「今日、飛び降ります。」
神埼えり子
「今日、飛び降ります。」
『七月十五日。今日、飛び降ります。』
早朝のSNSに投稿されたその投稿は、最初は見向きもされなかった。
名無しを名乗る初期アイコンのそのアカウントは、誰も自分を見ていないことなど気にも留めぬ様子で更新されていった。
『場所は東京都、国会議事堂近くのビル。議事堂からよく見える場所で飛び降りを行います。』
『予定時刻は午前十時。状況によって変動の可能性はありますが、原則として午前十時を過ぎることはありません。』
投稿は安定して行われていた。物好きな誰かが、面白いものを見つけたと顔に出さずに笑いながらそのアカウントを拡散した。
火種となった誰かから、そのアカウントは瞬時に人々に認知されていった。誰も飛び降りなど信じていなかった。状況が変わろうと、そのアカウントの態度は変わらなかった。
『私は某高校に通う現役の女子高校生でした。幼い頃からテレビで見るモデルに憧れ、モデル業界に携わることが夢でした。』
『今となっては夢も意味のない空想です。この国で夢を叶えても何も変わらないと、私は悟りました。』
女子高校生。その告白にSNSは瞬時に沸いた。
画面を眺め唖然とする者。咄嗟に飛び降りを思いとどまらせようと返信を送る者。バカ出現、と拡散する者。不埒な妄想に浸る者。
国会議事堂がよく見えるビルの屋上で、少女は一人微笑みながらSNSを眺めていた。彼女は全てを赦すような慈悲に満ちた目をしていた。どんな者も、彼女は大いなる母のような目で眺め、受け止めた。
『午前八時になりました。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。あと二時間で、私はこの国に別れを告げます。』
『予定地のビルの前には人が集まり始めています。私の最期に立ち会ってくれる方がいるこの事実に、私は胸がいっぱいです。この場を借りてお礼を申し上げます。』
『飛び降り女子高生』のワードがトレンドに上がり、SNSは『飛び降り女子高生』の話題で持ちきりになった。誰もがこの瞬間、彼女に釘付けだった。出勤ルート、通学ルートから飛び出して、数多の人々が国会議事堂前のビルに駆けつけた。
少女はその様子を眺めながら、屋上に学校用机を運び入れた。その次に、いくつもの古紙の束のような紙束を運び入れた。人がたくさん集まっている国会議事堂側のフェンス側に紙束を置き、身を乗り出して人々を眺めた。人々が初めて彼女の姿を視認した瞬間だった。向けられたスマホやカメラのレンズに、彼女は慈しく微笑みかけた。
『午前九時になりました。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。こちらは今、飛び降りの準備が整いました。あとは時を待つのみです。』
『車道を埋め尽くすほどの立ち会ってくれる優しい皆さんに深く感謝します。しかし、これ以上交通を妨げるわけにもいきません。あの車道が完全に人で埋まった時、午前十時になっていなくても飛び降りをすることにします。もうしばらくお待ちください。』
『飛び降り女子高生』は、立会人と呼ばれた野次馬達に姿を晒しながら投稿した。スマホに文字を入力するその姿は姿勢が非常によく、とても美しかった。姿を現してから今まで、彼女は一瞬たりとも微笑みを絶やさなかった。周囲には警察や万が一のための救急車も集まっていた。警察官が少女に説得するも、少女は微笑んで頷きながら聞き流すだけだった。数人の警官がビルの中に突入していったものの、屋上に姿を現すことはなかった。
少女は何があっても姿勢を変えず、スマホの画面を眺めていた。時々ビルの下に集まる人々を見て、また視線をスマホへと戻す。これを繰り返していた。
『午前九時半になりました。国会議事堂で勤務なされている職員の方々、見ていますか。皆さんにも、議員の方々にも、私の最期に立ち会っていただきたいのです。どうかよろしくお願いします。』
投稿はまたも野次馬の前で行われた。その人の壁は道路を埋め尽くしつつある。遠くを見回すように辺りを眺めまわし、少女はまた投稿した。
『屋上に遺書を用意しておりますが、ここでも書かせていただきます。地面に落ちた私の体のどこかが切れたり割れたりしてしまったら、どうか生前のままのように縫い繕ってください。せめて家族には綺麗な私を覚えていてほしいのです。そのままの姿で火にくべられたいのです。遺書に重ねてここにも書き留めておきます。よろしくお願いいたします。』
高所から飛び降りた人間の体がどうなるかを知っているかのような投稿に、人々は震え、ある人々は何とも言えぬ寂しさのようなものを感じた。そしてその投稿は、別れの始まりを告げるものだった。
『午前九時四十八分。少し早いですが、これにて私はこの国を旅立ちます。老い先短いこの国で生きる皆さんのご健闘をお祈りします。それでは、さようなら。』
投稿を読んだ人々は、順々に視線を少女へと向けた。少女は静かにスマホを足元に置いて、側にあった紙束の封を解いた。そして、彼女から微笑みが消えた時。彼女は力一杯に紙束を放り投げた。
人々はあっけにとられていた。次々に紙束は投げられた。空から舞い落ちる紙に、ある人は大きな赤い文字を見た。それらは全て、ビラ紙だった。
そして、ビラ紙の一枚が地面にふわりと舞い降りたのを視認して、少女は微笑み。
軽やかにビラ紙達の後を追って飛び降りた。
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