第2話 俺、発表が無事終わったら告白するんだ
発表を終えた俺だが、
「ね、眠い……」
部屋に戻ってきて、時差ボケによる眠さと、発表が終わった安堵から来る眠気が一気に襲ってきてくる。でも、19:00には起きないと。
アラームを19:00にセットして、睡魔に身を任せる。
◇◆◇◆
ピピピ、ピピピ。
アラームの音で目が覚める。ちょうど19:00だ。時差ボケのせいもあるのか、睡眠が足りていないが、寝る前に比べるとだいぶマシだ。この後、一世一代の大勝負があるのだ。ちょっとくらいの眠気でへこたれていられない。
「よし!」
両手で
準備万端。約束の20:00も近い。さあ、出発だ。
廊下に出ると、薄暗いのを感じる。このホテルはどの階を見てもそうで、ホテルが古いせいだろうかと思う。
エレベーターで5階に昇り、彼女の部屋へ。ちょっと古めかしいチャイムを押して、彼女が出てくるのを待つ。一体、何年物のチャイムだろうか。
「ああ、
部屋のドアを明けて出てきたのは、
「ひょっとして、シャワー浴びたのか?」
「さすがにこの暑さだと、ちょっときついわね」
トロントは夏真っ盛り。最高気温は30℃。日本の夏に比べれば遥かにマシだけど。
「善彦もシャワー浴びたんじゃない?」
くんくんと、俺の首元に何気なく鼻を近づけて匂いを嗅ぐ彼女。そういう行動を平然とされると、思わずドキっとしてしまう。
「あ、ああ。暑かったからな」
告白の前に身だしなみをきちんとしておきたかったからなのだが。それにしても、こういう仕草を無自覚にされると、男としてはきついものがある。
「とりあえず、どこか座りなさいよ」
「じゃあ、遠慮なく」
勧められるがままに、空いているベッドに座る。
あてがわれたホテルは、ツインルームしか空いておらず、俺も彼女も広めのツインルームに一人で宿泊している状態だ。つくづく豪華だと思う。
「それで、話って?重要な話って言ってたわよね」
もう1つのベッドに座った涼子が真っ直ぐ俺を見据えてくる。その怜悧な視線の前に怖気づいてしまいそうになる。どう切り出そうか。
「あのさ、これまで色々あったよな」
「うん?まあ、そうね」
何を言っているのだろう、という顔で応じる彼女。しまった。唐突過ぎたか。
「確かさ。俺とお前がWikiに記事を載せたのがきっかけだったんだよな」
「懐かしいわね。今となっては、研究ごっこみたいなものだったけど」
「それを、大学の先生が見つけて連絡取ってくるんだもんなあ」
幼少期からコンピュータに興味があった俺達だが、不思議と、プログラマーになろうという方向性にはならず、むしろ、学問としての
計算機科学、あるいはコンピュータ・サイエンスは、コンピュータや計算に関する事を扱う学問だ。元々は、数学の一分野から派生したものだけど、今やコンピュータに関するあらゆるものを扱うものがコンピュータ・サイエンスと呼ばれている。
そして、中学3年の頃。計算機科学の一分野である
形式言語は、計算機科学の中でも、とりわけ数学基礎論と呼ばれる、数学「それ自体」を研究する数学と関係が深い分野なのだけど、早くから「数学とは何か」に興味を持っていた俺達は、二人してそれに夢中になった。夜通し互いの部屋で議論したり、教室でもよく喧々諤々の議論を交わしていた。
過去の研究を調べることをサーベイと言って、研究者にとっては日常的な作業なのだが、当時の俺たちはサーベイという事も知らなかった。ただ、それぞれが読んだ論文をまとめた結果を載せただけだった。
そのWikiをたまたま、形式言語の分野における世界的な権威の1人である
「増原先生が居なかったら、俺達の人生変わってるよな」
「そうね。通ってる高校も違ったんじゃないかしら」
進学先の高校も、当初はあまり深く考えていなかったものの、それをきっかけに、コンピュータに強いと言われている高校を選ぶことになった。
「今日まで2人で色々やったきたよな。初めて論文書いたときとか」
増原先生に勧められて、初めて論文を執筆した時の事を思い出す。色々な事が初めて尽くしでとても大変で、でも、楽しかった。
「私も、あれは大変だったわよ。
LaTeXは、論文執筆に広く使われているソフトウェアで、文書の細かいレイアウトまで指定できるのが特徴だ。取っつきづらく、はじめてLaTeXで論文を書いたときは色々苦労したものだった。彼女は、習得するのが早くて、もっぱら俺の方が色々教えてもらっていたのだが。
「で、俺がおおざっぱなもんだから、お前に間違いをさんざん指摘してもらったり」
「善彦は発想は鋭いけど、細かい間違いに鈍感なんだもの」
何かを思い出しているのだろうか、少し微笑みながらそんな事を言ってくる。自分でもケアレスミスをしやすい方だと自覚しているので、少し恥ずかしい。
「それを言われると、グウの音も出ないな」
こいつは、誤字脱字にだけでなく、細かい間違いを発見するのが得意で、今回の論文でもさんざん指摘を食らったのだった。
「それでさ。これまでも2人でやってきたわけだ」
どうやって、話を切り出そうか。そんな事を考える。
「そうね。ちょっと興味の方向は違うけど」
「お前は、俺より理論寄りだしな」
俺は、プログラマーが実際に直面する問題を解決したい応用寄りなタイプ。彼女は、たとえば「計算とは何か」を問うような、もっと理論寄りのタイプだ。
「これからも、興味が近い話だと一緒にやってくことも多いと思うんだ」
「そうね?」
不思議そうな顔をする彼女。ちょっと、遠回し過ぎか。
「俺は、研究だけじゃなくて、もっと個人的な方向でも一緒に居たい」
我ながらなんとも遠回しなことだと思う。
「個人的な方向って……あ!」
ようやく気づいたのか、なんだか落ち着かない様子になって来た。手をもじもじさせたり、貧乏ゆすりをしたりしているけど、この反応はいいのか悪いのか。
「ずっと好きだった。これからは、恋人としても一緒に居て欲しい」
ロマンチックな言葉を色々考えてきたのだが、出てきたのは平凡な言葉。さぞかし動揺するかと思っていたのだが。
「う、うん。私で良ければ、喜んで」
戸惑いながらも、
「そんな即答していいのか?」
自分で告白しておきながら、即答されると少し不安になる。
「正直、ちょっと意外だったけど、私も好きだったもの」
そんな答えが返ってくる。
「マジか。そう見えなかったけど」
「あんまり顔に出ていなかっただけよ」
「昔から、割とポーカーフェイスだよな。お前」
挙動不審なものの、恥ずかしがったり、頬を染めている様子もない。
「
なんて、冷静に自己分析しながら、自分の頬を伸ばしたりしている。
「なんか、思ってたよりあっけなかったな……」
嬉しいものの、即答されるのが予想外だった。
「そんなものじゃないかしら」
あんまり変わらない表情で答える涼子だが、少し微笑んでいるのがわかる。
「恋人になっても、研究は続くんだし、そんなものか」
「そうよ。明日は、聴きたい発表が目白押しだし」
早くも、国際学会2日目に思考を切り替えていらっしゃる様子。先生の金で学会来させてもらってるんだし、いつまでも色恋がどうとか言ってられないか。
「そうだな。この後は、日本に帰ったらで」
「そうね。あ、明日の発表論文見ておかないと」
ノートPCを開いて、今回の国際学会で発表される論文を読み始める涼子。こうして、あんまり色気が無い告白が終わったのだった。
「俺も一緒に読んでいいか?」
さすがに、告白だけだと味気なくて、もうちょっと一緒に居たかった。
「もちろんいいわよ。あ、でも、まだキスとかエッチとかは、なしよ」
「俺を一体何だと思っているんだ」
一応、自分は紳士的に振る舞っている……と思う。
「冗談よ。そういうのは、帰ってからゆっくり、ね」
「お前、からかったな?」
やり込められたのが、少し情けない。
「ちょっとくらいいいでしょ?ほら、一緒に論文読みましょう」
そうして、寝る時間になるまで2人で明日の論文を読みふけったのだった。ホテルの1室に、2人きりで肩を寄せ合うというシチュエーションに俺は実はドキドキだったが、それは秘密だ。
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