第15話




 本当に久々に涙を流した。と思う。



 顔を洗ったり、にわか雨に降られたりしたわけでもないのに、こんなに目と頬と手が濡れているなんて、変な感じだな。

 泣きすぎてぼんやりした頭で、そんなことを思う。すっきりしたような、眠いような。判然としない意識で、テレビに目を向ける。


 映画はまだ続いていた。


 マイフェアレディなんて、いつ以来だろう……日時は全然覚えていないのに、憧れと共感だけはちゃんと覚えている。「エピソード記憶」という言葉があるけれど、そういう出来事についての記憶と、それに伴う感情の記憶は、案外別々の場所に記録されているのかもしれない。


「……幸せになりたかったなぁ」


 口をついて、そんな言葉が出る。


 いつだって、『幸せ』は架空のものだった。菓子パンのヒーローや、未来世界の猫型ロボットと同じ。実際には、私に甘いパンをくれる人はいないし、たとえ有能なロボットがやってきても、私以外の子を選んで、私などには気づきもせず、どこかでのほほんと生きていく。


「まあ、仕方ないか」


 だからこそ、私は歌が好きだった。

 そんなことを思い出しながら、目の前にある水のグラスを手に取って、飲む。

 それは私にとって、幸せの欠片を舐めるような行為だった。私のものにならなくても、その味を少しだけでも味わってみたかった。固い砂糖菓子の断片、ふわふわケーキの切れ端、誰かの飲み残したココアの一滴。そんなものでも、口に含めば無条件に甘くて、現実じごくを忘れるほど美味しいのだった。


「泣くほどつまらない映画だった?」


 ふと女性の声がして、見ると例の人魚姫が立っていた。眠そうにあくびをしながら、ネグリジェを翻して隣に座る。

「ううん。そんなに酷くない」

「そう?」

「暇つぶしにはちょうどいいお話だよ。不幸で退屈な人生のね」

 くすくす、と妖精のような笑い声。

「前に私の通ってたメンタルクリニックの先生が、こう言ってたよ。『本当に不幸なことは、自分に与えられた幸せに気づけないことだ』って」

「それなら私も聞いたことある」

「へえ。どう思う?」

「別になんとも。あなたは何て言ったの?」

「『クソ喰らえ』」

 舌を出して中指を立てる人魚姫に、私はつい笑ってしまった。

「はは」

「まあ、あのブルネットのいけ好かない年増女の心療内科医が、父親に犯されたあとで生理が来たことに安堵する少女時代を過ごしてたなら、話は別だけどね」

「いずれにしても無能な医者だよ」

「言えてる」

 そもそも自分が救われる前に人を救おうとする方が間違っている。人の痛みを知らないくせに説教したがる奴も救いようがないが、自分が虐待されたからといって、他人を甚振る側に回るなんて、それこそ下らない。


「ねえ、チャンネル変えていい?」


 リモコンを手に取る彼女に向かって頷き、服の袖で顔を拭う。

「淑女とか姫とか、柄じゃないんだよね。どーでもいいし。それでもまあ、『花売りかレディかはどう扱われるかで決まる』みたいな台詞にだけは同意するよ」

 大画面に映し出されたのは、ありふれた出産シーンだった。ドキュメンタリー番組のような演出で、ナレーションが淡々と感動を語っている。


「元気な赤ちゃんです。なんて可愛らしいのでしょう! まるで可憐な花のよう。彼女はこれから、どんな人生を歩んでゆくのでしょうか……」


 ビー玉にも似た青い瞳。

 ぐったりした顔つきでベッドに伏せる女から、「フェリス」と優しく呼びかけられた赤ん坊が、えーんえーんと泣いている。

「……『ひとが生まれてきた時に泣くのは、この馬鹿共の檜舞台に引きずり出されたのが悲しいからだ』」

 そんなことを呟いて、私は水を飲む。

「本当にそう思う」

「あー、なんだっけそれ? マクベス?」

「忘れた」

 テレビの映像は、また別のシーンに変わっていた。清楚な服を着せられた少女時代のフェリスと思しき子が、窓辺で本を読んでいる。窓の外では、少年たちがギャーギャーと楽しそうに、鬼ごっこ遊びをやっていた。フェリスはそわそわと外を見て、やがて本を置き、部屋を出る。ナレーションがまた語った。


「幸せとは、青い鳥。

 外に出て探し回っても無駄なこと。

 最後は部屋の中で見つかるのです」


 フェリスが乳母らしき女に手を引っぱられて、部屋の中に戻ってくる。弱々しく抵抗する少女に、乳母はたくましい腕で平手打ちをした。

「あーらら」

 人魚姫(いつのまにかポップコーンバケツを持っている)が、キャラメルポップコーンを口に放り込む。

「痛そう」

 次はデートシーンだった。二十歳くらいのフェリスと、整った顔立ちの青年が歩いている。二人は笑顔で手を繋ぎ、新緑の美しい並木道を歩いている。電子ピアノのエモーショナルなBGMに合わせて、ナレーションが言う。


「恋は目ではなく、心で見るもの。

 そう、目に見えるものなんて、何の意味もないのです。

 顔も、仕草も、立ち振る舞いも……」


 場面が変わり、今度は屋内で、フェリスが料理を作っている。その腕にはいくつもの痣、傷。キッチンの窓を遠く眺めて、ため息さえつかず、無表情のまま佇んでいる。

「結婚は人生の牢獄、かぁ」

 気づけば私の持っていたグラスも、コーラの入った紙コップに変わっている。甘いものは好きなので、一口飲んでみる。冷たくてしゅわしゅわで、フルーティな香りが鼻を抜ける。かなり美味しい。

「男と女なんて、看守と囚人だよね。ま、うちの親もそんな感じだったけど」

 暇を持て余す女学生みたいにぼやく人魚姫から、ポップコーンを勧められて、ひとつ手に取る。口に含んで、噛み砕く。泣き疲れた体に、焦げたキャラメルの味がたまらない。


「さあ、新しい命の誕生です。

 なんて尊い瞬間なのでしょう!」


 場面は再び、出産シーンになっていた。

 しかし最初のは俯瞰視点だったが、これは妊婦の視点からの映像だった。大きく開いた足の間から、たくさんの『顔』が覗く。先程の夫と、夫と同じ茶髪の老夫婦、そして金髪の老夫婦。苦悶の呻きに、やがて元気たっぷりの産声が混ざる。


「人ってこうまでして生き延びていく価値ある?」と人魚姫。


 義理の親にまで足の間を覗き込まれる気持ち悪さもさることながら、生まれた赤子を求めて伸ばすフェリスの手が痛々しい。泣き叫ぶ赤ん坊は、祖父母の間で順に回され、いつまでも母のもとにはやってこない。


「『人間を好きになれ』だとか、『人間を尊敬しなさい』とか、そういう説教かます奴って、本当に馬鹿なんだなって思うわ。誰も好き好んで、人嫌いとか人間不信になってねーっつーの。あんたがたまたま恵まれた環境に生まれただけじゃん。人の気持ちも考えず、厚かましく生きていい権利を持って生まれたからって、自分の魂まで偉いとか、クソみたいな勘違いもほどほどにしとけって話」


 太陽王かよ。

 長い独り言をつぶやきながら、人魚姫はくすくす笑っている。めちゃくちゃな言葉ではあったけれど、確かに、彼女の言い分には一理あった。

 見えないところで相手を人間嫌いにさせるような嫌がらせに邁進している奴ほど、表では「他人を愛せ」と息巻いて語る。ひとを信じられなくなるような信じがたい暴力を振るう奴に限って、「人を信じられないのは悲しいことだ」などと言い放つ。言葉になんて意味はない。綺麗なことを語る奴は、往々にして己の後ろ暗さを隠したいだけなのだ。


「母親は、子供にとって最初の先生です」


 ナレーションが入った後、幼児になった娘、そしてフェリスと夫の三人がテーブルについている様子が映った。食卓のご飯のメニューが気に入らないらしく、顔をひどく歪めて泣く娘に、夫が怒声を飛ばす。怒られてさらに激しく泣く娘に、彼は今度は尖ったフォークを投げ、妻に向かって「俺は疲れてるんだ」と怒鳴る。

 彼女は黙って娘を抱き上げ、別室に行く。

 そして静かな密室の中で、出来立ての紅葉のように小さな娘の手を、きつくきつくつねりあげた。


「さいってー」


 と、人魚姫。

 不幸な結婚だな、と私も思う。でも、私も世の中を良く知っているわけではないけれど、この世に不幸ではない結婚があるのかどうか、それすらもわからなかった。私の両親は見た目、幸せそうではあった。でも時々、その幸せは、耐えがたい不幸から目を逸らすための空元気のようなものなのではないかと思うことがあった。


 そのあとも、彼女フェリスは虐待をし続けた。


 暴言を浴びせ。

 持ち物を壊し。

 手足をぶった。


 彼女の娘——リジーことエリザベスは、不運なことに、それでも前向きで純粋だった。いくら母に虐げられようと、母を憎む素振りは決して見せず、明るく元気に笑っていた。内心葛藤はあったのかもしれない。でもきっと彼女は、虐待それが母の愛だと信じていたのだ。少なくとも、テレビの中の彼女は、そんな目をしていた。

 それは、彼女が11歳になるまで続いた。


「よりにもよって、こんな家に生まれてこなくてもよかったのにね」


 男並みに利発で、運動が得意なリジー。

 でも控えめで品のある淑女レディを望む親……ことフェリスの夫・エドワードにとって、そんな長所は馬の糞ほどの価値もない。そして彼自身は手を上げないけれど、彼が苛立てば苛立つほど、フェリスは躾に熱を入れた。何かを恐れているかのように。


 この先の展開が大体読めてきたところで、私はコーラを一口飲んだ。甘いもので大抵のことは誤魔化せる。脳に効くのもブドウ糖だし、脳が動くようになれば、恐怖への解決策も思いつく。

 砂糖は偉大だ。

 悪趣味なドキュメンタリーを見るときは、やはり甘味は欠かせない。


 

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