第17話
短剣に触れると、人魚姫は嘘のように消えてしまった。まるで熱に浮かされて見る幻覚のように。
「……」
死人をさらに刺す——というのは、どういう意味を持つことなのだろう。
短剣を握ったまま、少しだけ考える。肉体は既に滅んでいるのだから、次は、魂ごと壊れるのだろうか。でも、そんな神や悪魔にも等しい力を、あの彼女が持っているとは考えにくい。言葉通りに受け取るなら、彼女はあくまで「死人の記憶」を支配しているのであって、人や魂そのものを掌握しているわけではない。はずだ。
まあ、魂なんてものがあれば、の話だが。
「……疲れた」
いずれにせよ、ずっと座って考えていても何にもならない。
私は投げやりな独り言を呟いて、ソファを立つ。さっさと終わらせよう。これは……いや、これもきっと罰なのだ。死ぬのが怖くなくなるまで。いつか力が衰えて、死神から逃げられなくなるまで。それまでずっと終わらない、私の罰。
「わかりやすい問題だね」
ドアに手をかけて、呟いた。
「私は間違えたりしないよ」
一気に開くと、そこは思った通り、無人の教会だった。
夜明のような静寂。
明星のような畏怖。
空気さえ清く、肺が痛い。
ステンドグラスの極彩色に照らされた祭壇には、蓋を閉じられた棺が一つ。
私は、そこへ歩み寄る。
金と銀とで煌びやかな装飾を施された、小さな孤独の棺の蓋に、手を触れる。薄氷のように冷たく、棘ひとつなく滑らかな、虚しいくらいに上等な材質。
少しずつ、押していく。
上の蓋がずれるにつれて、闇の中で眠っていた棺の中身が、明るい多色の光に晒されていく。サファイアの瞳は灼け爛れ、あどけない顔は半分ない。桃のような肌はケロイドに覆われ、元気な腕は歪に曲がり、ふくらみかけた胸の穴からは粉砕した肋骨がいくつも飛び出ている。小鹿のような足は、両方とも膝下が骨だけで、そこにかつて美しい筋繊維だった腐肉の欠片が未練がましく引っ付いて、ぷらぷらと揺れている。
「さて」
私は短剣を取り出し、刃先を下にして両手で持つ。夢見るような虹色の光を反射してきらめく切先を、小さな亡骸の胸の中心に当て、振り下ろそうとした時だった。背後からその手を掴まれ、淑女の声が、耳元で悲痛な叫びを上げた。
「あなた——頭がどうかしてるわ!」
頭だけを回して、半分振り返る。
喪服を纏ったフェリスが、ブロンドの髪を振り乱し、黒いベールの下に隠れた額に汗を滲ませて、短剣をすごい力で抑えている。怒りに震える低い声が、激しい調子で語りかけてくる。
「どうしてここでそんなことができるのよ。普通じゃない。もうこんなにボロボロになったこの子を、なぜこれ以上傷つけることができるの? 人魚姫の童話は知ってるでしょ。それなのに、ここでナイフを捨てられないなんて……あなたは異常よ!」
私は気付けば脱力して笑っていた。それでもなお短剣だけは手放さぬよう、力を込めて握りながら、フェリスに向かって囁く。
「まさか自分は許されたと思ってるの?」
何のこと、という顔をしている淑女に、淡々と言葉を続ける。
「だって、いつでもやめられたでしょ。殴ることなんて。それでもやめなかったのは、本当は『自分は悪くない』って思ってたからでしょ。全部夫のせいにするつもりで、『弱い私はこうするしかない』って不幸に甘えて、反抗しない娘に苦労を押し付けてたんだよね。思考停止しているふりをしたんだよね。『逃げる方法なんて考えられない』『自分も被害者だから仕方ない』って心の中で色々言い訳して、無抵抗な子供のこと、ずっと殴ってたんだよね。……それなのに、なんで私に向かってそんな顔ができるの? なんで私をそんな目で見れるの? たかが夫を殺したくらいで」
別にリジーと親友だったわけではない。現実とも夢ともつかない曖昧な世界で、通りすがりに助け、助けられただけの子だ。でも、そういう立場の者にしか言えないこともある。
フェリスの瞳が戸惑いに揺れた。
「そもそもそんなことできるなら、もっと早く殺せばよかったのに。墓守とか何とか言って、結局、自分の得することしかしてないよね。もしあなたがもっと早く殴るのをやめて、死にものぐるいで一緒に逃げてれば、リジーも一人で死ぬことはなかったかもしれないのに」
フェリスの苦しみがわからないわけではない。窓の外を眺めながら、賑やかな街と人を眺めながら、どこへもいけない辛さ。手足を縛られているわけでもないのに、自分は絶対にここから動けないのだと悟ってしまう虚しさ。それはとてもよくわかる。それに私にはわからない辛さもあるのだろう。けれど。
「ねえフェリス、あなたは根本的に何も変わってないんだよ。他の誰かを責めれば、自分は自動的に悪くなくなると思ってる。リジーは優しいから、それでも許すと言ってくれるんだろうけど、やっぱりあなたは許されちゃいけないと思う」
「もう黙りなさい!」
ついに大人の腕力に負け、短剣が手元から離れる。その反動で、私は棺の蓋の上に倒れ、フェリスは後ろに倒れる。こちらが体勢を整えるよりも一瞬早く、黒い喪服の彼女は立ち上がって短剣を胸の高さで構え、冷たく言い放った。
「早くそこから離れて。触らないで。もう誰もその子には触らせない。誰にも私たちのことを傷つけたりさせない。部外者のあなたに何がわかるっていうの? 何にも知らないくせに。結婚したことも……子供を産んだこともないくせに!」
私は彼女の方を見ながら、棺を庇うように手を置き、覚悟を決めてこう言った。
「もう
人魚姫は言った。死者の世界と生者の世界は交わらない運命だ、と。
彼女は「ひねり」だと言ったけれど、短剣を使って海に戻るということは、私にとっては死ぬことであり、そして生死は永遠に交わらないのだから、捻ったところでねじれの位置になるだけだ。行くのは簡単でも、二度と戻ってこれない。
でも、もう死んでいる者なら、それは単なる縦移動になる。
「そんな、こと……」
もちろん、こんな突飛な理論が100パーセント正しいなんて、自分でも思っていない。正直ただの思いつき、単なる直感でしかなかった。しかし、それでもフェリスの顔は混乱に歪み、短剣を手にしたまま、かたかたと震えている。
「そんなこと、あるわけがない。ふざけたことを言わないで」
「いや……あなたもわかってるはず。この子の魂を苦しめてるのは自分だって」
「黙れと言ったはずよ!」
今までになく大きな声で叫んだフェリスは、激情に任せて飛びかかってきた。開きかけた棺の上に押し倒され、喉元に銀の切先が向けられる。私は唾を飲んで、恐る恐る視線を上げる。
絶望に閉ざしたベールの向こう側で、誰かによく似た海色の瞳が光った。
「だって、だって——私がいなくなったら、誰があの子を守るのよ。誰も守ってなんかくれないのよ。この世界でも、そしてきっとあの世でも。神もどうせ女なんて助けない。あの子を守れるのは私だけ。それなのに……それなのに——」
からん、と物の落ちる音。
頬のあたりに、ぽつぽつと熱い雫が落ちてくる。まるで糸が切れたマリオネットのように、私の上に崩れ落ちたあと、彼女は獣のように慟哭した。華奢なはずの体が、ひどく重たく感じる。何年分もの感情が溢れ出したような絶叫を聞いていると、私までなぜか泣きたい気持ちになる。
「……完璧に、やったはずだったの」
号泣の合間に、ぽつりと、フェリスが呟いた。
「誰も、見てなかったはずなのに。あの男を葬ったとき。なのに、あいつは私がやったことや、なぜそうしたかという理由まで、全部を知っていた。そして脅してきた。『お前の娘を汚す』って。『とうに死んでいるとしても、人の魂や尊厳を辱める方法なんて無数にある』と言って。あの男は意味のわからない秘密結社に入っていたのよ。そしてそのせいで、娘がまた傷つけられようとしていた。生きていても死んでても迷惑な、本当に忌々しい男だった。娘を守るため、私は結社に入るしかなかった。そしてまた失敗した」
泣き疲れて眠りに落ちる子供のように、彼女は顔を伏せたまま、しばらく動かなくなった。教会に、厳かな静寂が満ちる。
「……どうしたら間違えないでいられるの」
力ない声で、フェリスは言う。
「私は、私はどうしていつもうまくできないの。どうしたら償えるの。こうして馬鹿みたいに死んでしまった後で、どうしたらあの子とあなたに詫びられるの」
私は彼女の背に手を当てて、撫でてあげた。
「酷なようだけど、そんな方法ないと思う。だからこそ、間違えないように生きるしかないんだよ」
そう言うと、彼女は少し笑った。
「あなたは善い人ね。こんな私にも本当のことを言ってくれる。そして娘も助けてくれた。私よりずっと若いのに、本当に強くて、優しい人だわ」
「そんなことないよ」
「でもね、リアさん」
心底悲しそうに、大きなため息をつくのが聞こえた。
「いくらあなたが強くても、正しくても、あの悪魔にはきっと及ばない。これは嫌味とかじゃなく、『並の善人ではあいつに勝てない』という意味よ。あいつは人間の欠陥を知り尽くしてる。そしてそれらを徹底的に攻撃してくる。あいつはきっと、人間という不完全な存在そのものを憎んでいる。完璧で特別な者以外は幸せになる資格がない、とでも思ってるのね」
「あいつっていうのは、あなたの結社のリーダーのこと? 他人の秘密を許せないのはそのせいということ?」
「ええ。その通り。さっきあなたに異常と言ってしまった後で言うのも変かもしれないけど、あいつこそ真の異常者よ。私だってまともじゃないけれど、少なくともあいつよりは……いや、違う。私も結局、あの悪魔と同じなのね」
もう行くわ。
そんな風に言って、フェリスはふらりと身を起こす。
ステンドグラスの光の届かない暗闇の方へ、おぼつかない足取りで去っていく後ろ姿に向かって、少し迷った後で、こう言った。
「その人についてよく知ってるわけじゃないけど、私はあなたを悪魔だとは思わない。あなたは散々間違ったことをしたけれど、最後は剣を捨てられたもの。いつかきっと、全てを償ってやり直せる日が来るよ」
彼女は歩みを止め、目元に手をやった後で、こちらに笑顔を向けた。その笑みは、どこかあどけなく、温かなものだった。
「ありがとう。あなたの言葉を聞いていると、たとえ錯覚だとしても、あの子に許されているような気持ちになる。今まで本当にごめんなさい。その優しさが、今度は命取りにならないことを、心から祈ってるわ。あと、それから……あなた水族館に行ったことはある?」
それは思わぬ問いだったが、とにかく答えることにした。
「一応、あるよ。それがどうかしたの?」
「あのね。水族館の水槽に使われているガラスは、普通のガラスとは少し違うのよ。昔、あの子がまだ赤ちゃんだった頃、二人で行ったことがあるの。あの子は透明な水槽を見て、少し怖がっているようだった。そしたら、親切な職員が教えてくれたの。『普通のガラスだと水圧に負けてしまうけど、特別に強度の高いガラスを使っているから大丈夫だよ』と。そこで意地悪な私はこう言った。『だったら車の窓ガラスなんかも全部それにしたらいいのに』って」
急に始まった思い出話に、少し困惑しつつも、私は黙って頷いた。
「すると職員は笑って答えたわ。『それはできない。そんなことをしたら、すぐに壊れてしまうからね』って」
「え? それってどういう——」
こちらが質問を全部言い終わる前に、目の前の光景がぼやけて消えていく。「どうか負けないで」と囁くフェリスの声が遠くで聞こえ、やがて泡のように消えていった。
そして気づいた時には、最初の精神科病院の病室に、私は再び戻ってきていた。
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