第2話 俺、発表が無事終わったら告白するんだ

 発表を終えた俺だが、疲労困憊ひろうこんぱいで、他の発表を聴く余裕がない。しかも、時差ボケで眠いの何の。というわけで、さっさと、ホテルの301号室に戻ることにした。301号室は俺が泊まっている部屋だ。


「ね、眠い……」


 部屋に戻ってきて、時差ボケによる眠さと、発表が終わった安堵から来る眠気が一気に襲ってきてくる。でも、19:00には起きないと。


 アラームを19:00にセットして、睡魔に身を任せる。


◇◆◇◆


 ピピピ、ピピピ。


 アラームの音で目が覚める。ちょうど19:00だ。時差ボケのせいもあるのか、睡眠が足りていないが、寝る前に比べるとだいぶマシだ。この後、一世一代の大勝負があるのだ。ちょっとくらいの眠気でへこたれていられない。


「よし!」


 両手でほほを叩いて、軽く気合を入れる。軽くシャワーを浴びた後は、着替える。ついでに、髪もきちんと整えて、念入りに歯も磨いておく。


 準備万端。約束の20:00も近い。さあ、出発だ。


 廊下に出ると、薄暗いのを感じる。このホテルはどの階を見てもそうで、ホテルが古いせいだろうかと思う。


 エレベーターで5階に昇り、彼女の部屋へ。ちょっと古めかしいチャイムを押して、彼女が出てくるのを待つ。一体、何年物のチャイムだろうか。


「ああ、善彦よしひこ。待ってたわよ」


 部屋のドアを明けて出てきたのは、涼子りょうこ。シャワーでも浴びたのだろうか。少しシャンプーの匂いがする。それに、既に寝間着ねまきに着替えて言る。夏用の、薄くて涼しげな水玉模様のパジャマが、よく似合っている。


「ひょっとして、シャワー浴びたのか?」

「さすがにこの暑さだと、ちょっときついわね」


 トロントは夏真っ盛り。最高気温は30℃。日本の夏に比べれば遥かにマシだけど。


「善彦もシャワー浴びたんじゃない?」


 くんくんと、俺の首元に何気なく鼻を近づけて匂いを嗅ぐ彼女。そういう行動を平然とされると、思わずドキっとしてしまう。


「あ、ああ。暑かったからな」


 告白の前に身だしなみをきちんとしておきたかったからなのだが。それにしても、こういう仕草を無自覚にされると、男としてはきついものがある。


「とりあえず、どこか座りなさいよ」

「じゃあ、遠慮なく」


 勧められるがままに、空いているベッドに座る。


 あてがわれたホテルは、ツインルームしか空いておらず、俺も彼女も広めのツインルームに一人で宿泊している状態だ。つくづく豪華だと思う。


「それで、話って?重要な話って言ってたわよね」


 もう1つのベッドに座った涼子が真っ直ぐ俺を見据えてくる。その怜悧な視線の前に怖気づいてしまいそうになる。どう切り出そうか。


「あのさ、これまで色々あったよな」

「うん?まあ、そうね」


 何を言っているのだろう、という顔で応じる彼女。しまった。唐突過ぎたか。


「確かさ。俺とお前がWikiに記事を載せたのがきっかけだったんだよな」

「懐かしいわね。今となっては、研究ごっこみたいなものだったけど」

「それを、大学の先生が見つけて連絡取ってくるんだもんなあ」


 幼少期からコンピュータに興味があった俺達だが、不思議と、プログラマーになろうという方向性にはならず、むしろ、学問としての計算機科学けいさんきかがく方面に傾倒していったのだった。


 計算機科学、あるいはコンピュータ・サイエンスは、コンピュータや計算に関する事を扱う学問だ。元々は、数学の一分野から派生したものだけど、今やコンピュータに関するあらゆるものを扱うものがコンピュータ・サイエンスと呼ばれている。


 そして、中学3年の頃。計算機科学の一分野である形式言語けいしきげんごに関する過去の研究を自分たちでまとめて、Wikiに載せたのだった。


 形式言語は、計算機科学の中でも、とりわけ数学基礎論と呼ばれる、数学「それ自体」を研究する数学と関係が深い分野なのだけど、早くから「数学とは何か」に興味を持っていた俺達は、二人してそれに夢中になった。夜通し互いの部屋で議論したり、教室でもよく喧々諤々の議論を交わしていた。


 過去の研究を調べることをサーベイと言って、研究者にとっては日常的な作業なのだが、当時の俺たちはサーベイという事も知らなかった。ただ、それぞれが読んだ論文をまとめた結果を載せただけだった。


 そのWikiをたまたま、形式言語の分野における世界的な権威の1人である増原ますはら先生が見つけて、メールで連絡を取ってきたのだった。


「増原先生が居なかったら、俺達の人生変わってるよな」

「そうね。通ってる高校も違ったんじゃないかしら」


 進学先の高校も、当初はあまり深く考えていなかったものの、それをきっかけに、コンピュータに強いと言われている高校を選ぶことになった。


「今日まで2人で色々やったきたよな。初めて論文書いたときとか」


 増原先生に勧められて、初めて論文を執筆した時の事を思い出す。色々な事が初めて尽くしでとても大変で、でも、楽しかった。


「私も、あれは大変だったわよ。LaTeXラテフなんて初めて使ったもの」


 LaTeXは、論文執筆に広く使われているソフトウェアで、文書の細かいレイアウトまで指定できるのが特徴だ。取っつきづらく、はじめてLaTeXで論文を書いたときは色々苦労したものだった。彼女は、習得するのが早くて、もっぱら俺の方が色々教えてもらっていたのだが。


「で、俺がおおざっぱなもんだから、お前に間違いをさんざん指摘してもらったり」

「善彦は発想は鋭いけど、細かい間違いに鈍感なんだもの」


 何かを思い出しているのだろうか、少し微笑みながらそんな事を言ってくる。自分でもケアレスミスをしやすい方だと自覚しているので、少し恥ずかしい。


「それを言われると、グウの音も出ないな」


 こいつは、誤字脱字にだけでなく、細かい間違いを発見するのが得意で、今回の論文でもさんざん指摘を食らったのだった。


「それでさ。これまでも2人でやってきたわけだ」


 どうやって、話を切り出そうか。そんな事を考える。


「そうね。ちょっと興味の方向は違うけど」

「お前は、俺より理論寄りだしな」


 俺は、プログラマーが実際に直面する問題を解決したい応用寄りなタイプ。彼女は、たとえば「計算とは何か」を問うような、もっと理論寄りのタイプだ。


「これからも、興味が近い話だと一緒にやってくことも多いと思うんだ」

「そうね?」


 不思議そうな顔をする彼女。ちょっと、遠回し過ぎか。


「俺は、研究だけじゃなくて、もっと個人的な方向でも一緒に居たい」


 我ながらなんとも遠回しなことだと思う。


「個人的な方向って……あ!」


 ようやく気づいたのか、なんだか落ち着かない様子になって来た。手をもじもじさせたり、貧乏ゆすりをしたりしているけど、この反応はいいのか悪いのか。


「ずっと好きだった。これからは、恋人としても一緒に居て欲しい」


 ロマンチックな言葉を色々考えてきたのだが、出てきたのは平凡な言葉。さぞかし動揺するかと思っていたのだが。


「う、うん。私で良ければ、喜んで」


 戸惑いながらも、躊躇ちゅうちょなくYESの返事が返ってきたのだった。


「そんな即答していいのか?」


 自分で告白しておきながら、即答されると少し不安になる。


「正直、ちょっと意外だったけど、私も好きだったもの」


 そんな答えが返ってくる。


「マジか。そう見えなかったけど」

「あんまり顔に出ていなかっただけよ」

「昔から、割とポーカーフェイスだよな。お前」


 挙動不審なものの、恥ずかしがったり、頬を染めている様子もない。


表情筋ひょうじょうきんの問題かしらね」


 なんて、冷静に自己分析しながら、自分の頬を伸ばしたりしている。


「なんか、思ってたよりあっけなかったな……」


 嬉しいものの、即答されるのが予想外だった。


「そんなものじゃないかしら」


 あんまり変わらない表情で答える涼子だが、少し微笑んでいるのがわかる。


「恋人になっても、研究は続くんだし、そんなものか」

「そうよ。明日は、聴きたい発表が目白押しだし」


 早くも、国際学会2日目に思考を切り替えていらっしゃる様子。先生の金で学会来させてもらってるんだし、いつまでも色恋がどうとか言ってられないか。


「そうだな。この後は、日本に帰ったらで」

「そうね。あ、明日の発表論文見ておかないと」


 ノートPCを開いて、今回の国際学会で発表される論文を読み始める涼子。こうして、あんまり色気が無い告白が終わったのだった。


「俺も一緒に読んでいいか?」


 さすがに、告白だけだと味気なくて、もうちょっと一緒に居たかった。


「もちろんいいわよ。あ、でも、まだキスとかエッチとかは、なしよ」

「俺を一体何だと思っているんだ」


 一応、自分は紳士的に振る舞っている……と思う。


「冗談よ。そういうのは、帰ってからゆっくり、ね」

「お前、からかったな?」


 やり込められたのが、少し情けない。


「ちょっとくらいいいでしょ?ほら、一緒に論文読みましょう」


 そうして、寝る時間になるまで2人で明日の論文を読みふけったのだった。ホテルの1室に、2人きりで肩を寄せ合うというシチュエーションに俺は実はドキドキだったが、それは秘密だ。

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