こうさする果実

池田蕉陽

こうさする果実



 衝動に駆られる、とはこのことである。


 教室の窓の隙間からエル・カミーノ・レアルが風に乗って流れてきた。音の出処が隣接する校舎にある、吹奏楽部の部室からだということは容易に見当がつく。やや距離もあって、音は聞こえずらい。コントラバスの重低音だけが、篠田雅弘の鼓動を加速させていた。


 知らない曲が耳に届く放課後、雅弘を除いては誰もいない2年3組の教室、掃除組が早く帰りたいからといって適当に並べた机、そのうち一つの机の上に置いてあるソプラノリコーダー。


 雅弘の目にはリコーダーしか映っていなかった。雅弘のものではない。誰かが忘れて帰ったのだ。また、その誰かが誰であるかは彼は知っていた。


 リコーダーが置いてある場所は、米倉真子という女子生徒の席だった。リコーダーカバーの名前欄にもそう記入されている。やはり彼女ので間違いなさそうだった。


 雅弘は、今朝の音楽の授業で米倉真子がこのリコーダーを吹いているところを思い出した。厚くも薄くもない丁度いい桃色の唇を吹き口につけ、『故郷』を奏でる。いや、この際なにを演奏するかなんてどうでもよかった。雅弘が目に浮かべるのは、彼女の唇だけだった。


 自分が、よくないことを考えている自覚はあった。皆に知れたら、残りの中学校生活の幕が閉じることも重々理解していた。ただでさえ、友達もいない憂鬱な生活を送っているのに。にも関わらず、抑えられない欲求があるのも確かだった。


 米倉真子の透き通るような裸体を脳裏に焼き付け、夜な夜な自慰行為に耽ったことは何度もあった。休み時間、トイレの個室にこもってしたこともある。彼女とは一度も喋ったことはないが、雅弘の妄想の中では二人は恋人同士だった。


 雅弘自身、自分がどうしようもない変態であることは認めていた。だが、これくらいの経験は健全な中学生なら誰でもあるとも思っていた。実際に周りの男子が話しているのを耳にしたことがある。


 しかし、これから雅弘がしようとしていることは、明らかに一線を画した行為だった。決して許されることではない。触れてはいけない、禁断の果実なのだ。


 それでも雅弘は、悪魔に魂を売る覚悟は既にできていた。陰気な雅弘がこの先、陽気で容姿端麗の米倉真子と親しくなれる可能性はゼロに等しかった。なら、目先の楽園に溺れてしまえ、と雅弘は欲望に従った。


 雅弘は唾をひとつ飲み込んだ後、米倉真子のリコーダーを手に取った。カバー外し、中から本体を取り出す。吹き口を見た瞬間、俺は間違っていなかったと確信が持てた。たまたま忘れ物があって取りに帰ったのが、思わぬ幸運に遭遇したものだと笑みが漏れた。


 我慢できない。雅弘は目の前の肉に飛びつく獣の如く、米倉真子のリコーダーに唇を絡めた。


 涎と吹き口が粘着して、聞くに耐えたい音が教室内に響き渡る。エル・カミーノ・レアルなんて耳に入ってこない。雅弘は自分の世界に入り込んでいた。無論、その世界には米倉真子もいた。


 雅弘の世界で、雅弘は米倉真子とキスをした。果実のような甘美が口内に広がった。お互い服を脱ぎ、雅弘のベッドで事は始まる。言うまでもなく、現実世界の雅弘の下半身も勃起している。さすがに教室では、という躊躇いもあったが、米倉真子の喘ぎ声を聞いた瞬間、そんな迷いは一瞬で吹き飛んだ。


 ファスナーを下ろし、出した。いつものようにマスターベーションに走った。


 エル・カミーノ・レアルは、いよいよ終盤に突入した。





 待ちに待った音楽の授業が始まった。佐藤相馬の胸は今朝から弾みっぱなしだった。ようやく、夢が現実になるからだ。その時が来るのを、相馬は二週間も待った。今までで一番長い二週間だった。


 彼が夢を現実にする奇怪な発想を思いついたのは二週間前だった。実行に移したのは一週間前。一週間前の音楽の授業、彼は終了間際にこっそりと米倉真子のリコーダーと自分のリコーダーを入れ替えていた。もちろん本体だけだ。カバーだけは米倉真子となっていて、中身は相馬のリコーダーとなっている。


 こんなことをした理由は、ただ自身の性欲を晴らすために他ならなかった。相馬のリコーダーで『故郷』を吹く米倉真子を目に捉えて果てたかった。とてつもない気持ちよさが訪れるに違いないと確信していた。


 その快感が、今まさに来ようとしていた。


 音楽の先生が、自分に続いて吹くように、と指示を出す。それから、生徒が一斉にリコーダーの吹き口に唇をつけた。


 相馬は、右に座る米倉真子に目を向けた。


 なんでだ、と彼は心の中で呟いた。


 米倉真子が口をつけず、訝しそうに相馬のリコーダーを眺めていた。


 すると、最悪な展開になった。


「すみません。これ私のリコーダーじゃないんですけど……」


 12月だというのに、身体中の毛穴から汗が噴き出した。


 終わった、そう思い再び米倉真子に向こうとすると、彼女の右横に座る男子生徒にふと目が移った。


 たしか名前は篠田、同じく冴えないやつ。彼もまた、相馬のように汗で顔が濡れていた。


 その理由を何となく考えてみたが、すぐにどうでもよくなった。

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こうさする果実 池田蕉陽 @haruya5370

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