第4話

 ついに。婚約者が居る者へ名前が記入されたラブレターが届けられた。

 しかしそんな事実を知るのは受け取った者とその周辺だけで公にされることはない。

 何故なら関係した者すべてが困るからだ。


 たとえば差出人は、思い人と婚約関係にある相手に敵対行動を取っているに等しい。

 そして個人間の対立は家同士の亀裂に発展する可能性を秘めているのは理解が難しくないだろう。

 何せ学園には未来の当主やその夫人が在籍しているわけで、ここで得た関係性のまま維持されると言っても過言ではないからだ。


 また、貰った者も婚約者に知られては何らかの不貞行為を指摘される事態に陥りかねない。

 開示・釈明した方がいいのか、それとも黙殺してしまった方が得策か……それすらも差出人の出方次第で変わってしまう。

 いいや、この場合は婚約者の解釈、度量、気分によってさえ大きく結果が変わってしまうだろう。

 どうして遠目に憧れているだけで終わらせてくれないのか、と頭を抱えるばかりである。


 もちろん婚約者にしても巨大なリスクでしかない。

 ラブレターでカップルが成立した場合、単に家同士が婚約破棄に踏み切ってくれればいいが、そうもいかないのが貴族社会である。

 もはやどうあっても穏便に済ませられるはずもなく、泥沼を演じて『婚約者を奪われた』なんてことになれば大惨事である。

 それこそ差出人と貰った者が既に通じている可能性もあり、考えれば考えるほどどうにもならない。

 ブームを楽しんでいただけなのにどうしてくれるのだ、というのが関係者の本音である。


 しかしいずれもの可能性はあくまで最悪を想定したもので、現状は『学生だから』で大体事なきを得る。

 ただし目端の利く者にとっては家や派閥を巻き込むような問題にさえ発展しかねない嫌な話には違いなく、行動に出た相手へは否応なく冷たくなるのは必至だ。

 多くの者がブームに沸く裏舞台では、そんな面倒事もごく少数行われていた。


 ・

 ・

 ・


「……は? あたしが、あなたに……?」


 連れ出されたニーナは青褪めた。

 対する連れ出した側は好意的な姿勢で、なんだったら満面の笑みを浮かべている。

 ここは学園内でも表通りから外れた校舎の影で、人通りも少なく密会するには確かに最適だろう。

 けれどそれは逃げられないという意味でもある。


「まさか君がこんな熱烈に想ってくれているなんて思わなかったよ」


「ちょ、ちょっと待ってください。何の話ですか!」


「君からあんなにも情熱的なラブレターをもらえるなんてとても光栄だよ。それに――」


「そんな……書いた覚えなんて……」


 呼び出された理由がわからず来てみれば、ニーナが目の前の彼にラブレターを送ったと言い出したのだ。

 しかしそんなことは絶対にないし、もしも思いを募らせていても名前を書くはずがない。

 だって彼には婚約者が居て、その相手はグループ内の一人で――


「ん? 照れているのかな?」


「違います! ち、近寄らないで!」


「なるほど、あの子に配慮しているんだね。うん? だとしたら名前を入れるなんて随分と大胆だね」


「だから違うと!」


 未来の王妃であるエスメラルダのグループ内で揉め事を起こすなんて、それこそ冗談では済まされない。

 派閥から追い出されるばかりか、最悪家にまで類が及びかねない。

 それこそもっと上の王家に見出されたのなら別だが、誰が好んでこの程度の相手・・・・・・・にそこまでのリスクを負うというのか。

 どれだけの苦労をして彼女のグループに入り込んだと思っている。自らで未来を断ちに行くはずがないだろう。


 困惑と怒りと不安、それに男という獣が目に色欲を揺らして迫り来る恐怖……。

 誘われるままに不用意に一人で付き従った、つい五分前の自分を平手打ちしたくなる。

 けれどどれだけ後悔しても時間は戻らず、焦る頭を回して考えても打開策は見つけられない。

 まさか初めてがこんな外で、しかも婚約者が居る相手に、それもこんなにも手軽に・・・だなんて。

 何もかもが信じられない状況に発狂しそうになりながら否定の言葉を上げ後退る。


「やめてくださいまし!」


「盛り上げるためとはいえ迫真の演技だね」


「演技などではありません! 近寄らないでください!」


「ふふ……燃えてくるね!」


 興奮に鼻を膨らませて顔を赤くし、肉食獣が獲物が追い込むようにじりじりとプレッシャーを掛けながら迫ってくる。

 動きにくいスカートではまず逃げ切れない。それでなくとも男女間の筋力差は明確で、講義に武術が混じる彼に勝てるわけがない。


 ――トン


 軽い音が体内からする。それは校舎の壁にニーナの背が当たったものだ。

 もう、逃げられない……。覚悟を決める時間もなさそうだ。

 絶望に染まるニーナは、恐怖に声も上げられず――


「こちらで何をされているのですか、クリストフェル=ヘドマン様?」


「――なっ……!!」


 ニーナを追い詰めていたクリストフェルのさらに向こう側から唐突に声が掛けられた。

 慌てて振り向いた先に居たのはエステルで、呆れるような視線まで向けられている。

 まさかのやりとりを見られて……と愉悦に緩んでいたクリストフェルの顔は見る影もなく蒼褪め、何とか「ご、誤解しないでほしい……」と絞り出す。

 しかしエステルは無視して横を通り過ぎる。

 言い訳も何もない。聞く必要さえない。

 誰がどう見ても被害者は壁際ですとんと腰を下ろして項垂れるニーナである。

 彼女の傍にしゃがんで「ご無事ですか」と声を掛ければ、おずおずと衰弱を見せる顔を上げた。


「エステル……?」


「えぇ、エステル=リンドブラードです。もう大丈夫ですよ」


「何故あなたがこちらに?」


「待ってくれ! 僕の話を聞いてくれ!」


「……少し手前でお二人の背中が見えたもので気になって」


「それだけで……?」


「だって妙な取り合わせでしょう?」


 愚かな男など完全に無視を決め込み話を進める。

 その通りだ。何故平然と従ったのか……ニーナ本人にもわからない。

 いや、グループの婚約者だからだ。どうせ彼女へのプレゼントでも相談されるのだろう、と思っていた。

 それがどうだろう。親切心でこんな危険な目に遭って……。


 絶望感に満たされていたニーナは、解放されたことで急激に表情を曇らせていく。

 押し殺していた感情が決壊を起こし、涙を、声を、もう止められない。

 エステルはやさしく抱きしめてゆっくり頭を撫で、静かに「もう大丈夫ですから」と何度も伝えて落ち着かせる。


 しかし窮地を逃れただけで、まだ問題は何一つ解決していない。

 特に背後で冷や汗をかく棒立ちのクリストフェルは「話が違うじゃないか」とか「僕は悪くない」とか。

 立ち去りもせずにうわ言のようにぶつぶつと呟いている。

 いや――


「なんで僕が悪者なんだ! ニーナ! 君が僕を誘ったくせに!」


 口角泡を飛ばして非難され、落ち着きを取り戻し始めていたニーナの肩がビクッと揺れた。

 エステルは即座に「静かにしてください」と厳しく制止する。


「事情のあるなしは知りません。けれどこんなに怯えてる女性を脅すのは違いませんか」


「う……っぐ……だけど、違う……違うんだ……」


「そうですか。わたしは興味ありません」


「待ってくれ! 誤解なんだ!」


「ご、かい……? 何が誤解なの? あたしをこんなところに呼び出したのに?」


 信じられない、とエステルの腕の中で震えるニーナが、泣き顔を上げて肩越しにクリストフェルをにらみ静かに問う。

 ついさっきまで恐怖していた相手――今もかもしれないが――だと考えればメンタルが強すぎる。

 伊達に王妃候補のグループにいる貴族令嬢ではないということだろうか。


「呼び出したのは君だろう!」


「あなたが「話がある」って呼び出したんじゃない!」


「違う! 君が手紙で『「話がある」って呼び出せ』って書いたんじゃないか!」


「そんなもの送ってないって言ってるでしょ!」


 これではただの水掛け論である。

 特に後から首を突っ込んだ身としてはどちらが正しいかもわからない。

 しかし即座にクリストフェルは「だったらこれはなんだ!」と証拠となるラブレターを取り出した。

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