第16話




「死は、この世で最も取り返しのつかない現象です」


 ナレーションは珍しく、何の名作からの引用でもなさそうな、凡庸な警句を口にした。……それなのに何故か、その言葉は、私の胸にずっしりと重くのしかかる。でもそれにもきっと大した理由などなく、ただ死ぬのが怖い臆病さのせいだろう、と思った。思い過ごした。だって私は退屈な人間で、エレミヤの言った通り、もう死んでいるも同然の人生を歩んでいるのだから。


「呆気なかったね」


 ストローでずーずーと、お世辞にもお上品とは言えない飲み方で、ドリンクを啜りながら人魚姫が言う。テレビの中では、お通夜(キリスト教だと通夜とは言わないかもしれないが、とにかくそういうもの)が始まっていた。

 白い石造りの、退屈な墓。

 黒い服を着た、大人たち。


「交通事故でした。悲しい事故。

 少なくともこの時は、彼女もそう信じていました……」


 カメラが近づき、アップになったフェリスの表情は、無だった。悲しみも、怒りも、安堵さえない。けれどそれが——最高に美しかった。喪服の漆黒が、全て彼女の感情を呑み込み、溶け合って、そこに現れたようだった。

 氷塊じみた青い瞳にかかる、細く柔らかなブロンドの髪。

 はらりと揺らして、振り返る。

 視線の先には、夫がいた。


「彼女は、やがて気付きました。

 ことの真相。娘の死因。

 けれど——もう全てが遅かったのです」


 喪服姿のフェリスが、手紙を読んでいる。場所は子供部屋……リジーの部屋だとわかった。ほんの少しだけだが、カートゥーンアニメのグッズやフィギュアが置かれているし、家具もすべてが子供のサイズだった。

 フェリスはやがて、血相を変えて顔を上げると、部屋を出ていくが早いが、家中のゴミ箱をひっくり返し始めた。綺麗な髪や服が、みるみる汚れていく。しかしそれに構うことなく、彼女はゴミを漁り続けた。


「お母さんへの、大切なプレゼント。

 それを壊され、捨てられて、娘はたいそう怒りました。

 普段はぐっと我慢して言わなかったような、父への本心からの罵倒の言葉も、思わず口に出してしまうほど……」


 人生には取り返しのつかないことがある。死、そして、死につながる全ての行動。賢い人に言わせれば、努力次第でそれらは全て回避可能だ、というのだろう。でも、全ての人が賢いわけではない。冷静沈着でいられるわけではない。


「その頃の彼女に、心と呼べるものが、果たして残っていたのかどうか……それは神のみぞ知るところ。

 それでも、彼女は実に『人らしいこと』をしました。娘の遺したプレゼントが、長らく仮死状態だった彼女の心を、冷たい氷の海から引き上げたのかもしれません」


 雪の女王の話を、ふと思い出す。

 鏡の欠片が刺さってしまったカイは、冷酷な心の持ち主になる。しかし、ゲルダの流した温かい涙によって、元の優しい心を取り戻すのだ。


 燃え盛る炎と、大破した車。

 テレビの中で、火が揺れる。


 その破滅的な性質にもかかわらず、燃える炎が見る者の心をどこか和ませるのは、きっと誰もが知っているからなのだろう。苛烈さこそが愛なのだと。

 その熱こそが、人なのだと。


「スカートを揺らす爆風の熱を感じながら、彼女は思いました。

 神は一体、何をお望みなのだろう。

 こんな男を今日まで生き長らえさせ、まだ幼い娘を天へと召した。


 何もかもくだらない。


 人間の作り出した聖書ものがたりなど、結局は強者のためのワインだ。清く正しい己の姿に酔って眠るためだけの、くだらない代物。

 私はもう、運命はなしなんて信じない。

 娘の墓を守りながら、ただ静かに寿命を待とうと——」


 唐突にテレビが消える。

 隣を見ると、リモコンを持った人魚姫が、ふわあと眠そうに欠伸をしていた。


「なんで消したの?」

「だって、つまんないじゃん」


 懐に手を入れて、彼女は眠そうに言う。


「ただ見てるだけ、聞いてるだけなんて、本当に退屈。それに、私にとってはこんなの、再放送の再放送の再放送……みたいなものだしさ」

「そうなの?」

「うん。今はせっかくあなたみたいな生者がいるんだから、どうせならもっとリアルで、生々しくて、命の実感のあることをしないとね」


 懐から出てきたのは、美しい短剣だった。


「知ってるよね? これは私の専売特許。物語のクライマックスで出てくるやつ。姉たちが海の魔女と契約して、長い髪と引き換えにもらう、魔法の剣だよ」

「それをどうするの?」

「そうねぇ……『物語の中に拳銃が出てきたら、それは必ず発射されなければならない』だっけ? これは剣だけど、まあ、基本は同じだよ。もしあなたがこの剣で、リジーを刺せば、あなたは現実うえに戻してあげる。原作では海底したに戻るから正反対だけど、それくらいの方がひねりがあって面白いよね?」


 そう囁いて、彼女は、短剣を私の手に握らせる。


「思いっきり、ぐっさりいっちゃって。私、あの子うるさくて嫌いなの」


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