エステル=リンドブラードは悪に染まる

もやしいため

001:プロローグ

 学園の校舎をつなぐ廊下を歩く少年に気付いた少女は、すぐに道を開けて深々と会釈をした。

 多くの貴族が通うこの学園で、個々の爵位を覚えるのは至難の業だ。

 だから些細な言動が不敬に当たらぬように、学園外の事情……要は家格を持ち込まないルールがあるくらいである。

 しかしそれでもやはり有名人は覚えられ、敬われる立場にあるのは間違いない。

 何より肩口まで伸びる白い髪を揺らして歩く、艶すら感じる麗しい容姿の彼はその筆頭でもあった。


「君がリンドブラードかな」


「はい、その通りですアンデルス=ラル=ハルストレム王子。けれどなぜわたしのような者をご存じなのですか?」


「近年廃位が目立つ中で、久々に爵位をもらった有名人だからね」


「ありがとうございます。臣下として誠心誠意務めさせていただきます」


「ふふ。礼儀正しいね。けれどそれは爵位を受けた君のご両親の仕事だろう?」


「えっ、それはどういう――」


 とても不思議な物言いに、思わず顔を上げて目を瞬たかせる。

 貴族の末席に据えられたはずの彼女に、まるで何も求めていないような、それでいてすべてを求められているような。

 不思議な耳障りの良さを感じた。


 そして頭を下げるために開けていた距離が縮まる。

 何事かと思わず背筋を伸ばす彼女の頬をすれ違い、かの麗しい王子は耳元でささやいた。


「エステル=リンドブラード。君は君らしく私の相手をしてくれれば十分だよ?」


 困惑するエステルは後ろに数歩後退り「それはどういう……」と唇を震わせる。

 しかし正面に立つ継承権第一位の王子は得意気に笑うだけで答えはくれなかった。


 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼


 家格は随分と劣るものの、王が子爵家を娶るのは別段不思議なことではない。

 むしろ貴族に一夫多妻制を敷く国は多く、血筋を絶やさぬために妾腹を何人も抱えているのは一般的だった。

 しかしそれには生まれながらにして貴族の由緒正しき尊き血筋を持つ者から選ばれる。

 爵位を手にしたばかりの元庶民に資格があると考える者など皆無どころか、話題にすること自体が相手方への失礼に値するほどだ。

 だから・・・廊下での一幕を盗み見ていた者から、第一王子の婚約者であるエスメラルダ=スペルディアに報告が上がったのは当然の話でもある。


「――その子、気に入らないわね」


 少し考えたのちに出した公爵令嬢のこの一言から、エステル=リンドブラードの苦難は始まった。


 いつからか仲間外れにされることが増え始めたように感じる。

 連絡事項が正確に届かず、忘れ物や遅刻を教師に指摘されるようになってきてしまう。

 いずれもが生徒が間に入って連絡する時だった。


 そして雨が降れば、人が転べばなど、小さな不幸ごとが訪れるたび、何故だか彼女が吊るし上げられた。

 関連付けられるところなどないのに、何かにつけて引き合いに出されてしまう。

 もしもそれらすべてがエステルの手によるものであれば、彼女は神であると証明しているようだった。


 彼女自身も住む世界が違った貴族たちとそりが合わない、なんてことはわかっていた。

 だとしてもこれらの仕打ちは全く別物。弱者をいたぶるための所業は、単純に排除を目的としたものだろう。

 それでもエステル=リンドブラードの心が折れなかったのは、未だ『貴族世界』の当事者になりきれず部外者感覚で居たからかもしれない。

 そして元庶民である彼女の両親は何も言わなかったが、貴族が通う学園に入学したのは世界を知るためであり、縁を結ぶためだと理解していた。

 ここで挫けるわけにはいかないのだ。


 それに商家を営む両親は元々忙しく家を空けがちだったが、貴族位を得たことで輪を掛けて時間が取れなくなっている。

 余計な気苦労をかけるわけにもいかない。

 とはいえ、つらいことには変わりなく悩みは募るばかり。

 そうしてある暑い夏の日。決定的な亀裂を生んだ日が訪れてしまう。


 ・

 ・

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 エステルが教室に入るとある女生徒の物がなくなり騒ぎになっていた。

 控え目な印象の彼女が言うには、替えの効かない高価なものではないが紛失するには高額なものだという。

 輪の中心でさめざめと泣く子を代弁する者が現れ、予定調和のようなスムーズさで犯人捜しが始まった。

 そう、彼女が『失くした』のではなく、誰かが『盗んだ』と決めつけて。


 正義の行いにヒートアップする彼女たちは、周囲の同意を得ぬままカバンの中身を改めることを勝手に決めてしまった。

 検閲官でも審問官でも教師でさえない、生徒が行うにはいささか度を越した行動も、拒否を示せば途端に犯人扱いされてしまうので誰も逆らえない。

 冷静な者ほど割を食うなんて、とてもじゃないがおかしな空間である。


 そうしてプライべートが詰まったカバンを勝手に開けられていく公開処刑が始まった。

 エステルも諦めムードでカバンを手渡せば、中から何やら見知らぬものが取り出される。


「何これ?」


 コロンと机に出されたのは精緻なガラス細工が刻まれた小さな香水瓶。

 容器自体に価値があるタイプで中身を入れ替えて使うのだろう。

 たしかに高そうなものではあるが、貴族的感覚からすると『そこまでか?』と感じてしまう。

 どちらかと言えばその香水瓶にまつわるヒストリー的な品なのだろうか。

 今まさに探していた失くし物が自らのカバンから出てきてしまったのを見て、エステルは現実逃避気味にそんなことを考えていた。


「それです! あぁ、見つかってよかった!」


「やはり貴方が盗んでいたのですね!」


「皆さんが証人です!」


「どういうことか説明してもらいましょうか!」


「これだけの騒ぎを起こしてどうするつもりなの!」


 正義を掲げた生徒が口々に煽り立てる。

 騒いだのも騒ぎを大きくしたのも本人たちで、証人などと巻き込まれる周囲を含めてたまったものではない。

 関係のないエステルも当事者に据えられ、呆けたように「それが盗品なんですね」と頷くくらいしかしようがない。

 そもそも身に覚えも見覚えもない品に説明しろというのは無茶である。


「しらじらしい! 白状したらどうなの!」


「手渡す前にカバンの中身見ましたけど入ってませんでしたよ?」


「はぁ?! わたしたちが入れたって言いたいの?!」


「いえ、単になかったですよ、と……」


「なんで犯人の言い分が通ると思っているのかしら」


「わたしが盗むとしたらカバンなんかに入れませんよ。今みたいに簡単に見つかりますし」


「見付かったから言ってるだけでしょ!」


「いえ、バレないように何処かに隠しておきますよ」


「……? どういう意味よ」


「そうすれば見付かっても誰が盗んだかわかりませんよね。というか普通は落とした、失くしたって思います」


「つまり盗んだのは嫌がらせってわけね? はっ、卑賎な考えをするものだわ」


「いえ、単に帰りに拾えばいいだけです。これで誰にもバレません」


 あっさりとした答えではあるものの、反論の余地などない。

 カバンから出て来た時点で疑われるのだから、わざわざ持っておくだけ損である。

 それならまだ帰りがけにこそっと盗んだ方が余程リスクは抑えられる。今日奪わなければならない理由などないのだから。


 しかしそんな事実ことでは正義は怯まない。いいや、いっそ強い言葉で暴言を吐き、その中には「卑しい庶民め!」なんて言葉も聞こえてくる。

 苦笑い気味に「これでも子爵家でれっきとした貴族なんですけども」とエステルも返す。

 それにエステルを貶めるのは構わないが、聞きようによっては子爵位以下を……男爵と騎士爵含めて『庶民』と言い捨てている。

 制度に真っ向からケンカを売るような発言は王家から直々にお叱りをいただくのではないだろうか、と考えてしまうほど滑稽なやり取りが続く。


「開き直って誤魔化そうとしてるのね!」


「身に覚えがなくて驚いてるだけですよ」


「謝んなさいよ!」


「えっと……私のカバンの中に盗品が入っていてごめんなさい?」


「そんなものでは許さないわ!」


「けれど盗まれたのって貴方じゃありませんよね」


「いけしゃあしゃあと!」


「今時そんな言葉使います?」


 取っ組み合いに発展しないのは貴族の学園だからだろう。

 それでも教室で繰り広げられる騒動はヒートアップし、ついには教師が介入することでお開きとなった。

 事情を聴くためにそれぞれ連れ出されていく姿はまさに犯罪者のようである。誰が、とは誰も口にしなかったが。


 その聞き取り調査の結果、盗まれた考えられる時間帯はエステルが教師の仕事を手伝っていたことが発覚する。

 無罪確定で解放されたところへ被害者から謝罪されたが、正義の行動を起こした彼女たちは不貞腐れるだけ。

 謝罪どころか『疑わせた方が悪い』などと捨て台詞を吐いて教師に注意を受けるほどだった。


 エステルはこの一件から考えを改める。

 今まで様々な嫌がらせを受けてきたものの、こんな風に一線を越えて来たのは初めてだ。

 たまたま、奇跡的に回避できただけで、今回の騒動はエステルを狙い撃ったのは明白。

 このままでは学園を追い出されるばかりか、不名誉な何かをなすりつけられかねない。


 自室に戻るまでぐるぐると危機感を募らせた彼女は、ついに時間差でブチ切れた。


「そう、貴方たちが私に『悪役』を求めるなら、キッチリなってやろうじゃない!」


 平穏な学園生活を取り戻すため、エステル=リンドブラードは拳を握った。

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