそうたくさんいたとは思えません。いたとしても、知り合う術はなかった。いつか消化して、ちゃんと大人にならなくては、と今も焦っています」

 樋口のまだ少年の残る顔は、見た目のなりさえ作れば見間違ってもおかしくないくらい中性的であったのだ。まだ何にでも染まれる成長途中であった。

 それを危惧して、本田もかける言葉を選んでいるのだろう。

 一方的に相談を聞かせることになってしまったことを後悔していた。けれどもこれも何かの縁なのだ。樋口はそう思い直した。


「樋口はおかしくないよ」とやはり彼は肯定してくるのだ。

「けれど、ずっとこのままではいけないんですよ」

「東京に頑張って出てきたんだ。十分しっかりしているし、何か今後の為になると思ってやってみたのだろう」

「……知らない土地なら、誰も自分を知らない所でなら、違う自分になってもいいような気がしたんです。田舎では大抵近所の人の顔も知っているけれど、ここいらだったら人が多すぎて覚えきれなさそうです」

「自分が、紛れてしまうからね」頷きながら言った。

「やっぱり馬鹿なことで悩んでいるんです」

「どうして。そう言うな。きっと疲れていたはずだよ」その通りかもしれない。中学生頃から自問自答を繰り返し、情報を集めようと諸本を探しては気が滅入る。いずれ思い違いだったとわかる日が来るまでと、誰にも話さず考えてきた。

「考えれば考えるだけ、引きずりこまれそうだったんです」思い返すように出た言葉は、言わんとして出たものではなかった。

「ここ最近は自分の悩みに飲み込まれないように注意する何年かでした。学校に通いながら、部活動に入りながら、家族と食事をしながら、心のどこかにいつもそれが居座るんです。決して全面には出てこないのに、いつかその悩みに浸食されてしまいそうに……」

 長い言葉の後には長い沈黙。


 歪めた視界に自分の握り拳が二つ目に入る。それらは強く締めて開かなかった。一方で前方に向かい合う本田も自身の膝の上で拳を握っていた。時折、手の甲を撫でながらこちらの話に耳を傾けていた。それを止めるのが見えると、

「樋口、大丈夫だよ。大丈夫」とかける。

 またその言葉かと若干失念する。その言葉は何にもならない。

「もう樋口の悩み、俺が知っているから大丈夫だよ」と続けられた。

 

 その時に「ああそうか」とわかったことがある。

 知ってほしかったのだな。答えが出ても、出なくても、過ごしていく日々に誰か一人でも、自分が悩んでいると知っていてほしかったのだなと思う。勿論それですべては解決しないが、いくらか過ごしやすい気持ちはしたのではないか。

 樋口はこわばる表情で「疲れたって、思ってたんでしょうかね」と、わかるはずもないことを本田に向けて聞く。

「そうだと思うよ。人は弱いんだから、不調が続けばすぐガタが来てしまう。体調だってそうでしょ? 原因がわからなくて腹が痛いとか、頭が痛いとかするとこの世の終わりみたいに思えてくる。病院にも行きづらい患部だったら余計にだ」

 彼は極めてゆっくり話した。学校の先生や相談した相手が、こちらが言葉を挟む隙を与えないくらい早口で言うのとは対照的だ。

 もう一つは彼の癖なのか、こちらを向いてはいるのだけど瞼を閉じたようにして話すのだ。樋口は大人に物申す時、どんなに些細なことであっても自分が喋っている間にこちらを見てくる瞳が大変苦手だった。だからその点においても、彼は樋口の心の関門を突破したのだ。


 彼らにおいて言葉はそんなに多くはいらなかったのだろう。

 一区切り周知を終えて樋口が顔を上げると、迷子を連れていた時と同じ柔和な微笑みでその人はいた。

「休憩していけばいいよ。疲れたろうから」と告げて立ち上がると台所に寄った。戸棚を開いて物色する。

 樋口は一度安堵したものの、またしてもこれからを思って不安になる。この人とももうこれきり会うことがなくなるならば、自分は振り出しに戻ってしまう。心が休まるのは今夜だけで終わってしまうのだ。

 すると途端に再びみじめな思いが込み上げた。

 机の下の脚を引き抜き抱え込む。ダルマのように丸まって、葛藤するのに眉をしかめる。このまま殻に閉じこもってしまえたら楽なのに、と。心の悩みなど一掃して先に進んで行かねばならないのに、どうして自分はこんなことで悩んでいるのか。


「樋口、お食べ」そう声がかかる。湯気が髪越しに伝わって、はたとする。親切心に応じる為、半ばいやいや面を上げたのを、本田はわかったかもしれない。いや、彼は人を読むのが上手いからきっとわかったはずだ。

 恨めしそうな視線の先に碗が置かれる。

「食べなよ。夕飯らしいものを腹に入れないと」具も入ってないインスタント麺がまだ沸々としている。

「お箸どれ使う?」

「……」

「他所の家の箸、嫌か? 割り箸もあるよ」答えないでいたけどあまりに申し訳ないので、黙ったまま出された箸を受け取って頭を下げる。しかし本当に腹はそう空いていないのだ。

「ごめんなさい。あまり食べられないかもしれない」

「うん、いいさ。入るだけでも食べて」

 箸を持った右手が宙を彷徨う。

 ふと「本田さんは?」と問う。本田の分の食事のことだ。

「今からそこのランドリーに行ってくるんだ。食べて待っておいて。きみのもやって来てやろうか」

「あ、いいです……。もう乾きますから」再び箸を置く。

「靴下なんかないと明日困るだろう。あっ、靴を乾かさなきゃ」

「大丈夫ですよ」

「自分の物もやりに行くの。きみのはついでだから」と決して多くはない量をかき集めた。

「麺がのびちゃうから、お食べ! 一袋を半分に割ってあるからそんなにたくさんじゃないと思うよ」手を動かしながらこちらにそう言う。手伝わないのは気が引けるが、まさかこのインスタント麺も計算の内なのだろうかと思う。

「あっ」と本田が気づいたように言う。

「ごめん。気持ちが悪かったんだよね。消化に悪いものを出してしまったなア」とやらかした顔をした。

「いえ。気分はもう大丈夫ですんで」

「ううん。残したら流しに出しておいて」先ほどから見えるシンクを指差す。



「洗いに二、三十分と乾かすのに三十分かな。一時間くらいで戻るから楽にしていて。シャワーも使って」玄関扉に手をついて靴を履きながら言う。浴室の説明も今さっき彼が片手間に済ませた。

「ありがとうございます。洗濯物お願いします」

「ハイ。寒ければさっき出した方の布団にくるまってて。眠かったら寝ていていいからね」

「外の雨はひどくないですか」玄関を開けて本田が辺りを確かめる。

「うん。ほぼ小雨みたい。帰りには止んでいるかも」

 両手に自分と樋口の物を抱えていたのに、無理にそれらをまとめて片手に傘を携える。

「帰ってくるまで留守を頼むね」ガチャンといって、扉が彼の背を隠して閉まる。

 見送った樋口は居間に戻って碗に向き直った。ほぐれていない麺を口に入れながらゆっくり飲み込んだ。正直、食事をしたい気分ではなかったけれど食べられないこともない。


 一人になった部屋を見回しながら麺を啜る。一人になれた気楽さも感じたが、心細さも秘かにあった。しかしそれも彼が帰ってくるまでの辛抱と思うと、まるで買物に行った親の帰りを待つ子どもみたいじゃないかと思えてくる。

「ばかみたいだなア」一人であるので呟くと、自分が不安になって迷いばかりの世界を右往左往している一つの原因が見えた気がする。

 私たちは幾つになっても寂しがっているのだ。どんなに大人になっても孤独とは慣れないものなのだろう。例えば何か生き甲斐か趣味でもない限り、そうでなくても気を紛らわすものに出会わない限り、人間はどうでもいいことに取り憑かれてしまうのだ。


 だって長いのだから。運命など目に知り得ないのだから、平和な世で暮らしている人間は一体いつまで頑張って進んで行けばいいのか途方に暮れてしまう。疲れてもしまうはず。

 若い自分の今後を思い浮かべると、目先の道はどこまで見えているか問われてもわからない。樋口だって例外でなかった。

 一度は頭をかすめたことがあるだろう。自分にこの先何年の未来があるのか。その時間をどのように選択して進んで行けばよいのか、誰しも迷うし不安にも思う。目標があれば原動力になり輝く未来も、皆がみなそれを持っているわけではないだろう。本当はそれを持つ事がもっとも生きやすい気がするのだが、樋口にはいまだそれがない。


 腹に溜まっていく気配を感じて息を吐く。

 人生は止まってはならない、そしてゴールがどこにあるとも知らされないマラソンだ。そうとしか思えない。走るのが得意な者はどんどんスピードを上げ、後ろから追い上げてはたちまち自分を抜かして行く者もいる。どうしても走るのが嫌いな者はその意味ばかりを考えてしまう。

 樋口は重たく感じる箸を見つめた。私は競走で順位がつくのも正直嫌だと思う性格だ。自分が嫌だと言って駄々をこねる間、自分が何もしなくても時間は一刻一刻と過ぎて行ってしまうことが余計に苦しい。そう、マラソンコースの道路はオート機能が付いていて、否が応でもランナーを運んでいくのだ。皆同じ速度で動いていく舞台に乗っている。これが時間だ。

 そして見えているのだ。他のランナーたちが走り、苦しみ、闘士を燃やす姿が各々の周りにいることを知っている。


 樋口は食事をする今も、悩みを心の片隅に置いている。誰かに話すことはできずに少々溜め込み過ぎた。口外すれば、普段の生活や今まで通りの人間関係を保てなくなることを危惧したからだ。簡単に口にできることではなかったのだ。


 都会の雑踏の中、地元の学校、クラスの中、自分の家、友達やその家族。頭に思いつく限りの小さな世界で人は過ごす。その社会と縁を切ることもできず、人は本当に狭い世界で一喜一憂を繰り返している。樋口が接しているのは学校、部活動、家族の世界だけだ。彼らは時に協力し、切磋琢磨する他、支え合うこともある。

 だが一緒にいることが苦しいこともある。気が合う、合わないは勿論考慮した人間関係に人は付きまとわれる。それを減らそうとするのも、そうすることも悪ではないし可能であるが、そう振り切ることは容易でない。適度な交流を持つ事が社会を生き抜く手段の一つであるからだ。

 なりたい自分になる為には社会と離れてはいけないのだ。自分は他人をなくして成立しないから。

 社会の中に入るから人々は「違う」「違わない」「一風変わっている」などと評価を下される。それが自分の意にそぐわないこともしばしばある。「あいつは真面目だ」というのは他の者との対比で生じ、その判定を快く思うか思わないかは当人次第だ。もっと良くない言葉を挙げれば「あいつは気持ちが悪い」なんていうのは、一体誰が誰と比較してそう思うのか。その判定は当人にとって不本意なことがほとんどであろうし、どれほど深く傷つくかもそれぞれ。ただルールを通常通り守っている者に不用意に言ってよい文言ではない。

 私はそんな風に言われたくない。できればどんな人にも、そういう自分でよいと認めてほしい。いや、よいのだと思ってほしいのでなく、本当の希望は気にしないでほしいのだ。


 そこで樋口は家族の顔が浮かぶ。自分をよく心配してくれる家族であったから、自分が何かに悩んでいると知れば最終的には自分の意見を尊重してくれるだろう。だが子どもがあらぬ方向へ進もうとしていたならば、泡を食って止めようとするかもしれない。その時には、不安ややるせない感情を当の私の方へ向けるのだろう。それは何よりいたたまれない。他の親がしない苦労を掛けるとしたならばそれについて申し訳なく思う。

 もう一つ、自分の何かを理解してもらう時、よほど関係の薄い人々が自分をおかしいと言ったとしても、何とも思わず突き通せるかもしれないが親だったらそうはいかない。育ててもらった恩に対し、後ろめたい気持ちは拭えないのだ。


 本田の部屋にいることもあり今まで考えてこなかった考えが浮かぶ。もしこのまま独り立ちしたらと考える。親に頼らず、経済面も精神面でも支援を断ったらと考えると勢いだけで決意はできない。一人で暮らしていける土台を作るまで、その家族の下を無鉄砲に飛び出すことはできそうにない。

 はたまた社会を離れ、森のような所で暮らしたらどうなるか。金銭を使わず、人と交わることもなくどこかで野生のように暮らすのだ。誰かが見て、自分を誰と理解することもない世界。

 きっとそれも樋口にとって苦しい。文化的な生活の中で自分を認識されるからこそ、自分が成り立つのだ。姿をくらましては肉体が生きていても、社会には生きていない。

 

 今思ったように社会では見かけの肉体が大きな印象材料だ。どんな人物だと認識される多くは外見。中身の精神がどうであるかなど、一握りの人しか知り得ないし、全てを周知できるともわからない。自分を百パーセント晒し、その全てを理解してくれる人などいないからだ。付き合っていればどこか誤解も生まれるし、気を遣わないことが善でもない。


 考える内、手を動かす作業への意識は薄くなっていたのに、機械的に箸は運ばれていた。脳みそが糖を求めていたのだろうか。

 確かにここへ来てからも、今までもぼうっと考え込む癖が抜けなかった。しかしこの機会にと、今いる土地に出てきた未来はどうだろうと想像してみる。

 東京のような人込みの中で、自分を演出するのはこの時世可能であろう。どう見られたいかの欲や信念は叶えられる。樋口がどんな格好をも試し終えた時、自分はこれが正しい姿だったのだとはっきりするかもしれない。それとも何てことない心の迷い、気の迷いだと言える日が来るかもしれない。

 ただまだまだ心配なこともある。次にはおそらく、自分の本心を知ってほしいと望むようになるのだ。姿を作るだけでは満足しなくなる。そして危ない橋を渡り何かを失う可能性を高めてしまう。

 そうなのだ、何かをするには準備も学習も推測も必要だ。進もうとしているコースによっては危険も伴う為、望むコースを行く上で怪我をすることのないよう対策するのだ。そういったことは経験浅い子どもながらにわかっているつもりであった。

 だからこそ思春期の不安定な心の間は下手な判断をしない。大人になるまでに考え、考え抜いて、本当に自分が選ぶべき道が見えるのを待つと決めた。そうして今日までやって来た。


 思考を巡らす内に時計の針は半分進んでいた。考えたり、食べたりするだけでやはり時間は過ぎていく。ぼんやり箸を進める内に碗の中は空になっていたので、立ち上がって水道の水にさらす。それ以上は勝手に触れない為そっとシンクに下ろしておき、箸を碗の上に橋掛けるよう行儀よくのせておく。



 アパートの浴室に物珍しく思いつつ頭上からお湯をかぶった。学生の一人暮らしというと銭湯のようなものを利用するのが常かと想像していたが知らない世界は多いようだ。雨とはちがう温度が、自分というものを一新するように駆け下りていく。家の風呂でもよく、くよくよ悩んだ時は、顔からシャワーをかぶったものだ。

 そうだと、再び思い直す。自分は今まで悩んできた過程でも決してそれに飲み込まれず客観的な自分である様に対応してきた。渦にのまれず、感情で考えない自分を立てていた。だから今の内は、自分を見つめ他には何も告げまいと言い聞かせてきたのだ。これを以降も続けて行けばいいのに、どうして自分はこんなにも取り乱したのだろうか。

 変装をしてみた心に始まり、よくも知らない本田さんへ悩みをつらつらと話す。彼は聞いてくれたものの、どう接すればいいのか困らせてしまったことも事実だろう。

 彼にとって有益なことを何ももたらせそうにもなく、静かにお湯の蛇口をひねる。悩みは十分自分でコントロールしていけると割り切っていたはずなのに、彼をよすがとしようとしてしまった。こぼれるお湯の感触に反射的に瞼を下ろす。



「ただいま。起きてたんだね」

 針が一周と、もう三分の一ほど過ぎてから本田は帰って来た。雨はすっかり上がったらしい。閉じられた傘と乾燥機にかけた衣類やタオルを抱えて帰って来た。

「まだ早い時間ですから。眠くならなくて」

「うん。よかったよ。もう少し話もしたかったから」

 そう言われて自分が話したことを思い出しドキリとする。溜め込んでいたものを吐き出せて少々すっきりした現在、先ほどの切羽詰まったものが多少薄まっている。彼が出ている間に、ひとしきり考えも巡らしてしまったので、人生相談のようなことに応じてくれようとしていたならばあまり話が続くような気がしない。もう心の中は整頓ができてしまったのだ。

 それも留守番の時間をくれた彼のおかげなのだが、自分が普通の人がしない奇妙なことをしていたことを思い出し居づらくもなる。

「最近雨が続いていたものだから、他にも人がいたよ」

 ランドリーのことだろう。樋口の心配をよそに、偏見の目を向けることなく話し出す。


 彼が部屋に持ち込んだ洗濯物や彼の周りの空気が懐かしいにおいをしていた。この懐かしさは何だったろうか。

「ランドリーに、バイトしてる先で顔見知りのおばさんもいてね。今、看病している子がいるって言ったらこんなもの分けてくれた」そう言って洗濯物の入っていた大きめのバッグというか袋から取り出す。

「あ、桃缶」

「そう。あとビタミン剤もくれたよ。家まで取りに行ってくれたんだ。いい人だろう」

「はい。本田さんこそ気を回して頂いてありがとうございます。その人にもまたお会いしたらお礼を直接言いたかったと、伝えてください」

「ハイ。了解」

 手に渡されたビタミン剤は六粒ほどがチリ紙に包まれていた。それをじっと見つめて、素直にありがたいと思う一方、

「……きれいだと思うよ。見た目は粗末だけど、そう言うことには余念のない人だし」と本田が気を遣うように言う。

「ああ、いえ違いますよ。そんなこと思ってませんよ」

「それならよかったけど」と互いに笑い合う。

「本田さんは人づきあいが上手なんですね」

「そんなことないよ」

 荷物を片付けながら樋口がそう言う。洗濯物を引っ張り出して畳む度にランドリーの横、雨の中でもうっすら感じた独特の匂いが鼻をつく。

「だって迷子を助けたり、僕を助けてくれたりしたじゃないですか。この薬なんかをくれた人にも信用されているようですし。普段から接していないと、そうもいかないでしょう?」

「信用ってほどじゃないけどねェ。仲良くして下さるんだよ」

「すごいなア。本田さんが優しいからですね」

 そう言っても温和らしい学生は綻んで受け流すだけだ。桃の缶を開けようと言って立つと流しを見て、

「あれ、全部食べてくれたんだ」と呟く。「ご馳走さまでした」と述べた後「指示してくれたら洗います」と立ち上がろうとするが止められる。


 部屋の中にランドリーの石鹸の匂いと、桃の甘ったるい匂いが充満してくる。どこか心地よく思えて安らいだ。茶を沸かしてくれる彼も、急須や皿をもってこちらに戻って来る。机の上にそれらを並べ胡坐ではなく、韓国風の片足だけ立膝にしたように座る。それを見ていてふと自分の座り方を思い出す。お邪魔していることもあり、居ずまいを正した正座であったが、まあ無難だろうと思う。

「冷やした方が美味しいかもだけど、遅くなって食べると太るから今食べちゃいなよ」とフォークを一本差し出した。向こうも自分用にフォークを持ち出していたので、一種安堵して受け取る。

 空いた缶の中の半分ほどの桃をフォークを突っ込み切り分けている。それを二つの皿に分けてくれる。

「高価だぞー」と笑いながら桃の入った白い陶器の皿を押してくる。触った皿が冷えている。

「学生の家じゃ桃缶なぞ常備していないからね」

 食べ辛くかしこまっていると

「樋口のおかげで桃缶にありつけちゃった」と冗談らしく言うのだ。自分にくれた桃の方が大きいから、きっと意識的にそう分けたのだ。

 茶と果物を飲み込みながら

「樋口、さっき君が食べたラーメンね」と彼が言い出す。何かと思いそちらへ反応を返すと、

「実は醤油と塩とみそ味から選べたんだよ」

 と言った。

 うん? と不思議な顔をしてしまった樋口の顔を見て、妙に真面目っぽい顔をして言った本田が表情を崩す。あまりに拍子抜けしてしまったのだが、聞けば「そうなのか」とわかるので

「そう、ですか」と返す。

「うん」と更に返して皿の中へ視線を落とす。果肉を小さく切る手を止めず、

「三種類から選べたけど、樋口は元気がなさそうで聞いてもよくは答えてくれないと思ったから、独断で勝手に選んで作ったんだよ」それから、

「俺が作り出す前に聞いたり、もっと会話したりしていたら、樋口は味を選んだり他の物をリクエスト出来たりしたんだぜ」とそこで手を止めこちらを見たのだ。そう言った自分を訝し気に伺ってくる樋口に対し、また間髪入れず続ける。

「これは比喩なんだ。人と関わっていくと、関係ないって思える言葉でもその、一つ一つでその先が変わるんだ」

 樋口は比喩と聞いて、心配そうな表情をわからないといったものに変える。彼はフォークで皿の淵をなぞりながら、こちらを見る。

「人っていうのはさ、知らず知らずの内に選択を狭めてしまっているんだよ」

 それは彼の経験から言うことなのか、はたまた何かの書物の引用なのかはわからない。だが樋口にもよくわかることだった。コースを選択するのはわりと自由で自分次第ということだ。けれどもその決断には失う物やリスクについて看過できず、どんどん選択は先送り、または失敗してしまう。それが恐ろしくて悩むのだ。

 踏み切ってしまうのは案外思い切りに任せてしまうものの、そこまで行くにはかなり葛藤がある。


「樋口はさあ、思春期トンネルって知っている?」最後の欠片を飲み込んだ本田が聞く。

「トンネルですか?」

「本当のトンネルじゃないよ。俺が前に人から聞いた概念みたいなものなんだ」

「思春期っていうと?」

「人生が長い道だとするでしょ。そうしたら山もあり、谷もあり、大変な道も平らな道もある」

 頷いて聞く。

「そうするとたまにトンネルが現れるんだ。長いのも、短いのもあるし、抜けてもすぐ連続して出てくる場合もある。その中を走っている時は、暗くて不安でさ、周りのことなんてそんなに考えられないの。それでもって他の道も見えなくなる。いつになったら終わるのか、ここを抜けたらどこに出るのか、わからなくなってどうしようもないんだ」

「まさに人生ですね」

「そうだ。きっと友達と一緒にトンネルに入ったりしたなら、人によってはスリルを楽しんだり面白がったりして何ともなく過ぎてしまうんだろう。一人で入っても何とも感じない人はいるかもだけどね」誰かいたならというのは一例だが、多くは深く考えずに抜けてしまう人が多いのかもしれない。

「だがね、丁度心細い時なんかにそんなところへ放り込まれたら、たまったもンじゃないだろう。例えば怪我や病気をしていたらそんなに無理ができないし、中がどれくらいの距離ともわからないトンネルに入っている間に病気になったらどうする。病院に行きたくなってもそのトンネルを抜けるまで行けないんだ」

「ええと。それが本当のトンネルだったら、そうですね」いまいちピンと来ないがそう言う。

「焦り具合は尋常じゃないと思うよ」

 そう言われ「ああそうか」と少し納得する。「トンネルの中にいる間は、何でも深刻に考えてしまうんですね」

「そうだよ。何てことない日なら『ああ目がごろごろするな』なんて思っても、気にしないか、病院に行こうかって思うくらいだけどさ。ふさぎ込んでいる時だと、視力が低下するんじゃないかとか、眼病じゃないかとか悪く考え過ぎて余計に気落ちしてしまうとかあるんじゃないか?」

「その時、家族に話してしまったら意外と自分の気持ちは落ち着いてしまったり。誰かが知っていると思うと安心するというか」

「そうそう。他の人が『病院行ったらどう?』なんて言ってきたら、案外考えがすんとまとまって、『そうだな、行って診てもらって安心しよう』って気持ちになったりするよね」

「わかります」と軽く笑いかける。

「だからやはり、一人で抱えている時が最もネガティブに陥りやすいよね。視野も狭くて、どんどん悪い方へ傾いて行ってしまう」彼は言い終わったその後に「……事もある」と念のためというように付け加える。


「それで思春期トンネルというのは、思春期の時期だけのものなんでしょうか」皿やフォークを置いた樋口が切り出す。

「そうだった。思春期トンネルはね、人生の数あるトンネルの中でも特に不安定で、増えたり減ったりしやすいんだ。ここまではこれを教えてくれた先生の言ったこと。ここからはおれの考えだけど……」と前置きして本田は足を崩す。

「思春期トンネルはとても脆いつくりをしていると思うんだ。ちょっとしたことで崩れてしまい、もしも中にいたならランナーに大きな影響を与える。思春期の一時の衝動でそのトンネルを無理に壊して抜け出そうとしてはいけないかもしれない。大人になったらそのトンネルを破って出ていくことも可能かもしれないけど、やっぱりおれは思春期の内はそれをやらない方がいいと思う。それだけその時期になにかを突き破るのは今後への影響が大きいと思うんだ。

 いつか見えてくる終わりまで到達するには、なるべく無傷で切り抜けることを考えないといけない。外に出たらまたトンネルかもしれないけれど、そんなことは出てみないとわからないんだ。この先を見に行く為におれたちは次の出口まで、と思って走るんだよ」

 やはり励まされてしまった、と思う。けれど彼の話は自分の中でよくイメージ出来ていた。きっと自分は今トンネルを走っているのだ。長くて終わりの見えないトンネルだが、出口を信じて進んでいるのだ。

「でも疲れてしまいませんか」

 彼の話を聞いて思う。

 頑張って進んではいるものの、見えない出口を目指すには途中で挫折してしまいそうだ。もし自分が力尽きてしまったらそこに自分は取り残されて、時間も他のランナーも先へと進んで行く。そんな中でどんなに困っていても誰も気づいてはくれないだろう。

「疲れるよ。おれだってまだ社会人でもないのにくじけそうなことばかり。これからもっと大人になって責任が増えたり、やらなければならないことができたら、どうしたらいいんだろうって思っている」

「辛いことがあるんですね」

 遠慮がちに言った後、「それは誰だってそうだ」と自分の発言ながら無神経に思える。

「だから今のことしか考えないよ。というか考えられないんだ。学校では先のことを考えろって習うよ。人生設計だって先へ先へ考えられる奴が成功するかもしれない。だけどもわからない未来のことを考えても、そんなに好いことはないもの。トンネルの中で迷って、どうしようもない時に次のトンネルまでの道を想像しても役には立たない。勿論外の世界が楽しみで想像を膨らませるならいいけれど、今言っているのは先への希望も何も見い出せていない場合だ。そんな時はそのトンネルを抜けることだけを目標にするんだ」


 彼はそのようにして小さな区切りを越えて進んでいるのだ。そのトンネルだけを相手にして。

「どうしたらその原動力を生み出せますか?」

 我ながら難しい質問だと思う。それでも彼はすぐに答えた。まるで答えが事前に用意されていたかのように。

「動力はない。ただの浮船か気球のようなものなんだ」

「え」短い単音が零れる。

「何もしなくても時間は毎日過ぎていくでしょ。時計の針が毎秒刻んでいくようにね。それはとても怖いのだけど、同時に救いでもあるんだ」

 本田がフォークを持ち上げて皿に溜まったシロップをつつく。水面に波紋ができて一瞬の振動の内に消える。それを手遊びするように続けている。

「どうしても気が滅入って抜け出せない日はその日一日をただ過ごすんだ。何も三六五日が辛いわけじゃない。元気が足りなくなったら休んで立ち直るようにするんだ。

 おれたちが実際にいるのはトンネルの中ではないからね。無理に何かしなくていいって決めて長い針が一つ進むまでの数を数えたり、その針が一周するのを数えたりする。一分を一つ数えたら残りは五九、一刻ごとなら日付が変わるその時刻まで。そうしている内に安心してきて、進んでいく時間に自分の体もついて行くって実感できるんだよ。

 肉体があって生きるのは苦しいはずなのに、体があって時間が動いていてくれることがおれにとっては救いになるんだ。そうして時間について流れて行った先、どこに出るかはわからないけれど、蹲ったままではなくなるんだ。

 その後はその時の自分次第だ。でもそれは未来のことだから今の俺が考えることじゃないの」

 一度大きく呼吸しそのまま続ける。

「決めているのは止まらないことだけ。水も流れがない所では淀んで次第に腐ってしまうけど、あとはなるようになるに任せることがあってもいい。今日みたいな雨の日は、雨が落ちてくるのをついつい見つめてしまうよ。それもそうして気を紛らわそうとしているみたい」そう話した後、年下の樋口に何と思われるか不安に感じたのか、いつも以上に目を伏せてそっぽを向く。

 語彙の少ない樋口は大層なことが言えないが、驚くべき過ごし方だと素直に思ったままを浮かべる。彼もまた迷い迷いながら過ごしいることと、信条として止まらないことだけは確実なのだと理解する。その時をどんな風に過ごしても未来は多数に待っている。何度選択を恐れても、生きてりゃ何とかなるの精神が今日まで彼をここへ引っ張って来たのだろう。

 黙って考えてた樋口におずおずと声をかける。

「参考になったかな……? おれはそうして来たんだ」

「ええ。ここで立ち止まって腐ってしまわないよう、励まされた気がします。こんなことで悩んでいるって思われたくなかったり、上手く伝わらないと嫌だと思って誰にも話して来ませんでしたが、打ち明けたのが本田さんでよかったです。あしらわれてしまったら立ち直れなかったと思います」

「きっとこれからも不安が溜まってしまうと思うんだ。どこかで誰かに助けを求めたり、気分を変える選択を自分でしないとそれこそ押しつぶされてしまう。樋口が常にトンネルの中とは言わないけれど、トンネルが二重になることもあると思っていい。そしたらね、SOSを挙げてほしいんだ。誰かが気づいてくれるまで、ダメにならずに一日一日何としてでも過ごし抜いて」

「本田さんのような人にもう会えるとも限らないと思うと、不安になります。あなたは僕を見つけてくれたけど、助けを求める方法も他の人にはどう助けてもらえばいいのかもわかりません……」

 彼は一呼吸間を置いた。少しだけ体の向きを変えて、膝が樋口の指先にあたる。反射で爪に近い方の関節が、後ずさりするように引っ込められる。

「樋口はSOSをちゃんと出していたんだよ。だからおれは君のことを引き留めたんだ。樋口がどんなことに悩んでいるかはわからなかったのだけれど、表情や言動でこの子は家に帰るのを恐れているのかもしれないって、考えたんだ」

「しかし、帰りたくないそぶりは一切見せないつもりでしたけど……」

「帰りたいのは本当だろうけど、その後ろに違う世界で息抜きしたいという感じもあったよ」

「……心が荒れてたんでしょう。見苦しい所を見せました……」駅で吐いたり、涙したことを思い返す。

「心の不調を体が教えてくれたんだ。このままじゃ大変になるぞって。何にも見苦しいことじゃないし、そのおかげで気づけたんだよ」

 それはもはや本田の特殊能力ではないかと思う。だがここに限っては理屈のことをどうか忘れたい。彼が自分に有益なヒントをくれたことに変わりはないようなのだから。

「きみの感情が溢れなければ、おれたちはこうして話すこともなかったじゃないか。溺れそうな樋口の助けになれて、おれもこの東京で過ごしていてよかったって思えたよ」

 自分たちを引き合わせたのは運命というシステムの一部だ。けれどこのコースは樋口の今後の分岐点をおそらく大きく変えたのだ。


 

 薄いかけ布団にそれぞれくるまり横になっていた。小さな部屋の中では場所のある空間に何とか体を収め睡眠をとるに至った。


 オレンジの小玉電球が見下ろしている。樋口はやや眩しいそれを見つめていた。ランドリーから帰って来たばかりの本田の持ち物のタオルで、厚く畳んで枕にするように渡されたものが首の下にある。やはり温かい石鹸の匂いがした。温かいとはランドリー横の室外機から出る熱風によるものの印象だ。ここへ来る途中通った瞬間に、シャボンの匂いを含んだ熱風が顔を覆った。

「何だか合宿みたい。後輩と同部屋という感じ」樋口がそのように回想していた頃ふと本田がそう言った。夜中に近くなったので静かに呟くよう話すのだが、その言葉で思い出した。

「僕も合宿が懐かしいです。去年の夏までは参加していたんですよ」

「そうかい。じゃあ思い合えたようだ」と本田。

 

 樋口の合宿の思い出といえばコインランドリーであった。部活内では友人もそれなりにいたが、合宿中のある日にランドリーの見張り当番を一人で任されたことがあったのだ。

 学校がある所よりも更に山道を行った田舎らしい所が遠征地であった。少ない滞在期間ながらそこの空気は新鮮で心地よかった。そうして打ち込むものがある内はわりと悩みに暮れることも少なかったように思う。だが気が紛れないこともあるもので、ランドリーにいる時まさにそんな心細い思いになったのだ。

 ゴウンゴウンという音に耳を立てながら必死に時を数えていた。

 洗濯が終わるまで。仲間たちが「終わった頃か?」と、宿から少し下ったここへ集まってくるまでと辛抱した。

 その時、自分は本田と同じことをしていたのだと気づく。

 人はやはり時にしがみついて、必死でついて行こうともがいているのだな。人といられたら気が紛れるがそれがない時は、止まらないという行動が大事、なのか。


 また雨のしとしという音が聞こえ始める。

「たくさん話したね。おれは樋口の悩みについては口を出せない。根本的な解決ができなくてごめん」

「いいえ」と呟いたが顔を覆った布団にくぐもってしまい、聞こえたかどうかわからない。

「けれどもね、決してダメにならないで過ごすんだよ。望むなら進学して、社会と切り離されないようについて行け。悩んでも辛くても様子を窺って散々温めたなら、よく考えて行動に移すんだ」

「今は無理に何かするなって言うんですね」

「本当に辛い時は、本当に頼れる人だけに相談して。決して一人では行動してはいけない。味方をつくってからでなければ自分がくじけてしまうよ」

 彼はとうとう悩みの核心には触れてこなかった。樋口がこれから何になろうと、何の道を選ぼうと自由で口出しすることではないからだ。

 東京に来た当初の目的を思い出す。

「今日行った大学は推薦の話をもらったから説明を聞きに行ったんです。実を言うと進学したい希望もなかったのに、ありがたいのと勿体ない気持ちに押されて断らなかったんです。家族も喜んだし」

「就職の希望があったのかい」

「いいえ。恥ずかしいですけれど何も希望はありませんでした。こんな風に悩んでいるものだから、この心のわだかまりがいつ解決されるんだろうって考える内に先が途方もなく遠く感じたんです。就職も進学もしたって仕方ない。どうせどちらの道でも悩みはついてくるんだからって」

「自暴自棄になっていやしないだろうね?」

「勿論、僕に全てを投げ出す勇気はありません。ここまで育ててもらった恩と、折角の平和な国に生まれたことに申し訳が立ちませんから……。真っ当な人間らしく生きて、その中で選択したいんです。欲張りとわかりますけど……」

 弁解しながらの言葉に口ごもる。情けないことだ。恵まれた国で自分がそうありたいと望むことにこんなに決意が必要だとは、幼い頃は誰も思わなかったろう。

 自分が変なことを言い出したら、親に、友だちに少なからず戸惑いを与える。そればかりか失う物も出てくるかもしれないし、自分自身が生きにくくなるかもしれない。

「本田さんはどうして大学を選んだんですか」誰しもが進学とは限らない当時である。学年の生徒の半分ほどは就職組がいたし、進学であっても手に職をつけたい専門学校だってあった。

「四年という時間を学生でいられるからだよ」

「本当に?」

「それらしい理由で、考えることが本分の身分と言えるんだ。この時間はおれにとって猶予でもある。樋口みたく悩みに向き合う為に使うと決めた時間なんだ。大学にかける時間も無駄にしないことが、君にも釘を刺した社会と切り離されないことの一つだから、そちらも疎かにはしない。そしたら働くよりもよほど効率的に検討時間も手に入れられるし、大卒である証明ももらえる」

「東京を選んだのはどうしてですか?」

「安直だけど、人がたくさんいる所だと思って。何かするにしても、何もしないにしても群れの中では飛びぬけて目立たないから。埋もれてしまうことが都会の欠点でもあるけれど、隠れ蓑にしようとするなら十分利用できるんだ」

「そう。ここにいる間に検討は上手く進んでいますか?」小さなアパートで暮らしながら、時には雑踏に揉まれ、大きなキャンパスで大勢の学生の一部となる生活は彼をどう変えたのか。

「進んだり、戻ったりだよ。でも今ここにおれはいて樋口と話している。これは過去のおれが「今」を頑張ってきたからだ。向き合うのは「今」だけが精一杯だけど、いつかは解決するんじゃないかって思っているよ」

 口ぶりから彼が何かを抱えていることが伺えるけれど、それに言及していいものかわからない。樋口は横になったまま縮こまった。


「本田さん」と呼びかける。「なに」と言うので、

「僕はダメにならず、きっと解決するまでわだかまりと上手く付き合って行きますよ」

「そうだといいなって思っている」薄闇の向こうの方で微笑んだようだ。

「本田さんはたくさん助言をくれましたけど、一番姿勢を正されたのは本田さん自身も何かに悩まれているみたいだってことです」

 言うべきではないのかもしれないけれど、彼もきっとこの都会の中でひしと流れにしがみつき日々過ごしているランナーなのだ。こうして出会えたのは同じコースを走っているも同然だろう。それならばその先輩であり同志に何もアクションを起こさないわけにはいかない。


 本田の後頭部に向けて発する。

「本田さんが走っている限り僕も走って行けます」何とも独りよがりだと思うだろう。しかしこれは事実にして、彼にとっても何か力を得るものだ。自分の出会った後輩が自分について走ってくる。これは錘にも見え、責任というストッパーになるはずだ。

 責任をもつと人は強くなる。その負荷に沈み込んでしまう人もいるけれど、正しく使えば挫けそうな状況を持ち直す力になるのだ。だから「社会」と「責任」と「人」は切り離せない。社会から抜け出しては自分らしさを認めることも、強く脚を踏み出し続けることもできない。

 本田は普段避けている自身のこの先を想像しただろう。そこにコースは違えども樋口が走っていることを思い浮かべる。

 本田の細めた目元に微笑みが移る。

「いいじゃないか。樋口がいるならおれも走るよ」

 

 二人はこの時を境に二度と会わないとしても、どこかで走っている同志を思い描き続けるのだろう。


「樋口、もう一つ」に反応して「ハイ」と返す。

「日記を書くんだ。毎日その日の体調、心の変化を書き留めて。記憶は忘れていくから、いつか樋口がその悩みで誰かを頼る時、そのノートを手掛かりと証拠にして行動しな。そうしたら誰か必ず協力してくれる人がいる」

「日記……、日記ですね。わかりました。書きます」

「なるべく客観的にね。記録と思ってもいい。悩んでいない日は楽しかったことでも書いていい。積み重なったら目にも見えてわかる」

「はい。……本田さんも書いていますか?」

「書いてる」と短く言って「今日の欄には樋口のことを書いた」

 この部屋には紙が多かった。本も、雑紙も背の擦れたキャンパスノートも、カレンダーや広告の白い部分を切ったものまでお目にかかれた。その中のどれかに樋口の名が記されたのだろう。

「僕も明日帰ったら、新しいノートに本田さんのことを書きます」

「光栄だ」そしてもう一言続ける。「もし誰にも言えないまま、全て投げ出したくなった時に、その書き残しは樋口がそう在った証明になる」


 躊躇ってから「本当にありがとうございます」と樋口。

「おれも寂しかったんだ。樋口がそういう悩みをもっていることに驚きもしたけれど、同時に安心したよ」

「それは、どういう……」

「樋口、きみもいつか迎えることだから言っておくよ。おれはもうすぐ思春期トンネルを抜けてしまう。許された学生の時間が終わるんだ。思春期トンネルを教えてくれた先生は、大人になるまではゆっくり自分と相談するべきだって話してくれたんだ」

 先生というのは彼が話さなかったことの内、今咄嗟に零したものだろう。きっとその話は、誰か先生であった人が本田に教えたものだったのだ。

「だけど、もう私のトンネルは終わってしまう。解決まで行っていないのに、このまま大人になってしまったらどうしたらいいだろうって。そうすると同時にわかるんだ。思春期トンネルは脆くても、行動するのを先延ばしにして、自分を守ってくれていたんだなアってことが」

 彼の言葉はそれより続かなかった。樋口は「覚えておきます」とポツリと言って、暗い部屋の中に目を凝らしていた。非常にぼうっとして、けれど直接見たら目に沁みるオレンジ色の灯りが、うっすら届く掛布団に包まれた背中を見ていた。

 その背中から「疲れたろう。おやすみ」と聞こえた。その言葉以降、部屋は音を吸い込まれたように失くした。




 翌朝、乾いた靴を履き本田のアパートを出た。実家を出る時に着てきたシャツとズボンに袖を通して、襟のあるワンピースは鞄の底へしまい込んだ。

 昨夜の雨もすっかり上がって道端の花々も生き生きと、灰色の戻って来た道路に踵が軽い音を鳴らす。本田が付き添いまずは最寄りの駅まで向かう。朝一番ではないが、昼前の電車を見定め帰ることにした。


 昨夜暗い面持ちで通った商店街は活気よく、両脇の店々が馴染みの客から観光客までに向けて元気に声を張る。

「きれいですね」「ハイ、毎度!」

「あーどっちがいいかな」客と店員の掛け合いが聞こえてくる。

 洒落た土産物屋の通りを抜けるとしばらくは住宅街。その次にお出ましの家屋を見ていくと並びは玩具屋に古書堂に集会所、鉄板焼き屋に鍋屋、居酒屋、家、家また家とここらは娯楽屋と食べ物屋が並ぶ。

 ここよりも本田の家に近い坂道にランドリーがあった。そこの道を通る時、なつかしい思い出に何かくすぐったい思いを感じながら、やはり独特の熱い石鹸の香りを吸い込んだ。

 先を行くほどそこに住む人々の生活感が強くなる。精肉屋に魚屋が二軒、酒屋も転々とある。花屋に八百屋、果物と加工菓子を木箱に並べる。花の香りと青い匂いが、空気に残る雨の残り香と混じって、ゆっくり鼻孔を抜けていく。

 日曜日の午前中を遊び回る子どもたちの声と、横を通り過ぎていく時の汗の匂い。都会らしく人も多いけれど、そこには変わらず暮らしがあり一つの社会が出来上がっていることを思う。肉屋の一階のショーケース横へ、駄賃を手にコロッケを買いに集まる子どもたちがいる。道端で話し込むお母さん方に、婆ちゃんと爺ちゃんたちも一緒になって、よっぽどカップを傾けたりなどして楽しんでいる。

 その道を進んで行く二人はその世界に溶け込んだ。奇抜なこともない二人だから、無難にただ学生らしく駅まで歩みを進めるだけだった。

 樋口にとっては珍しい景色を説明する本田は、相も変わらず柔和な表情を湛えていた。その彼の傍らで笑みを溢して歩いていく。



 昨日の人の波を思い出す地下鉄の駅が見えて来た。

 切符を買って改札を通る。まだ通らない内に、樋口は振り返り

「ありがとうございました」

「いいえ。切符とメモを失くさないように」

 樋口は一人でホームに降り立って帰路につくのだ。新幹線ではなく電車を選んだのには、その路線一本で帰れるという訳がある。勿論長い道のりではある。

 本田のアパートにあった路線図を参考に、彼が地元駅までの乗り換えを調べてくれた。日曜日だからという理由でとれないこともないだろうが、新幹線の当日切符が買えるかどうか不安があり、念の為に電車の方も気にしてみたのである。するとここから乗る線は、終点駅まで行ったら乗り換えなかればいけないものの、比較的わかりやすく直通した様子で帰れることがわかった。

「電車で帰ります」という言葉が出たのも、樋口の胆が少々座った表れかもしれない。

「気をつけてね」本田の見送りの言葉。

「はい」

「横浜まで出たら安心だから」

「はい。帰ったら貸してもらった切符代とお礼をお送りします」

 キャスケット帽の下で微笑みが浮かび、手を振った。

 樋口のラクダ色のコートと黒いズボン、それに合皮らしい学生鞄の背中はホームの下へと消えていった。

 それを見送り、本田はしばらく心配そうに立っている。その間も人は行き交う。彼の耳には靴の音と電車の発着ベルの音、秒針の音が響くのだ。本田は腕時計を確認し、樋口が降りてから随分経ったことを確かめると、やって来た道を戻って行った。




 ガラガラと玄関の引き戸を引く。

「和也! 帰って来たんか!」

「おまえ切符を失くしたって母さんが言うて」「こんなに遅くになって」

 日が沈み辺りがすっかり暗くなる頃地元の駅に到着し、こうして無事生家に帰りつくことができた。家族が順に玄関へ顔を出し出迎える。

「アンタ駅着いたら電話ぐらいしな。お父さんも迎えに行くってトラック用意して待ってたのに」駅というのは最寄りの駅のことだ。東京を立つ時に、どのようにして帰ると連絡を入れた時より彼らは、今か今かと待っていたのだろう。


「上がりな。おかえり。本田さんにはお世話になったね」

「ただいま。うん」

「カズ、本田さんは変な人じゃあないだろうね」心配そうに荷物を引っ張りながらそう言うのは祖母だ。

「とてもいい人です」樋口は穏やかに告げた。

「女の学生さんの一人暮らしの部屋にご厄介になって、ご迷惑をかけたわね」と母が首を傾けながら言う。

「そう、カズにやさしい人ならいいの」と祖母。

「電話で替わってもらった時、アナウンサーの女性みたいに丁寧な口調の人でしたわよ。お義母さん、何かお礼の菓子折りを買ってこないと」と母は語りかけながら祖母を引き連れるようにして、先に家の奥へ入って行く。


 樋口も段差に腰を下ろして靴をゆっくり脱ぐ。かけた指に力がこもらないのは疲れのせいだけではない。動揺と納得。

 昨日かぶった雨の匂いや、電話ボックス、本田の背中、桃の缶と脳内に映像が蘇る。

 この二日でたくさんの物を見て、多くを感じ経験してきた。石鹸と桃のシロップが混ざり醸し出す甘い匂いにつられて、一種の恋慕さえ意識した。

 ふと、本田に薄々感じていた違和感の穴にピースが、ピタリと当てはまったのだ。

 どうして姿や自称を偽っていたのか理由は定かでない。もしかしたら本田は、所謂心の性と自分の肉体とを違えた人だったのかもしれない。兎にも角にも樋口が妙に勘繰ったりせず、また気づかなかったのは最善だったといえるのだろう。呑気であった自分が恥ずかしくも後悔の念を持つべきなのかも悩む。

 本田は残された時間を使って精一杯自分と向き合うのだ。辛くその時間は孤独だけれど、何かを踏み出す力は十分持ち得ているはずだ。よく考えよく心配し、理知的な人だからきっと大丈夫である。

 あの人はあの雑踏の中で強い自分を演じるように過ごしているが、バスの中の本田はただそこにいるだけで、誰よりも染まらず濁りのない人だった。客観的透明感が揺れる自分を律する彼の武器だったのだ。


 樋口がシャツの上から鎖骨の下辺りに掌を据えると、人間らしい生温かい温度がわかる。心の奥とは見えないもの。そして誰であっても踏み入ることは許されない。

 本田の心の内を告げられたものはどこかにいるのかもしれない。それは思春期トンネルを教えた先生かもわからないが、樋口たちが同士であることに変わりはない。それぞれの心が、肉体とともに時間を紡いでいく限り決してその生が絶えることはない。

 さあ、和也駆けるんだ。そう自分に言い聞かす。

 立ち止まってダメにならないように、社会と切り離されずに十分検討して力を溜めろ。

「だいじょーぶ」口をついて出た台詞が所在無げにそこらへ漂う。

 どこかにあの人が走っている限り走っていける。自分が走り続ければあの人も走り続けるのだ。きっとトンネルもあるけれどその中を進んで行けば、出た先の群れのどこかにあの人も駆けているかもしれない。

 気持ちを新たに、鞄を大事そうに抱えて立ち上がる。開け放しだった玄関扉の外に黒い空が広がっていて小さな粒のような星々が目に入る。また雨模様の日には本田のことを思い出すのだろう。

「本田さん東京でも見えていますか」などと言ってはおかしいかと思い、少年のような困り眉に笑みを浮かべる。


 約束した日記の一日目の頁には、


 一晩の東京の旅を終え帰宅した。

 短いようで長い時間はあっという間で、気持ちも体も大分疲れを感じている。僕はこれから日記をつけ、本田さんの言ったように耐え忍ぶ期間を過ごす。そして東京の大学を受ける。

 最後に辛い時を過ごし切るこつを書き留めておく。一つ今日その日を頑張ること。一つ社会と時間についていくこと。もう一つ、時間が進んでいることがわかるから雨は強い味方である。

                         終わり




 あとがき

 最後までお読みいただきありがとうございます。

 悩みを抱える青少年ゆえの葛藤をストーリーに仕立てました。彼らの悩みには直接言及せず、その時期をどう乗り越えていくか問うことが目的でした。水面のように不確かで、濁ることも溢れることもある多感な時期です。思春期トンネルを抜けてもなお、そこに何が待っているのか不安になる、必死で駆け抜けたかったはずのそれにしがみつきたくなる一貫できない思い、まるで自分の中に多重の人間が住まわっているようなのが思春期だと思います。人知れず、懸命に透明であろうとしたり、染まってみようとするもがきも皆、この時期特有のものであると感じています。

 最後までお付き合いいただき改めてお礼申し上げます。

                         坂本 治


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水面下のランナーたち 坂本治 @skmt1215

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